先々週に続いて先週も土日が雨。昨日は昼に何を食べるか定まらず、先週に食べたものを振り返ってみたら中華料理を食べていないことに気づく。自宅から歩いて7、8分の店を思い出して行ってみた。数年ぶり。
鶏とカシューナッツ炒め定食を注文。出てくるまで少々待たされたが、まだマシだったようだ。ぼくより先に入店したのにまだ料理が出てこない客が何組かあり、キャンセルが相次いだ。「厨房スタッフが一人休みなので、料理をお出しするまで15分ほどかかりますが、よろしいですか?」と先に聞いておけばいいのに。要領と段取りが悪い。
店を出て、ちょっと寄り道して「歴歩」することにした。大阪のこのあたりは観光客も来る歴史地区だが、住んで17年も経つのに、まだ地元感覚が熟さない。よく街歩きしていると思うが、今も知らないことばかり。空堀商店街から南へ下る狭い路地がいくつもあり、そのうちの一つ――7年位前にタモリがブラタモリした――北田島地区に入ってみた。
鉄砲方同心の住まいが何十軒もあった所だ。武家の兵卒には与力と同心があって、与力が騎馬兵で同心が歩兵。同心は与力の部下として雑務や警備の任にあたっていた。ここ大阪城下では敵が侵入した際には壁の内で鉄砲を構えたらしいが、それは有事の話。平時は鉄砲の研究、砲術、制作、修理をおこなっていたらしい。
お屋敷を再生したりインバウンド対応したりして店や通りが垢抜けし、さあこれからと言う時にコロナに見舞われたが、今はかなり賑わいを取り戻している。空堀は高台の上町台地に位置し、ここから西への道はどれも坂である。水は高い所から低い方へ流れるから、水は空堀には溜まらなかった。文字通り「水のない、空っぽの堀」だったのである。
このあたりは大阪城の惣構え堀の跡。城下町全体を堀や堰などの城壁で囲んでいた。城壁の一部が今もあちこちに残っている。堅守防衛していたのは天守閣のみならず、攻められてもまち全体で長期間籠れるようにしていたのである。史実的に言えば、功を奏したことにはならなかったが……。
南方面すぐの所が瓦町で、かつては土の採取場だった。瓦用の土であるが、人形作りにも用いられた。その土のおかげで、すぐ近くを南北に走る松屋町筋が日本有数の人形問屋街になった。ここ十数年凋落が著しいが、一部の人形屋はマンション経営とネット販売で何とか生き残っている。
空堀商店街→田島北ふれあい広場(南惣構え堰)→再生長屋「惣」→直木三十五邸跡複合施設→観音坂→再生町家「練」→高津原橋→榎大明神→熊野街道のルートをゆっくり半時間ほどかけて帰宅した。参考までに、大阪城本丸、真田丸、南惣構え堰の位置関係は下記の地図の通り。三ノ丸の文字の「ノ」のあたりが自宅、西ノ丸の文字の「丸」のあたりがオフィスである。