巡り歩けば巡り合う

「いい天気だなあ、どこかへ出掛けるか」とふと思った。大阪と接する京都府乙訓おとくに郡の大山崎は9月に訪れていたので、隣りの長岡京市へ行ってみることにした。仕事で何度か訪れている土地だが、駅周辺しか知らない。駅で地図を手に入れ、西山浄土宗の総本山、光明寺こうみょうじが紅葉狩りのスポットだと知り、バスを待つ人たちを横目に麓を目指して歩くことにした。

人混みもなく比較的静寂な境内で晩秋の景色を堪能した後、公園でカレーパンのランチ。帰りもバスに乗らずに歩くと決めた。歩くなら別ルートでと思い、住宅地の細道をジグザグと縫いながら乙訓寺と長岡天満宮に寄ってみようと歩き始めた。寺を目指して歩き始めて数分、ぼくより少し年配の夫婦らしき二人が三叉路の右手から歩いてきた。目と目が合った。

「こんにちは、どちらからですか?」とご主人が話しかけてきた。大阪と言ったものの、漠然としているので天満橋と言い足した。地名はご存知だった。「どちらに行かれるのですか?」と聞かれる。見知らぬ土地なのでキョロキョロと家並みや住所表示を見ていたから、迷い人として映ったのに違いない。「乙訓寺へ行ってみようと思っています」と答えた。

「家に帰るところで、ちょうどそっちの方向に行くところです」と言い、ご主人は案内人となって乙訓寺と弘法大師の話を語り始めた。ほどなく住宅地にある乙訓寺窯跡の前に出た。

話によると、奈良時代の89世紀に乙訓寺の瓦を焼くために作られた窯で、発見されたのは1966年とのこと。住居の土台部分が窯跡。何かの拍子に崩れたようだ。「ここは私の息子の家です。よろしければ先に向かいの方へどうぞ」と別の家を指差す。案内されたのはご主人の住居の裏庭。石や古木が所狭しと置かれ、柚子の木なども植わっている。

あまり他人の仕事を聞くことはないが、聞いてみた。雪舟筆法の水墨画家とおっしゃる。十代の頃に書道と絵画に少し打ち込んでいたので、話についていけた。向かいの窯跡の扉が開いたので中を見せてもらう。扉を開くと扉の裏側に、ご主人の手になる龍の絵が無造作に貼ってあった。

長話をしたわけではないが、水墨画と書道はワンセット……みたいな話にもなり、亡き父・岳翠がくすいが書道の合間に水墨画も描き印も彫っていたと伝えたところ、「私は篆刻は梅舒滴ばいじょてき先生に学びました」とご主人。「えっ、あの篆刻の? うちの父の書の師範は今井凌雪りょうせつ先生ですが、篆刻は梅舒滴先生に師事していました」。ご主人78歳。ぼくの父は生きていたら96歳なので、ご主人の18歳上の兄弟子ということになる。

別れ際に自宅隣りの別邸の木からもぎたての檸檬と柚子をいただき、教えてもらった道順で乙訓寺と長岡天満宮に寄って帰路についた。一昨日、姉にこの話をした。父が篆刻をしていたのは知っているが、師匠の名前までは知らなかった……梅舒滴は初耳……その水墨画家に会ったとしても、私だったら「あ、そうですか」で終わってたなあ……と姉。父が篆刻を始めたのは姉が嫁いだ後だからやむをえない。

不案内な土地で特に当てのない巡り歩きをしていたら、少々縁のある人と話に巡り合って昔を偲んだというエピソード。

惰性的な行為と時間を減らす

かれこれ10年以上、毎朝小1時間ストレッチをしている。ストレッチの内容を体調に応じて変えたり、深い呼吸をするように意識している。これからも続けるつもりだ。やめたいと思ったことはない。また、嫌々やっているのでもない。つまり、ストレッチは惰性ではない。歩くのは1日平均8,000歩。これも惰性ではない。

これまでやって来たからという理由だけで、あまり考えもせずに続けてきた習慣があった。習慣形成しようと意識しない習慣もあったし、やめたいのになかなかやめられない習慣もあった。このような習慣は「惰性」と呼ぶべきものだ。

ほとんど何も考えずに、昨日今日と行為してきて、おそらく明日もそうするだろうという惰性的習慣の代表はコーヒーだった。手持ちぶさたになると、口には出さなかったが、「コーヒーでも・・飲むか」という感じで飲んていた。コーヒーを嗜んでいたつもりが、気がつけば惰性で飲んでいた。惰性でコーヒーを飲むのをやめてから、コーヒーがおいしくなった。日々のシーンでコーヒーの存在が大きくなり濃密な時間が持てるようになった。

惰性は急流に似ている。その流れに抗えなくなり意思や主体性を失うようになる。コーヒーの他には、テレビを見ること、本を買うこと・読むことが惰性になっていると気づいた。出社して朝一番に掃除したりコーヒーを淹れたりするのは意味のあるルーチンになったのに、PCにスイッチを入れて何げなく画面を眺める行為は相変わらず惰性のままだった。

惰性の最たる習慣がスマホの操作。惰性ではない朝のストレッチが小1時間なのに、惰性でスマホを触るのが23時間になってしまっていた。仕事のためや生活上の必要があって使っているのではない。スマホが趣味、スマホを使ってSNSを楽しむのはそれ以上の趣味というわけでもない。

生活のあらゆる場面から惰性を消すことは難しい。やむなく惰性に行き着く過程ではいろいろあったはず。コーヒーにも、突然の来客や打ち合わせなど、惰性にならざるをえない経緯があった。強迫観念や焦りから読書も惰性的になっていたかもしれない。

怠けて眠ってばかりいることを「惰眠だみん」という。転じて、特段したいことがあるわけでもなく、また自らの強い意志で何かをするわけでもなく日々を過ごすことを意味する。適当に惰性的生き方をしてきたので、一気に「脱惰性的生き方」ができるとは思わない。それどころか、惰性とまったく無縁の生き方がどんなものなのか想像できない。

ともあれ、「他に価値ある選択肢があったのに、つい惰性的時間を過ごしてしまった」と、一日の終わりに振り返ることには意味がある。スマホとSNSの時間を減らしてから、惰性とそうでない行為・時間の違いを認識するようになった。毎日を同じものにしマンネリ化するのが惰性の本質。しかし、今日が昨日と同じ、明日が今日と同じではつまらないのだ。

近場ぶらり散策

大阪市中央区の東西の真ん中、南北の北端に天満橋がある。ここにオフィスを構えて35年、「このエリアなら隅々まで勝手知ったる……」と言いたいところだが、そうはいかない。未踏の地もあれば、更地になって様子がわからない一画も少なくない。

先週ワインを嗜む食事会を催した。大学の後輩5人が参集。飲み食いしてハイおしまいではもったいない。大阪にあまり詳しくない遠来の3人と午後の早い時間に近場を散策することにした。天守閣まで足を延ばすと時間が足りなくなるので、城の西側の外堀までに区切って一巡り。それが下図のルートである。

 起点:釣鐘町1丁目のオフィスを出発。

 谷町1丁目の交差点。ここから東方向に比較的大きく天守閣が見える。大きく見えるのは直線距離ゆえ。10分ほどで行けそうに見えるが、実際は大手門を通って迂回するので半時間かかる。

交差点から北へ下る「大きな坂」が大阪の由来と言われる。マユツバっぽいが、どうやら本当らしい。

 昆布店のある場所が八軒屋浜の船着場跡であり、このあたりから熊野街道が始まる。立派な無料の冊子が置いてある。

 道路を北に渡れば大川。ここが現在の八軒屋浜で観光船の発着場になっている。

 土佐堀通りを東へ少し歩くと、6カ月前に開業したヒルトン大阪城が現れる。歩道橋に上がると左方向に天守閣が姿を見せている。コテコテではなく、凛とした大阪城を眺められる数少ない絶景ポイントの一つだ。

 大手門。門をくぐれば、正面に城内ベスト10に入る3つの巨石がある。

 大手門から南へ、堀の角あたりが六番櫓の堀向かい。秋が深まる晴天の日には空と紅葉のコントラストが美しい。

 まずまず広い公園になっている難波宮跡なにわのみやあと。一時的に大阪に都があったことを知らない大阪人がかなり多い。

 谷町筋に出ると、気づかずに通り過ぎてしまうような碑が建っている。井原西鶴終焉の地。もちろん、西鶴がここで交通事故に遭って死んだのではない。道路向かいの鎗屋町の自宅で亡くなったのである。

 福沢諭吉が学んだ適塾には大村益次郎も在籍していた。その大村の寓居跡は現在クリニック。大村も医者だったので、クリニックは子孫筋かもしれない。

 町名になっている釣鐘。かつて釣鐘屋敷があった。現在、コンピュータ制御によって午前8時、正午、日没の3回鐘が鳴って時刻を告げる。ここにも無料の小冊子が備えてある。

 終点:200メートル北上して起点に戻った。

旧地名ノスタルジア

過去は記憶と記録の中にある。特に当てのない街歩きの途中に出くわす旧跡の碑や案内板などの記録から歴史や由来を思う。自分の記憶とつながりやすい碑とそうでない碑がある。そうでない碑は案内板を読んでもわからないので、散歩中に巡り合った縁だと思って少し調べるようにしている。

大阪市中央区はかつて商売の中心地だったので、いろいろな物品の取引所跡が少なくない。綿も信用取引の対象になった。江戸時代、大阪の摂津、河内、和泉は、大和・三河・遠州と肩を並べる、良質な綿花の産地で知られていた。こんな旧跡の案内板に出くわすと、しばし佇んで読み、写真に収めておく。


1987年に旧東区の内淡路町うちあわじまちで起業したが、2年後の1989年(平成元年)に当時の東区と南区が合区して中央区になった。同じ年に、通り三つ北の釣鐘町つりがねちょうに移転した。内淡路町も釣鐘町も旧東区時代の町名がそのままだ。さて、下記の町名である。

越中町えっちゅうまち東雲町しののめちょう仁右衛門町にえもんちょう両替町りょうがえちょう唐物町からものちょう紀伊国町きのくにちょう左官町さかんまち半入町はんにゅうちょう豊後町ぶんごまち弁天町べんてんちょう元伊勢町もといせちょう八尾町やおちょう広小路町ひろこうじちょう山之下町やまのしたちょう横堀よこぼり黒門町くろもんちょう

見た目も響きも江戸時代に名付けられた町名で、当時の風情が伝わってくる。惜しいことにこれらの町名は中央区になって消えた。弁天町は西区にあるが、中央区の弁天町とは関係がない。横堀は東横堀川に名をとどめるが、住所として存在しない。同じく、黒門市場はあるが黒門町はない。

今日のところは地名の由来や旧町名の案内板について詳しく書かない。個人的には東雲町の語感が好きだった。市電の停留所にもその名があり、「次はしののめちょう、しののめちょう」と告げる車掌の口調を覚えている。仁右衛門町はつい最近までしらなかった。池波正太郎の『雲霧仁左衛門』の時代が思い浮かぶ。材木町が生き残っているのだから、左官町も残せばよかったのに……。

合区して中央区になった頃、大阪市の郊外に住んでいたので、どんな過程を経て旧名を消し新しい名称にしたのか、あるいは別の町名に再編したのか、決まるまでに一悶着があったのかなどについては知らない。大阪市中央区民になってまもなく20年。街歩きで知る地名や町名はノスタルジアを感じるきっかけになる。

「よく知らない」という自覚

梅田のある北区のすぐ南の中央区の住民だが、梅田のことをあまりよく知らない。行かないわけではない。むしろ、学生時代から今に到るまでちょくちょく出掛けている。迷って困り果てることはないが、必ず少し迷う。だいたいわかっているようで、実はあまりよくわかっていない。

梅田の駅前再開発計画がずいぶん長く続いていて、今もなお現在進行形である。うめきたプロジェクトという。これもぼくの梅田感覚を狂わせる一因。近頃誕生したグラングリーン大阪に人が集まり賑わう。梅田が盛り上がっているのである。そして盛り上がりに比例して物価も上がっている。


インド・ネパール・スリランカ料理はよく食べる。キャリアはかなり長く、初心者に蘊蓄したり指南したりできると思う。しかし、何事もそうだが、経験値が上がるにつれて知らないことも増えるものだ。何事も、たとえ得意な領域であっても、新しい情報がどんどん押し寄せてくる。

ここでは詳しいことは書かないが、カレーにつけて食べるパンの類にナン、ロティ、チャパティなどがある。日本のインド・ネパールの店では、本場ではあまり食べないナンが出てくる。チーズナンやガーリックナンというのもある。数年前に入った店で初めて「サダナン」という文字を見た。ナンではなく、「サ、ダ、ナ、ン」。

後で調べようなどとは思わない。すぐさま店員に聞いた。サダナンはプレーンのナンのこと。つまり、何も混ぜたりせず何も足さないシンプルなナン。メニューに「サダナンの追加は1枚無料」と書いてあるが、所望する時はナンと言えば済む。いつも食べていたナンの苗字は「サダ」だったのである。


世界史に比べると、日本の歴史に詳しくない。いろんな本を何冊も読もうとしたが、途中で挫折した。平安時代の貴族の生き様や文化と相性が悪く、たいていそのあたりで本を閉じた。縄文時代から飛鳥・奈良時代までは何度も読んでいるので、まずまずわかっている。貴族の時代をパスした後は一気に幕末・維新に飛んだので、そのあたりも少し知識はある。

秋分の日に自宅から安居神社まで歩いた。目的地はもうちょっと先だったが、迂回したり寄り道したりして1時間弱。神社は真田幸村終焉の地である。そのことは知っている。ふと、なぜか明智光秀を思い出す。この時代はほぼパスしているので本では読んでおらず、ドラマや歴史ドキュメンタリーで齧る程度。真田と明智、どちらが年長か歳の差はどのくらいか、言い当てる自信がない。

境内に石垣が積んであり、道場か修行場の立て札があった。これはいったい何か、気になってしかたがない。ネットで調べても何も出てこなかったが、翌日も辛抱して追いかけたら、明治時代に奈良からやって来た「中井シゲノ」という霊能者と巫女集団の話を見つけた。

関連する本も2冊あるようだが、まずはネットで少し深掘りしてみよう。よく知らないどころか、まったく何も知らないが、梅田やサダナンよりもおもしろいエピソードがありそうな気がする。

背の高い人と背の低い人

最初のオリンピックの記憶は1960年のローマ大会である。その4年後の1960年の東京大会はしっかり見た。日本人選手の金メダリストが全員言えるほど今もいろいろ記憶している。学校でサブノートのような五輪ガイドが販売され、それをいつも手元に置いていた。競技/種目別の金銀銅のメダリストとその国名を書き込めるようになっていた。

さて、パリ五輪もいよいよ最終盤となった。よほどのことがないかぎり、深夜に五輪観戦しないと決めていたので、テレビを見るのは夕方から零時までだ。

スポーツを見ていていつも思うのだが、柔道・レスリング・ボクシングのように体重別に階級が分かれる競技はあるが、身長別に階級を分ける競技はない。身長に関しては誰もが無差別級で闘うことになる。体重差は競技に影響するが、身長差は関係ないという見立てだ。

下記は競技別男子の平均身長である。

プロ野球選手(日本):   179cm
バスケット(世界):    192cm
サッカー代表(日本代表): 178cm
バレーボール(日本代表): 190cm

ちなみにMLBドジャースの大谷翔平は193cm。バスケット日本代表のホーキンソンは208cm。その横に体操で金3個の岡慎之介(155cm)を並べると、倍も違わないけれど、倍以上違うように見えるはず。6月に心斎橋を歩いていたら、バレー日本代表の山内晶大を見掛けたが、204cmがどれだけ目立つ存在か思い知った。

周囲に200cm越えの「日常的存在」はいなかったし、今もいない。学生野球をしていた遠戚が一番の高身長で、たぶん185cmだった。

先週末、レストランで食事を終えようとしていた時、グループが入店してきた。一人が店内を見渡すが席はない。すかさず立ち上がって「もう出ますから、どうぞ」と声を掛けた。後に続いていた中に巨人がいた。「なかなかこんな人には会えない」とつぶやいたら、グループみんなが微笑んだ。「デカいねぇ、何かスポーツやってた?」と月並みに問えば、「バスケットです」と想定内の答え。「今は会社員」と言う。「あ、そう、背が高いだけの会社員?」と、もうちょっとで言いそうになった。

昔、関東に玉川カルテットという浪曲漫才があった。メンバーの一人が身長145cm。浪曲調で「♪ 金もいらなきゃ女もいらぬ わたしゃ も少し背が欲しい」と歌った。身長が売買できるなら、ただ背が高いだけの会社員の25cmを浪曲師に売れば、175cmの会社員と170cmの浪曲師としてハッピーになれるだろうか。

背の高い人はみんな頭をよくぶつける。もう一つ、うんざりするのは「何かスポーツやってた?」と尋ねられることらしい。あの200cmの会社員はうんざり顔をしなかった。聞かれるのを喜びとする人がいても不思議ではない。

文房具の過剰

どれだけの歳月が人生に残されているか知らないが、毎日必死に文字を書き綴っても使い切れないほどの筆記具が自宅と職場に溢れている。筆記具とその周辺の道具、つまり各種文房具を備えていると言うよりも、無駄に過剰に置かれているというさまである。

今の時代、PCかスマホ1台があれば、一応何がしかの文を作れる。機器がなくても、1本の筆記具と1枚の紙があれば手書きもできる。

かつては文をしたためるには筆、すずり、墨、紙の「文房四宝ぶんぼうしほう」が必需品だった。正確に言えば、水を入れておく水滴も必要。水滴から硯に水を注いで墨をすり、筆を手に取って墨汁を吸わせて紙に筆を運ぶ。時間を十分にかけて気息を整えて文字を書く。書道具に贅沢に凝ったのもうなずける。能筆の凝り性は水にもこだわり、わざわざ湧水を汲みに行った。

「万年筆を愛用している」などと言ってはみるが、休みの日にも職場に置いたままで、ペンケースに入れて自宅に持ち帰ることはほとんどない。たまに持ち帰るが、ペンケースから取り出して一筆することはめったにない。「この週末こそ万年筆で書くぞ」と自らを鼓舞しても、水性ボールペンで済ませてしまう。

これだけの筆記具を手元に置いて、いったいどうするつもりなのか……どう見ても過剰である。文案づくりやコラムを書くのは仕事の一つではあるけれども、手書き経由でなく、いきなりキーボードを叩いて文章を作っているではないか……。

ところで、文房具の文房とは元々「書斎」の意味だった。書斎でものを書くために揃えた道具が文房具である。いつの間にか、文房具は書くことから周辺に広がり、ホッチキスや定規や付箋紙やクリップなども仲間に加えるようになった。それでもなお、ペンとインク、シャープペンシルと芯(念のために消しゴム)、ノート・紙が書くことの基本だ。

以前に手書きメモしたことを以上のようにPCでブログを書いて編集した。出番のなかった筆記を横目に見ながら、しばらくは絶対に筆記具を買わないぞと決意している。

ホールスタッフとの会話

ジョークⅠ 3人の客に対応するボーイの件』

ボーイ 「ご注文は何になさいますか?」
A  「私は紅茶」
B 「ぼくはレモンティーで」
C 「私も紅茶。カップはよく洗ってね」
(しばらくして、ボーイが紅茶をテーブルへ運ぶ)
ボーイ 「レモンティーのお客様、どうぞ。あと紅茶お二つですね。よく洗ったカップはどちら様でしたか?」

ジョークⅡ 『スープで虫が溺れていた件」

(ウェイター、客がスープに手を付けないのに気づく)
ウェイター 「どうなさいました? お気に召しませんか?」
紳士風の客 「いいえ」
ウェイター 「少し熱すぎましたか?」
紳士風の客 「いいえ。大丈夫です」
ウェイター 「では、どうしてお召し上がりにならないのですか?」
紳士風の客 「虫が浮かんでいて、スープの中で溺れかけているんですよ」
ウェイター 「虫の救助でしたか……小さめの浮き輪があるか、すぐに探してきます」

実話 『虫がビールに墜落した件』

昨日の昼、寿司屋で。サッポロラガー(赤星)の大瓶とグラス2個。グラスにビールを注ぐ。虫が飛んでくる。手でよけたが、ビール好きだったのか、一方のグラスの泡の上に墜落した。ホール担当の若い女性に声を掛ける。

「グラスに虫が入ったよ、ほら」
「最初から入っていましたか?」
「いやいや、ビールを注いでいたら飛んできた」
「では交換します」と言って、虫入りのグラスだけを引き下げようとする。
「ちょっと待って、違う違う。グラスだけ引き下げて交換したら、飲む前から1杯損したことになる」
ホール担当、ポカンとしている。
「ハエが飛んできてにぎり寿司に止まったら、にぎり寿司を交換してくれるよね? それともハエを追い払うだけ?」
まだポカンとして黙っている。
「虫はあなたの責任じゃない。もちろんぼくの責任でもない。お店の責任だから……」と言い掛けたら、やっと飲み込めたらしく、「新しいグラスと新しい瓶ビールをお持ちします」と言った。唯一の解決法なので、「そう来なくっちゃ!」とは言わなかった。クレーマーにならずに済んで一件落着。

目指した馴染みの寿司屋が臨時休業。ピンチヒッターに指名した一見の店だった。ジョークにしようと思ったが、ホールスタッフあるある、異物混入事象あるある、飲み込みの悪さあるあるの三拍子が揃うと笑い話にはしづらい。

無償の鑑賞は一味違う

大阪城天守閣、天王寺動物園、慶沢園、大阪城西の丸庭園、城北菖蒲園、長居植物園、大阪市立美術館、大阪市立科学館、自然史博物館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」、咲くやこの花館

大阪市内に住むシニアは上記の市立の文化施設に無料で入場できる。常設展だけでなく企画展や特別展へも優待されるのはありがたい。都合よく、大阪城天守閣、大阪市立科学館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪くらしの今昔館は拙宅から徒歩圏内にある。

先週、大阪くらしの今昔館の企画展『春夏秋冬 花鳥風月に遊ぶ』を見てきた。


印象的だった『四季図屏風』は寛政7年生まれの大阪の画人、玉手棠洲たまてとうしゅうの作。 右隻うせきは右端の第一扇「梅に鶯」から第六扇「瀑布ばくふ」まで、左隻は右端の第一扇「蓮とカワセミ」から第六扇「きじと鷹」まで。他に、七五三や盆踊りなどの歳時を絵に現した作品など、風流の学びになった。

その鑑賞と前後して、オフィスのポストに書籍が入っていた。俳人、大島幸男先生からの献本である。雪解は、ゆきどけではなく、「ゆきげ」と読む。ご本人やお仲間の評にあまり詳しくないが、かねがね難解な句を作る人だと思っていた。じっくり読んでいるのでまだ読了していないが、ユニークな着眼と豊富な語彙が相まり、純文学の香りのする知的な句が並ぶ。ルビを振っておいてほしい表現がどんどん出てくる。

これが第一句集とは……力量からすれば、すでに第七句集くらい上梓していてもいいほどなのに。ご本人は「トイレにでも置いて少しずつお読みください」とおっしゃるが、そんな軽い作品集ではない。お祝いとして倍返しの食事をご馳走するつもりだが、句の話などせずに、くだらない雑談ばかりしそうな予感がする。

今週書店に立ち寄れば、無料の本が置いてあった。どちらも講談社のもので、現代新書と理系のブルーバックスの図書ガイドだ。ブルーバックスは興味深いテーマが多く、今も本棚に数10冊保管してある。現代新書は岩波新書と中公新書の次によく読んだ。このPRを兼ねた無料の2冊が、見事な読み物になっている。一気に読んだ。

久しぶりにかつて自治都市だった平野郷あたりを散策した。メトロの平野駅で下車するのは初めてだ。何となくかつての面影があるのに、商店街は閑散としている。大阪24区で一番人口の多い区だとはとても思えない。全興寺という寺の前に出て境内に入ると、古い民家が一軒あり、「小さな駄菓子屋さん博物館」の看板。いわゆるよくある昭和レトロの展示だが、懐かしい。後で調べたら、聖徳太子が建てた寺だとわかった。

ワインに関するモノローグ(後編)

🍷 ワインそのものへの関心よりも、料理とワインの相性への関心のほうが強い。ワインを飲むのは少量で決して痛飲しない。ワインの本を読んで知識を仕入れると、ワイン専門店やデパートのワイン売場に行き、試飲してソムリエの話を聞く。3種くらい試飲すると、よほど口に合わないかぎり、お礼の意味で1本買う。

🍷 『ヨーロッパワイン美食道中』という本に次のくだりがある。

「味覚的に合うということは、いったいどういうことなのだろうか。いまある料理を一口食べて噛みながら、口の中にワインを含んで混ぜてみる。よく合ったときは大変おいしく、料理もワインも一段とうまく感じ、食欲も増進してくるだろう。」

この本はワインの適温に応じた冷旨系、中間系、温旨系の分類についても言及している。ワインと料理のペアリングよりも、ワインの個性に応じた適温を整えるほうが難しい。ワインの保存に関してはこれまで無頓着で、自宅の冷暗所に置きっ放し。冷暗所と言っても夏場は30℃を越える。専門家の話を総合して、遅まきながらワインセラーが必需品だと気づき、今年の夏場に備えて検討しているところだ。

🍷 以前はワインショップからアウトレットセールの案内が届くたびに覗きに行った。訳ありワインが所狭しと並べられ、たとえば定価1万円の訳ありワインが4,000円程で売られる。訳ありのほとんどが汚れや剥がれなどのラベルの瑕疵かしであって、ワイン自体に問題はない。ある日「これは絶対お買い得!」と勧められたのがブルゴーニュのピノノワール種の格上。フランス語で「エチケット」と呼ばれるラベルには次の情報が記されている。

2011 HarmandアルマンGeoffroyジョフロワ
GevreyジュヴレChambertinシャンベルタン 1er CRUプルミエクリュ LA BOSSIEREラボシエール monopoleモノポール
(ヴィンテージ2011年
、生産者アルマンジョフロワ、ジュヴレシャンベルタン村1級畑ラボシエール専売)

ソムリエによれば定価はたしか12,000円。それを60%OFFで買い、飲み頃はもっと先と考えて7年間置いていた。ワインセラーがないから、ほとんど適温コントロールをせずに猛暑の夏を7回過ごした。著しく劣化して死んだも同然かもしれない。先週、手遅れだと承知の上で冷蔵庫の野菜室に入れ、翌日に常温に戻して抜栓した。コルクの傷みなし。香りに異変なし。ピノノワールなのに重厚で微かな甘さと酸がほどよく調和している。三夜連続グラス1杯飲んだ。二日目と三日目は味変して旨味も増したような気がする。この味は熟成が進んだものなのか、やっぱり温度の影響を受けて本来の味でなくなっているのか……状態のいいものと比較するすべはない。比較するなら同じものをもう1本買い求めるしかない。

🍷 2011年ヴィンテージが日本のサイトでは出てこない。どうやら希少になっているらしい。さらに調べたが2011年がなかなかヒットしない。しばらくしてフランス人評論家のサイトでやっと見つけた。現在の価格も記されていた。数字を見て驚いた。な、なんと59,759円! 国内サイトでは2018年ヴィンテージで15,000円くらいなので、何かの間違いかもしれない。いや、きっと間違いだろう。しかし、たとえ間違いだとしても、この金額を一度見てしまうと「ワインは変わる」。ワインとは、瓶からグラスに注いで香りと味を愉しむものだけにあらず、同時に観念であり相場でもある。