ジョークの背景知識

こんなジョークがある。

「ゾウはどうして大きくて、灰色で、シワだらけなの?」
「小さくて、白くて、丸かったらアスピリン錠になっちゃうからさ」

面白さの度合は人それそれだとしても、「アスピリン錠」を知らないし見たこともなければこれがなぜジョークになるのかわからない。ドタバタ喜劇やダジャレやことば遊びは背景知識がなくても笑えるが、背景知識がないと笑えないジョークがある。

その日、天国では門番の聖ペドロに急用ができて休んだ。気のいいイエスが自ら申し出て門番を務めることになった。
昼下がり、門をノックする音が聞こえた。イエスが開けると、そこによぼよぼの老人が佇んでいた。老人は言った。
「門番さま、聞いてください。私は老いぼれた大工です。私には一人の息子がいました。とても可愛がっていました。でも、ある日どこかへ行ってしまったのです。ええ、世界中を探して回りましたよ。どこに行っても、みんな息子のことを人づてには聞いたことがあると言ってくれました。でも、実際には見たことがないと言うのです。どうか教えてください。もしかして私の息子はここにいるのではないでしょうか?」
この話を聞いていた門番役のイエスの目から涙が溢れ出した。イエスは急に両手を広げて叫んだ。
「お父さん! 私が息子です。会いたかった!」
「ああ、やっぱりここにいたのか……」
イエスを抱きしめて老人も叫んだ。
「ピノキオ!」

イエスの父もピノキオを作って人間に育てたゼペットじいさんも大工。イエスの父はヨセフ。ゼペットはジュゼッペの愛称で、遡れば聖書のヨセフと同じ名前。イエスの父はイエスが12歳の時に離れ離れになった。いろんな誘いに惑わされてピノキオも行方不明になる。イエスとピノキオには共通点がある。

最初このジョークを英語で読んだが、「大工の息子」というタイトルがついていた。プロットにとって必須ではない。むしろ「父と息子の再会」または「息子をたずねて世界の旅」のほうがいいかもしれない。父のヨセフという名を重視するならジョークを大幅に書き換える必要がある。

人形から人間になった息子を探しに天国までやって来た父親……その父親の話を涙ながらに聞いたイエスは12歳で生き別れた父親のヨセフだと思い、「お父さん!」と叫ぶ……お父さんと叫ばれれば、ゼペットじいさんは叫んだ相手をピノキオだと思うのは当然……という次第でオチがついたのだが、背景知識がないとチンプンカンプンだ。

このジョークを披露すると、3分の1の人が笑い、3分の1の人がポカンとし、そして残りの3分の1が見栄で分かった振りをして小さく笑う。

道を聞く、道を聞かれる

目的地への道順がわからない時、以前は駅員、店のスタッフ、通りがかりの人らに聞いたものだ。道を聞く時は目的地を告げる。尋ねた相手がその場所に不案内の場合は別の人に聞く。ホテルのフロント係は目的地を知らなくてもとことん調べてくれる。地図上に線で道順を記してくれたりもする。

スマホで簡単に地図と経路がチェックできる今、道を聞くことはめったにない。しかし、誰かに道を聞かれるのは相変わらずよくある。外国からの観光客、スマホを持たないシニアに道を聞かれる。先日は韓国人旅行者が、スマホでチェックしても行き先が出てこないと言って場所を聞いてきた。オークション会場だったが、無事に突き止めてあげた。

学生時代、奈良にはどう行けばいいかと海外からの旅行者に聞かれたことがある。イタリアのご婦人二人。一緒にいた先輩が「連れて行ってあげよう」とぼくの同意も得ずに申し出た。近鉄奈良線で奈良までお連れした。行き帰りで2時間のボランティア。以来、同行する道案内はやめた。「○○ホテルに行きたい」という旅行者には、タクシーをすすめ、地下鉄なら最寄駅を伝える。

「どこどこまで歩いて行きたい」と道を聞かれるのが困る。一昨日のシニアのご婦人がそうだった。キャスター付きのショッピングカートを引きながら、こちらに近づいてきた。

「ちょっとよろしいでしょうか。この近くにホームセンターはありませんか?」
「すみません、他所から来ている者で、この辺りは不案内なんです」
困った表情をするので、スマホで調べてあげた。
2店舗ありますね。ほら、ここが現在地で、近い方のホームセンターはここから歩いて20分です」
「ありがとうございます」
「今が一番暑い時間帯ですよ。タクシーを拾われたらどうですか?」
「いえいえ、ここまですでに半時間歩いてきましたから、大丈夫です」
何が何でも歩く気満々のようなので、もう一度スマホの画面を見せて、ここを真っすぐ行って二つ目の角を左折して、また真っすぐ行って川を渡り……と懇切丁寧に目的地まで示した。

ぼくよりも年配なので、さらに歩き続けるのはどうかと案じたが、去って行く後ろ姿は矍鑠かくしゃくとしており、今風に言えば「アクティブシニア」の典型のように思えた。求めたものを無事に買えただろうか。

開店/閉店や建設/解体が目まぐるしい現在、地元民ですら最新情報には疎くなっている。他人に何かを聞けば時間も取るし、手を煩わせることになる。自力で調べるにはやっぱりスマホも持たねばならない。他力に頼るのは百円ショップのみで、求める品を自分で探すことはせず、いきなり商品の棚を店員に聞く。早くて精度が高いからだ。

酷暑の夏をどう乗り切るか?

先週、大阪市で最高気温が31℃にとどまった日が1日だけあった。連日35℃超が続く日々にあって31℃は想定外の気温だ。その日の深夜から朝方にかけてはエアコンを切り、少し窓を開けて外気を取り入れた。微かに風も感じられて心地よかった。しかし、敬老の日の昨日は再び35℃に戻った。あの日の31℃の体験があだとなり、ぐったりした。

フレイル予防についてはコラムを書いたことがあるが、夏場の健康法については詳しくない。何とか書けそうなのは夏にひたすら耐える日常の過ごし方くらい。今年の夏バテの象徴は「蓄積型熱中症」だと専門家が言う。熱にやられた身体が翌日に回復せず、じわじわとボディブローが効いてくる疲れだ。そんな疲れに苦しまないための『私家版「酷暑の夏を乗り切る7カ条」』をここに記す。

1. 気温が高くて陽射しが強かろうが、息苦しくなるほど蒸し暑かろうが、少なくとも6,000歩、できれば1万歩超を歩くように心掛ける。天然のサウナだと思えば何とか耐えられる。

2. ほぼ毎日半時間~小1時間、ストレッチに励む。歩行不足を補うために股関節を緩めてから下半身筋トレをおこなう。ついでに腕立て伏せを30回ほど。

3. 乳酸菌飲料と一緒にビタミンB類、ビタミンC、マルチミネラルのサプリメントを摂取する。納豆、オクラなどのネバネバ系も意識して食べる。

4. 夏場に本を読んだり考えごとしたりするのは苦痛だが、脳が白旗を上げるまでは何とか頑張る。本は1冊を読もうなどとは思わず、飽きないように適当に拾い読みする。

5. 考えなくても趣味としてできることをやってみる。ワインを飲んだらイラストを速描して色をつける。旅の写真を見てスケッチをする。脳が発熱しないので暑さを忘れられる。

この夏だけで12cm×12cmの小さなスケッチ帳(80枚)を1冊使い切った。

6. シャワーだけでなく、なるべく40℃前後の風呂に入るようにする。クナイプの入浴剤を入れて深く鼻呼吸する。風呂の時だけでなく、常に深い腹式呼吸を意識する。

7. 肉類と夏野菜とスパイス料理を毎日食べる(鰻よりも確実に元気になれる)。冷たい素麺やざる蕎麦に安易に逃げない。今年の夏は冷たい麺類ではたぶん乗り切れなかった。

大した7カ条ではないが、日々仕事をこなしながらルーチンにするのは容易ではない。容易ではないが、せめてこのくらいのことをしないと地球温暖化時代の夏は乗り切れない。

酷暑の街歩き

わずかな凸凹の道でもつんのめることがある。たいてい左足の着地時に起こる。よそ見歩きして油断すると危ない。年寄りだけではない。先日、前を歩いていた若者もつんのめっていた。暑さでやられている時の足取りの重い歩行は要注意だ。

階段の2段上がりができると思っていたら、いつの間にかできなくなっている。やろうと思えばできるが、無理は禁物。身体の動きに関して言うと、昨年までできていたことが今年しづらくなっていることに気づく。日々平均8,000歩ほど歩き、フィットネスを小1時間しているにもかかわらず。

できると思っていることができないのは身体の動きでは実感できる。実感して少々落胆する。同じことが脳でも起こっているはずだが、脳の場合、あることを思い出せない時に「あれは何だったかなあ」と苦笑いで済ませてしまう。ところが、脳の働きが階段2段上がりができなくなるような状態になっているかもしれないのだ。そう思うとぞっとする。

不要不急で外出するな、自宅にいるなら24時間ずっと部屋を冷やせ、水分はこまめに補給せよなどの熱中症対策には耳を傾けるが、はたして涼しい自宅に閉じこもって水分ばかり補給していてよいものか。熱中症予防と引き換えに運動不足や感覚障害や胃弱症状に悩まされそうな気がする。と言うわけで、酷暑でも欠かさず最低2時間は外出するようにしている。

メトロの最寄駅まで歩き、数駅――場合によっては10駅以上――向こうの、あまり馴染みのない駅で降りる。行き当たりばったりもあるが、大阪メトロが配布しているリーフレットを事前に読んでおく。日傘を差して、なるべく日陰を求めて歩き、旧跡や神社仏閣を訪ねる。メトロで行って歩き、メトロで帰ってくる。ランチを兼ねて外出すれば所要34時間。金曜日の歩数は15,000。辛いほど暑かったが、夕方の42℃の風呂が心地よかった。

土曜日の昨日はメトロを使わずに近場を歩いて8,000歩。地下街や商業施設の地下通路を利用して暑さをしのぐ。古本屋、カフェ、文具店に入り、あまり歩かない通りに足を踏み入れる。碑や看板や建物の写真を撮る。今日は午後3時現在、まだ外に出ていないが、身体に渇を入れるために夕方に外出する。焼肉を考えているが、写真のホルモン店ではない。

ブログ、2,000回という通過点

本ブログ、“Okano Note”は今日のこの投稿で2,000回を数える。何かシャレたことを書いてみようと思ったが、平凡に172,000回の雑感を綴ることにする。

2,000回の一つ前に1,999回があり、2,000回の一つ後ろに2,001回がある。こうして見ると、2.000回が他の回と同じく一つの通過点であることがわかる。どういうわけか、1,000回や2,000回を区切りにしようとするのが人の常。しかし、「ちょうど100」と言うのもあれば、「ちょうど257」と言うのもある。

「ちょうど」というのは人間界で人間が作り出している。誕生日が1225日の人が買物をして1万円札を渡した。お釣りが1225円だったら、ぴったりちょうど感を覚える。ただそれだけのことだ。ブログの2,000回は数えていたのではない。投稿一覧に投稿回数が出るから知っただけのこと。

徒然なるままに文を綴るにしても、動機も無しに週2回ペースで続けることはできない。動機の内容が同じだと来る日も来る日もよく似たことを書かざるをえない。飽きないように長く続けるには多様な動機がいる。多様な動機が多様なテーマのヒントを授けてくれる。

サービス精神のつもりでも説明が過剰になると嫌がられる。親切心で綴っても、小難しい文を読む他者には迷惑なことがある。饒舌に要注意だ。しかし、思いつきの短文を適当に書いてけろりとしているわけにはいかない。公開とは責任を負うことなのだから。

「継続は力なり」と言うけれども、何の力なのかが明らかにされない。ずっと続ければいったいどうなるのか……継続は力なりの「力」は、続けるという力である。つまり「継続は継続する力をもたらす」の意。そう、この言い回しは同語反復トートロジーにほかならない。

書いた文章を照れもせずに抜け抜けと公開しているわけではない。自分の書いたものを他人様ひとさまにお読みいただくのは、内心うれしくもあり、また自信にもつながるのだが、内実の心境としては少々気が引ける。17年経った今も少々恥ずかしい気持に変わりはない。書いたり話したりすることには照れがつきまとう。

これからも、考えることや気づいたこと、その他諸々の見聞を――書かないよりは書いておくほうがいいと判断して――公開していこうと思う。衒学に走らず、また自己陶酔に陥らないように気をつけて。

2025年6月のエピソード写真

今年の6月、月末は厳しくなったが、例年に比べると、特に朝夕ははまずまず過ごしやすかった。あっと言う間に過ぎた。わざわざ書きとめるほどの話ではないが、写真を見ながら振り返ってみた。


先週、本ブログ『語句の断章』で「阿漕あこぎ」を取り上げた。阿は曲がり角、ご機嫌とり、親しみを込めた呼称を意味する多義語。白川静がどんなふうに語源を探ったのか。辞書を開いた。だけに一番最初に出てくるだろうと思いきや、収録されていなかった。

事務所からの帰り道、道路工事が長引いている場所がある。ここを歩くたびに、この水道の記号が目に入り、コテ(ヘラ)を連想してお好み焼きを食べたくなる。


かなり巧妙な手口でリュックサックの中の、財布は盗られず、財布の中のクレジットカードだけが抜かれた。利用内容の確認メールが入って気づいた。「利用に覚えがない」をクリックしてカードを無効化し、再発行を申請。インドルピーの通貨で30万円ほど使おうとしたようだ。被害の有無に関わらず、こういう事案は警察に届ける。

蕎麦の有名店で修業した料理人が独立して店をオープンした。行ってみた。いい仕事をしている。二八の硬い蕎麦が自分に合う。それはそうと、天ぷら付きざるそばはすっかり高級料理の仲間になった。

夏に日傘を差すようになって3年目。朝に東に向かい、夕方は西に向かう。片道123分だが、もう手放せなくなった。但し、暑さしのぎの代償として視野は狭くなる。

眼科が処方した2種類の目薬のうち1つが品切れだった。「明日なら入ります」とのことで、翌日調剤薬局を再び訪ねた。自宅に帰るともらったはずの薬がない。あちこちを探し、翌日に事務所でも調べ尽くした。ない。また薬局へ。手渡したと確信した調剤薬局、たしかに受け取ったと思ったぼく。結局、薬局に置いてあった。
代金を払い終えたのに商品を受け取らずにその場を離れることが、時々ある。そして残された商品に気づかない店員も、時々いる。

あの日から17年が過ぎた……

今日のこのブログの記事から3スリー2ツー1ワンとカウントダウンしていくと、来月初めに投稿2,000回の節目を刻むことになる(つまり、今日が1998回目の投稿)。第一号は200865日、『新しい発想に「異種情報」と「一種情報」』という記事。文章量は控えめな616文字だった。

何度か12ヵ月の空白もあったが、挫折せずに何とかここまで来れた。約17年間、年平均117投稿、おおむね週2回ペースを続けてきた。本業の企画と並行して、30代後半から講演・研修を始めたが、こちらは10年前にすでに2,000回に到達した。その時、ブログもひとまず2,000回を目指そうという励みを得た。

何か一つのテーマについて深く書くほどの専門分野は持たないが、何でもありなら割と器用に書ける自信はあった。いろいろ企画して書くこともあるが、基本は普段の手書きノートから適宜ネタを拾っている。最初の頃と同様、今も大きなブログテーマはないが、一応下記のカテゴリーを念頭に文章を書くようにしている。

▢ことばカフェ ▢アイディエーターの発想 ▢Eats Journal ▢Items ▢エピソード ▢世相批評 ▢オムニバス ▢五感な街・アート・スローライフ ▢創作小劇場 ▢Memorandum at Random ▢名言インスピレーション ▢思考の断章 ▢温故知新▢本棚と読書 ▢風物詩


実は、今日は途中まで次の文を綴っていた。

風景や花を見る。見て何かを語る。その時、自発的に感じて語るのか……あるいは、その対象に分け入って対象の「声」に反応して語るのか……。ものの見方や語りは、やれ前者だ、いや後者だと、主張は二分されるだろうが、そこに結論があるはずもない。どっちもあるのだ。

ここまで書いて、そうだ、わがブログは結論が出ないことやどっちがいいかわからないことを書いてきた、とふと思ったのである。そしてチェックしてみたら、あと3投稿で2,000回に達することがわかった。

ところで、昼にチキンカレーを食べてきた。カレーは週に1回も食べないが、仮にそのペースで2,000食目に到達するには40年かかる。17年で2,000回のブログ投稿を自賛するつもりはないが、カレーと比較してみれば、まずまず「スパイシーな・・・・・・記録」と言えるかもしれない。

インド料理店の看板に思う


通りの角に立つ看板に気づいただけで、店は見ていない。当然入店していない。

「パキスタン人が経営する本格パキスタン料理」の店に時々行く。「ネパール人が経営するインド/ネパール料理」の店にも行く。しかし、インド料理と銘打った店で本格的なインド料理を食べてきたという自信はない。

あくまでも一説だが、あるカレー通が言うには、かつてインド人が料理するインド料理は本格的であり、シェフは日本人の舌に合わせる妥協はしなかったらしい。ところが、ネパール人が経営するインド料理店では、本格インド料理にこだわろうとせず、日本人好みの味付けをして人気店になった。現在、日本にあるインド料理店と呼ばれる店を経営し、そこで働いているのはほとんどがネパール人と言われている。

ネパール人の店ではネパール料理も出していたはずだが、表看板をインド料理とするほうがわかりやすい。それが、やがて「インド/ネパール料理」と併記されるようになり、今では主客転倒して「ネパール/インド料理」という看板を掲げる店も目立つようになった。

ネパール料理、インド料理、スリランカ料理、パキスタン料理、そしてアラブ料理など、いろいろ食べてきたし、本も読んできた。インド料理を専門に研究してきた日本人の著書が紹介している料理に、見覚えのあるものは少なく、ほとんどが初見である。つまり、ここ何十年、ぼくたちが食べてきたインド料理はたぶん本場ならではの本格ではなく、日本風のインドカレーっぽい料理だったかもしれない。

定食メニューの最初に「ダルバート」があれば、それは間違いなくネパール料理であり、おそらくネパール人が作っている。「ネパール人シェフが作る本格ネパール料理」は大いにありうる。

ネパールの国民食、ダルバート


飲食業界がグローバル化して、居酒屋の厨房を仕切っているのがアジア人という店が増えている。四半世紀前に東京で「イラン人(らしき人)が握る寿司屋」に少し戸惑ったが、今はどの国の人が何料理を作っても不思議でも怪しくもない時代になった。とは言うものの、「インド人シェフが作る本格日本料理」という看板には依然として少し違和感を覚える。

偏見かもしれないし器用さゆえかもしれないが、日本人シェフなら何料理でも本格的に作ってしまうはず。「日本人シェフが作る本格フレンチ」も「日本人シェフが作る本格中華」も当たり前になって久しい。

待つ覚悟をして列に並ぶ

自称「待たない男」のぼくが、ランチ処で順番を待った。年に1回なら待つこともあるが、先週だけで2度も待った。スリランカカレーの店内での15分待ちは大したことはなかったが、海鮮料理の列には店外で40分並んだ。食事処の待ち時間の新記録になった。


「半時間待つ」と「半時間待たされる」は同義語。しかし、「待つ」には覚悟がある。待つに値する見返りが期待できるからこその覚悟だ。

「待つ」と言えば、サミュエル・ベケットの不条理戯曲『ゴドーを待ちながら』を思い出す。2人のホームレスが存在不詳のゴドーをずっと待つ。ゴドーは第1幕で現れず、焦れた観客は第2幕に期待するが、ゴドーは劇中でついに現れない。

「待つ」と言えば、あみんが歌った『待つわ』も思い出す。あの曲の「私」も、願いが叶えられるかどうかもわからないのに、かなり辛抱強く待つ。

♪ 私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが ふり向いて くれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ (……)

いつまで待つのか? 「他の誰かに あなたがふられる日まで」だから、未来永劫、他力本願で待つのである。



さて、先週の海鮮料理の話に戻る。午前11時の開店時間に行けば、すでに50人ほど並んでいる。誘導されたのは列の最後尾。席数が450もある店なのに1巡目で入れなかった。ところが、ぼくの後ろに新たにできた50人ほどの列を見てほっとした。入店までの40分を長く感じなかった。待つには待ったが、着席して注文してから2分後に食事にありつけたのである。

世界名言格言辞典で「待つ」の項を引いたら、フランスの人文主義者フランソワ・ラブレーの「待つことのできる者にはすべてがうまくいく」が出てきた。待ち続けてチャンスに恵まれなかった例を多数知っているので、これはにわかに信じがたい。

しかし、次のフランスの格言、「落ち着いて待つ者は待ちあぐむことがない」が、まさに海鮮料理店での順番待ちに当てはまった。あの時のぼくは待ち人としては珍しく落ち着いていた。目当ての料理はカツオとハランボのたたきだった。藁焼きの香しい匂いが精神を浄化したように思われる。

夢に現れた駅

夢は唐突に始まり、話が飛躍して場面もころころ変わるもの。本来終わってはいけないところで突然終わって目が覚める。論理がでたらめでイメージもあいまい。と思いきや、妙に筋が通っているところがあり、ある場面のディテールが異様なまでに精細に描かれたりする。



その夢はぼくが駅舎に近づく場面から始まった。この場面に既視感デジャブを覚えたが、初めてかもしれない。寄棟よせむね屋根の複数の建物から成る、ちょっと古びた木造の駅舎だ。ホームは4番線ほどありそうに見えた。周辺の風景ははっきり見えなかったが、夕暮れ時の昔ながらの街の郊外のような雰囲気に思えた。

ところで、夢から覚めてすぐにフィリップ・K・ディックの『地図にない町』を思い出した。あの短編の冒頭では、定期券を求める乗客の小男が行き先を「メイコン・ハイツ」と告げる。しかし、窓口の駅員はそんな名前の駅も町も知らないと言う。しかも地図にも載っていない……。

夢に現れた駅の名はわからない。しかし、ここにやってきたのは家に帰るためだ。昨日ぼくは(おそらく)仕事か何かの用事でこの街を訪れ1泊した。そして夕方の今、この駅で復路の切符を買い求めようとしている。どこへ帰るかは当然わかっている。急行で2時間半の所がわが家の最寄駅だ。

窓口で行き先の駅名を告げて次の急行に乗りたいと言った。駅員は怪訝な顔をして首を傾げ、別の駅員の所に歩み寄り、小声で何かを確認している。戻って来た駅員は「本日の急行は終わりました。次の急行は明朝の午前330分になります。それでよろしいですか?」と言う。

「ちょっと待ってください。昨日の往路の時刻表では急行は1時間に1本か2本はありましたよ。復路だって同じことでしょう。満席ということですか?」とぼく。「満席も空席も関係なく、とにかく急行は明日の午前330分までありません」と駅員。

何かがおかしい。しかし、冷静に考えることにした。乗り継ぎや遠回りでもいい、目的の駅にさえ着けばいい……そして言った、「同じ行き先の別路線の急行なら他にあるでしょう。ちょっと調べてください」。駅員は不機嫌な表情をあらわにして、窓口を去り、ドアの向こうに消えた。10分、20分、30分……待てども駅員は戻ってこない。さらに時間が過ぎていく……。

ここで夢から醒めた。動悸が少し早くなっている。時刻は午前6時。夢の中で午前330分の急行に乗っていたら、ちょうど駅に到着した時間だ。夢の中で列車に乗り損ねた時の動揺は、現実の体験以上に大きく激しい。