待つ覚悟をして列に並ぶ

自称「待たない男」のぼくが、ランチ処で順番を待った。年に1回なら待つこともあるが、先週だけで2度も待った。スリランカカレーの店内での15分待ちは大したことはなかったが、海鮮料理の列には店外で40分並んだ。食事処の待ち時間の新記録になった。


「半時間待つ」と「半時間待たされる」は同義語。しかし、「待つ」には覚悟がある。待つに値する見返りが期待できるからこその覚悟だ。

「待つ」と言えば、サミュエル・ベケットの不条理戯曲『ゴドーを待ちながら』を思い出す。2人のホームレスが存在不詳のゴドーをずっと待つ。ゴドーは第1幕で現れず、焦れた観客は第2幕に期待するが、ゴドーは劇中でついに現れない。

「待つ」と言えば、あみんが歌った『待つわ』も思い出す。あの曲の「私」も、願いが叶えられるかどうかもわからないのに、かなり辛抱強く待つ。

♪ 私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが ふり向いて くれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ (……)

いつまで待つのか? 「他の誰かに あなたがふられる日まで」だから、未来永劫、他力本願で待つのである。



さて、先週の海鮮料理の話に戻る。午前11時の開店時間に行けば、すでに50人ほど並んでいる。誘導されたのは列の最後尾。席数が450もある店なのに1巡目で入れなかった。ところが、ぼくの後ろに新たにできた50人ほどの列を見てほっとした。入店までの40分を長く感じなかった。待つには待ったが、着席して注文してから2分後に食事にありつけたのである。

世界名言格言辞典で「待つ」の項を引いたら、フランスの人文主義者フランソワ・ラブレーの「待つことのできる者にはすべてがうまくいく」が出てきた。待ち続けてチャンスに恵まれなかった例を多数知っているので、これはにわかに信じがたい。

しかし、次のフランスの格言、「落ち着いて待つ者は待ちあぐむことがない」が、まさに海鮮料理店での順番待ちに当てはまった。あの時のぼくは待ち人としては珍しく落ち着いていた。目当ての料理はカツオとハランボのたたきだった。藁焼きの香しい匂いが精神を浄化したように思われる。

夢に現れた駅

夢は唐突に始まり、話が飛躍して場面もころころ変わるもの。本来終わってはいけないところで突然終わって目が覚める。論理がでたらめでイメージもあいまい。と思いきや、妙に筋が通っているところがあり、ある場面のディテールが異様なまでに精細に描かれたりする。



その夢はぼくが駅舎に近づく場面から始まった。この場面に既視感デジャブを覚えたが、初めてかもしれない。寄棟よせむね屋根の複数の建物から成る、ちょっと古びた木造の駅舎だ。ホームは4番線ほどありそうに見えた。周辺の風景ははっきり見えなかったが、夕暮れ時の昔ながらの街の郊外のような雰囲気に思えた。

ところで、夢から覚めてすぐにフィリップ・K・ディックの『地図にない町』を思い出した。あの短編の冒頭では、定期券を求める乗客の小男が行き先を「メイコン・ハイツ」と告げる。しかし、窓口の駅員はそんな名前の駅も町も知らないと言う。しかも地図にも載っていない……。

夢に現れた駅の名はわからない。しかし、ここにやってきたのは家に帰るためだ。昨日ぼくは(おそらく)仕事か何かの用事でこの街を訪れ1泊した。そして夕方の今、この駅で復路の切符を買い求めようとしている。どこへ帰るかは当然わかっている。急行で2時間半の所がわが家の最寄駅だ。

窓口で行き先の駅名を告げて次の急行に乗りたいと言った。駅員は怪訝な顔をして首を傾げ、別の駅員の所に歩み寄り、小声で何かを確認している。戻って来た駅員は「本日の急行は終わりました。次の急行は明朝の午前330分になります。それでよろしいですか?」と言う。

「ちょっと待ってください。昨日の往路の時刻表では急行は1時間に1本か2本はありましたよ。復路だって同じことでしょう。満席ということですか?」とぼく。「満席も空席も関係なく、とにかく急行は明日の午前330分までありません」と駅員。

何かがおかしい。しかし、冷静に考えることにした。乗り継ぎや遠回りでもいい、目的の駅にさえ着けばいい……そして言った、「同じ行き先の別路線の急行なら他にあるでしょう。ちょっと調べてください」。駅員は不機嫌な表情をあらわにして、窓口を去り、ドアの向こうに消えた。10分、20分、30分……待てども駅員は戻ってこない。さらに時間が過ぎていく……。

ここで夢から醒めた。動悸が少し早くなっている。時刻は午前6時。夢の中で午前330分の急行に乗っていたら、ちょうど駅に到着した時間だ。夢の中で列車に乗り損ねた時の動揺は、現実の体験以上に大きく激しい。

ことばとモノの光景

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行きつけの店の担々麺には半端ない量の肉味噌が入っている。麵を食べた後に、肉味噌の肉と鷹の爪とスープが鉢の底に残る。ミンチ肉を残すのはもったいない。だが、食べ切ろうとしてレンゲを使えばスープも鷹の爪も一緒にすくってしまう。
ある日、穴あきレンゲがテーブルに備えられていた。そうそう、これがいい……と思ったが、穴あきレンゲでもミンチ肉と鷹の爪は同居する。結局、レンゲに残った肉を口に運ぶには
箸で鷹の爪を取り除くことになる。スープがない分、穴なしレンゲよりも多少は食べやすいが、肉と鷹の爪を分別できるレンゲは開発されるだろうか。

🔃

「安っ!」と言うと、料理の値打ちが下がるので、「真心のこもりし御膳春盛り」などと五七五でつぶやくようにしている。
「夢を信じた若き頃 今を信じて生きる日々」などと
七五調でつぶやくと、深刻な話もリズムを得て軽やかになる。

🔃

「雲と空」と「空と雲」。どっちでも同じだろうと思ったが、書いてみたら違って見える。
雲と言うと、言外に空を感じる。だから「雲と空」と言わなくても「雲」とだけ言えばいい時がある。
他方、空と言うだけでは、雲のことは思い浮かばない。だから雲のことも言いたいのなら「空と雲」と言わねばならない。

🔃

大きな虹が出た。みんなが見上げた。鈍感な人も視野の狭い人もみんな見上げたはず。大きな虹は人々を分け隔てなく包容する。
虹が出ていなくても、時々空を見上げてみるものだ。空を見上げるのを忘れたら、目を閉じて空を想う。それを「空想」と言う。

🔃

風景や花を見る。見て何かを語る。対象と距離をおいて感じようとするから語れるのか、それとも、対象に分け入って交わろうとするから語れるのか。
ものの見方や語りは、やれ前者だ、いや後者だと、主張は二分されるが、白黒がつく話ではない。どちらもあるかもしれないし、どちらでもないかもしれない。

🔃

晩ご飯よもやま話

広報や広告に従事していた30代の数年間、よく働きよく食べていた。夜の食事が深夜になることも、昼食抜きで12時間連続仕事することも稀ではなかった。振り返ればあの頃は体力はあったが、体調には波があった。体調は加齢した今のほうが断然よい。

夜遅く食べない、夜に過食しないことを心掛けただけで、体調がみるみる改善したのである。昼に麺やライスを少々盛っても心配ない。その程度のカロリーオーバーは午後の頭脳労働で帳消しにできる。体調維持の鍵を握るのは「夜をどう食べるか」なのだ。

最近は夜の外食を控えているが、先週末にスペイン料理店に行った。5時半に入店し、小さなピンチョスのおつまみにグラスビール。生ハムとトリッパの煮込みに赤ワインを合わせる。〆は魚貝のパエリア。7時過ぎに会計を済ませて、あてもなく遠回りして歩く。自宅近くのホテルのカフェでエスプレッソを引っかける。8時頃に帰宅。とても健康的である。

バルセロナへの旅を思い出した。ガウディやサグラダファミリアの記憶と同程度に、バルやレストランでの食事が強く印象に残っている。生ハムやエスカルゴや肉料理もさることながら、彼の地の人々の食事時刻と食事時間の習慣にはたまげた。

知人に紹介してもらったレストランに電話してカタコトのスペイン語で予約した。「7時に2人」と言えば「ノー」と言われた。ダメなのは人数ではなく時刻だった。店の開店時刻は8時。散歩で時間を潰して店に行った。一番乗りだった。夜の10時までに入店したのは他に1組のみ。

ところが、食べ終わる頃から老若男女の客が三々五々グループでやって来て、あっと言う間にほぼ満員になった。彼らの食事風景を見届けるまでもなく想像はつく。ラストオーダーの時間は守られず、当然のことながら日をまたいだ晩ご飯になったに違いない。客に妊婦も子どももいたので、こういう習慣をスローライフとかスローフードとは言いづらい。

ここ十数年、付き合いを除けば自分のペースで仕事と食事ができるようになった。午前9時から午後5時まで働き、朝食は8時までに済ませ、夕食もなるべく8時までに終えるのを理想としている。

英語で朝食のことを”breakfastブレックファスト“と言う。意味は「断食を破る」だ。晩ご飯を夜の7時に終えて翌朝の7時に朝食を摂れば、12時間断食したことになる。長い時間のようだが、睡眠時間が含まれるから空腹感で苦しまずにいられる。夜更かしして晩ご飯を食べていると、胃の休まる暇がない。これが体調不良の原因の一つだったのである。

旬外れてテンション下がる

何人かで集まって、別れ際に「今度また会おう」と言い合う。人によって「今度」は違う。近々ではないが、そんなに先のことでもないはず。しかし、集まった全員が誰かが音頭を取るだろうと思い、結局誰からも何も言って来ず、気づけば数年経っていて「今度の旬」も終わっている。「今度また会おう」と言い交わした時のテンションは微塵もない。

オフィスの隣りの中華そばの店がバズってからまもなく1ヵ月、その勢いが止まらない。隣りだから、待ち人がまだ少ない開店前に行こうと思えば行けるし、列が消えかけた頃に行けばいい。なのに、バズってから一度も行っていない。テンションは上がりも下がりもしない。バズった期間限定のラーメンはぼくにとって旬ではなく、したがって旬外れもない。

中華そばを目指して遠方からやって来る。休暇を取ってやって来る人もいる。12席ほどしかない小さな店に午前1115分頃から並び始め、ずっと30人くらいの人が待ち続け、午後3時過ぎくらいにようやく並ばずに入れる。わざわざ来る人にとっては今が旬。食べたい、食べ逃したくない、並んでもいい……テンションが上がりっ放しなのだ。

この冬、牡蠣料理に合わせるためにちょっといい白ワインを買った。ところが、昨年末から2月下旬に至るまで、出掛けるたびにあちこちの市場を覗いたが、いい牡蠣に出合わなかった。今の気分は「別にあの白ワインに合わせなくてもいいか」。牡蠣の本当にうまい旬は3月だからまだチャンスはあるが、1ヵ月前に比べて何が何でもという感じではない。


2024116日、激戦州で勝利したドナルド・トランプの当選が確実になった。そして今年120日に大統領就任式がおこなわれた。周知の通り、就任後から言いたい放題、したい放題である。カリフォルニア州在住の従妹とその主人は6年前に来日した時に、1期目のドナルド・トランプを猛批判し、ぼくを目の前にして大いに嘆いていた。

昨年の大統領選直後、さぞかし落ち込んでいるだろうと思って「トランプが勝ったね」とメールしたら、トランプのポスターが貼ってある部屋の写真が送られてきた。民主党バイデンを支持していた従妹ファミリーは共和党トランプに「転向」していたのである。仰天した。バイデン政権に失望し、あのドナルド・トランプに賭けたのだった。

1月中旬に『アプレンティス――ドナルド・トランプの創り方』が上映されることを知った。しかも、よく行く映画館3館での上映。これこそ今見ておくべきシネマだとテンションが上がったが、時間が取れなかった。先々週、予約しようとしたら、大阪市内の上映は終わっていた。不人気だったと思われる(それに、題名のアプレンティスが分かりづらい)。

上映の終わった映画館に代わって、大阪府では郊外の1館のみが上映している。見るなら今と思っていたのに、乗り換えなしの電車で半時間の映画館が遠い、遠すぎる。就任後の大統領令のおびただしい署名、発言の数々を見聞きしているうちに、この映画は旬ではなくなった。代わって、『実録ドナルド・トランプ劇場』のロードショーが今の旬である。

見切り品棚のバナナ

「あんた、おばあちゃんが働いているとこで、アルバイトせえへんか?」 

予備校にも行かず浪人をしていたある日、母方の祖母から電話があった。祖母は働き者で、4人の娘と2人の息子が独立し結婚した後もずっと、お金に困っていなくても働きに出たり内職をしたりしていた。その時の仕事場はバナナに特化した青果卸売の荷受け倉庫。祖母は社員のまかないを作り掃除や洗濯をしていた。

ぼくらの世代が青少年の頃、バナナはまだ高級品。そう簡単に口に入らなかったし、病院のお見舞いの定番だった。おやつにバナナが食べられる生活に憧れていた。もしかして食べさせてくれるのではないか……バイト料を聞くこともなく、二つ返事で仕事を受けた。

港から倉庫の前にひっきりなしにトラックが着く。多くがフィリピンとエクアドルのバナナで、小量だが小ぶりな台湾バナナもあった。すべてのバナナが「青い」(正確には「緑っぽい」)。バナナは黄色だと思っていたから、最初は驚いた。バナナは未成熟の青いままで収穫され、貨物船の中で熟成がやや進み、青果卸の倉庫で黄色くなって小売店に出荷される。

バナナが房ごと入ったずっしりと重いケースを低温の倉庫に運び入れる。先に熟成が進んだバナナを取り出しやすいように配置を指示された。テキパキしないと、作業時間が長引いて身体が冷える。食べ放題ではないが、見た目傷んでいるのは食べてもいいと言われていた。傷んでいないのに、甘くておいしそうな台湾バナナを時々つまみ食いした。毎日10本は食べていたと思う。



スーパーの見切り品の棚に季節の果物や野菜が置かれる。そのスーパーでは「おつとめ品」と呼ぶ。桃や柿や梨は旬の時だけ並ぶが、バナナは見切り品棚で一年中常連だ。バナナを見るたびに、将来を案じながらもバナナにありつけていたあの頃を思い出す。

スーパーに買物に来た客は、少々ワケありだが、賞味も消費にも問題ない商品を安く買える。店は、食品ロスを減らし、仕入れコストを回収して何とか赤字にならずに済む。あの見切り品棚は「三方よし」の理念に適っている。熟成を過ぎて黒ずみ始めたバナナが理念の象徴だ。

見切られたバナナ。ちょうどあの感じのバナナを低温倉庫の中で食べていた。見切り品とかワケアリなどと思ったことは一度もない。アルバイト時代と違って、バナナは安価な果物になった。しかし、わが若かりし頃の記憶のバナナは今もなお高級品であり続けている。傷まなくても少々傷んでも、バナナは偉ぶらずに人に寄り添ってくれている。

街中の崖っぷちを歩く

特定の駅周辺の史跡を巡る『まちさんぽ』というリーフレットがある。Osaka Metroが毎月1発行しているのを一昨年知った。昨年7月に「谷町線/野江内代のえうちんだい駅」周辺のコースを歩き、今回は「谷町線/阿倍野あべの駅」のリーフレットを参考に歩くことにした。

今回は阿倍野駅周辺巡りではなく、そこをスタート駅としてゴール駅「堺筋線/天下茶屋てんがちゃや駅」を目指すコース設定になっている。阿倍野駅周辺はよく知る場所なので、そこからスタートしても新鮮味がない。と言うわけで、Osaka Metroの企画意図に反して、天下茶屋からスタートすることにした。7カ所の見どころを逆に歩いた次第。

天下茶屋は堺筋線の終点。駅から東へ歩き紀州街道を渡る。街道と言われてみれば、昔はそうだったのかと思えなくはない。以前一度来たことのある聖天山しょうてんやま公園から正圓寺しょうえんじへ。敷地内に廃墟のようなコンクリート建造物があって、寺は殺風景だ。山門そばに兼好法師の隠棲庵いんせいあん址碑しひがあり、すぐ近くを松虫通りが走る。

このあたりは阿倍野区。上町台地の最西端の崖のへりで標高20メートル(ちなみに台地の最北端に位置する大阪城の標高は32メートル)。へりの西側は西成区で土地は15メートルほど低い。

上町台地の最北端の大阪城から左手のあたりがわがオフィス。難波宮跡の左手、台地のへりのあたりが自宅。黒い「が今回歩いたルート。
階段になっているが、感覚的にはほぼ垂直の崖である。

道路のすぐ下が崖で階段が設けられている。慣れていなければ、この階段の上り下りは容易ではなさそうだ。危険区域と言っても過言ではない。歩いた範囲にはこのような階段が3本あった。

上町台地の一画の住民なので、大阪城はもちろんのこと、南方面の四天王寺やあべのハルカスあたりまでなら歩くことも稀ではない。メトロで行って歩いて帰るか、歩いて行ってシティバスで帰ることが多い。今回は、頭で理解している上町台地を初めて体感した街歩きだったかもしれない。

長州藩志士の墓、五代友厚の墓を横目に歩き、昭和ノスタルジーの象徴的な商業施設「あべのベルタ」前に出る。昨秋だったか、SNSでこの建物の地下に老夫婦が営む寿司屋があると知った。10席ほどしかない店なのに、幸いにして席に座れた。シャリが多めの懐かしのにぎり寿司だった。800円代とは今もさすがのアベノ料金である。店を出たら、待ち人が10人弱いた。

来客、共食、雑談

事務所にふいの来客があれば「お久しぶり」と挨拶を交わし、昼前なら「ご飯でもいかが?」と尋ねて食事処へ。そして食事しながら雑談に興じる。知り合いだからであり、何がしかの「付き合い」のある人だからこその自然な流れである。見ず知らずの人とはそうはならない。

ところで、付き合いとは交際のことだ。ある辞書には「会えば話を交わしたり、機会があれば飲食を共にしたりするなどの親しい関係を持つこと」と書いてある。「親しい関係」とは悩ましい言い回しだが、あまり親しくない人でも「遠方よりやって来たご無沙汰の人」なら、ランチをご一緒して近況を語り合うこともある。

同じ辞書の付き合いの二番目には「心からの衝動に基づくのではなく、社交上の立場から行動を共にすること」とある。何らかの縁や義理ゆえに応対し、特に話したいこともないがやむをえず食事を囲むというような付き合いだ。こんな付き合いをやめて久しい。

仕事の締め切りが迫っていたり先約がある場合には、ふいの来客には丁重にそう伝えて「またの機会にぜひ」と添える。親しい人にそう言って見送ることも少なくない。他方、さほど親しくない人なのに、時間にゆとりがあって少々懐かしさも覚えたら食事に誘うこともある。都合の良し悪しは付き合いの親密度以上に重要になる。

と言うわけで、アポ無しの来客でも、当方の都合がよければ昼食にお連れする。しかし、そうするのは昼食だけで、アポ無しで夕食は共にしない。行き当たりばったりで夜の飲食はしないことにしている。夜が外食ばかりになると、オフィス周辺だと店の選択肢が狭まり、出費もかさむ。付き合いのある人との晩餐の宴なら、少なくとも半月前に予定を立てる。

こっちの都合が悪い時ばかりに訪ねて来る人がいる。出張で不在の時や、先客との面談中や、急ぎの仕事の真っ最中にやって来る。「今度は前もって教えてください」とは言いにくい。なぜなら、アポを取るほどの用事があるわけではなく、たまたま近くに来たから訪ねて来る人だからだ。

先日も訪ねてきた。しかし、仕事が一段落した翌日で、余裕があったから早めのランチに出掛けた後だった。そのランチ処は、一人ではめったに行かない、ふいの来客をよくお連れする店。早く入店したので空いていて、眺めのいい席に座らせてくれた。共食もいいが、気を遣わない一人ご飯はもっといい。

 

 

電車で行って街歩き㊦

「電車で行って街歩き」と遊び心で検索したらGoogleAIは次のような情報を瞬時に提示した。

電車で行って街歩きするには、絶景の路線や駅チカの観光スポットを利用するとよいでしょう。
絶景の路線: 三陸鉄道リアス線、只見線、篠ノ井線、小海線、山陰本線、 肥薩線。
駅チカの観光スポット:
新大久保コリアンタウン、 横浜中華街。

絶景と駅チカに絞った感覚が独特。しかも、絶景の例が偏っているし、駅チカの観光スポットが2例とはさびしい。AIこの種のテーマにはあまり精通していないような気がする。

閑話休題――。電車で行って街歩きの『㊤編で先週土曜日に行った神戸市長田区を書いた。今日は㊦編。その翌日に訪れた大阪市港区・此花区・西区に電車で行って歩いた。この方面には自宅近くからメトロの2路線が伸びていて、どちらの路線でも15分以内で着く。

メトロの中央線に乗る。「次は弁天町~」という車掌のアナウンスを聞いて条件反射的に下車。ここは港区。大学時代、親戚の家で家庭教師をしていた。懐かしい。JR環状線に乗り換えて一駅向こうの西九条駅へ。ここでJRゆめ咲線に乗り換えてユニバーサルシティ駅へ。ユニバーサルスタジオジャパンUSJ)には2001年のプレオープンに招待された。残念ながら出張と重なっていたので断念。その後は縁もなく、一度も入場を果たしていない。

入場する気も予定もなく、隣接するユニバーサルシティ・ウォークの雰囲気だけ見るつもりだった。腹ごしらえは、ここらしいアメリカンなランチではなく、貴重なキャベツが食べ放題できるトンカツ定食を指名。食後はUSJの入場口付近で場内の様子を窺う。離れた所から紙芝居をただ見・・・する子どものような気分になる。群衆の中をさまよう気にはなれないし、たぶん半日も粘れない。頻繁に走るジェットコースターを見ているだけで時間が過ぎた。

昼食前はあまり歩いていない。西九条駅に戻り、そこから京セラドームまで歩くことにした。安治川トンネルの地上エレベーター前に出る。ここも懐かしい。安治川の河底を横断する歩道があり、此花区の西九条と西区の九条を結んでいる。昭和19年の開通と知って驚く。

エレベータ―で河底に下り、80メートルの歩道を進んでエレベーターで地上へ。わずか3分ほど。ここから京セラドームまでずっと西区で、あまりなじみのないエリア。京セラドーム近くのモールでコーヒーを飲む。ワインの品定めもしたが、買うのは見送る。帰路はメトロの長堀鶴見緑地線で乗り換えなし。たいして歩いた印象はないが、京セラドーム周辺とモール内の歩数が多かったせいか、13,000歩超えだった。

電車で行って街歩き㊤

即座に地震とはわからなかった。飛行機が墜落したと思った(飛行機墜落時の衝撃も爆音も体験したことがないのに)。当時は大阪市の郊外に住んでいた。体験したあの揺れは震度5弱だと後で知った。自宅からオフィスのある天満橋まではJRと地下鉄で約40分。オフィスは今と同じ場所である。

激しい揺れの割には家族も家財も無事だった。それを確かめた後、震源地にもっと近いオフィスのことが気になった。午前8時か9時だったか、JRは止まっていて地下鉄は一部動いているらしかった。車も自転車も所有していなかったので、小学6年生の二男の自転車を使うことにした。「この自転車は会社に置いてくる。新しい自転車を買ってあげるから」と言ってオフィスに向かった。

平時だと自転車で1時間で行ける距離だが、ガラスの破片がすさまじく、また通勤の人たちの群れで思うように進めなかった。空いた道を探りながら走り、たぶん1時間半か2時間かかって着いた。オフィスのエレベーターは止まっていた。非常階段は、当時夜間は鍵をかけていたので、使えなかった。昼前にエレベータ―が動いた。オフィスはほとんど何事もなかった。一駅向こうの北浜の知り合いのオフィスではスチール製のキャビネットが全部倒れていたと聞いた。


先週の1月17日(金)は阪神淡路大震災から30年の日。翌土曜日、自分の体験を踏まえて回想を巡らしていたが、まるで戦場のような大火災の戦慄、焼きつくされた現場で茫然自失で立ち尽くす老女の姿が浮かび上がった。長田に行くことにした。長田で下車するのは初めて。土地勘がなく長田と新長田の距離感の違いも知らず、まったく見当もつけずに大阪メトロと阪神電車を乗り継いで高速長田駅で降りた。

長田神社に参拝して前日できなかった黙祷と鎮魂。もちろん無言だが、思いは文字にもならない。火災で焼失した商店街の再生の様子を見ようと、商店街をいくつか巡ってみた。街のビフォーは知らないが、ビフォー/アフターを想像しながら歩く。道すがら出くわすやや広めの広場や公園のことごとくが、避難のための防災スペースに見えた。

住宅地でも商店街でも焼肉・ホルモン、お好み焼き、洋食の店が目に付く。いつぞやのテレビのドキュメントで見た店には行列。並ぶ根気がないので、商店街の外れの店に入り、ぼっかけ(牛すじ・コンニャク)入りのネギたっぷりのお好み焼きを食べた。10年以上にわたって、防災・社会貢献ディベート大会に携わってきたが、ある年の大会後にぼっかけの焼きそばとお好み焼き、そばめしで打ち上げをしたのを思い出した。

土曜日の「電車で行って街歩き」の歩数は約15,000歩。もっと歩けたが、翌日曜日にも出掛けるつもりだったので欲張らなかった。

〈続く〉