超ショートドキュメンタリー×4篇

フォカッチャ食べ放題?

この日が二度目の入店。牡蠣フライ、ハンバーグ、サラダが盛られたランチプレートに焼きたてのフォカッチャが食べ放題。ひねった棒状のフォカッチャは珍しい。注文を終えると、熱々のがまず1本出てくる。ランチプレートが運ばれる前にぺろり。プレートが出るタイミングで「お替わり」を所望する。

ところが、2本目がなかなか出て来ない。プレートが終わる頃にようやくお替わりが来た。食べ放題なのに、フォカッチャ好きなのに、前も今回も2本どまり。この店の食べ放題とはお替わり1回? はたして次回は記録更新なるか。

日本一寒いはずなのに……

20年以上前になるが、帯広で研修を済ませて後泊した。明けて翌日に帰阪の予定だったが、「陸別でもう1泊しませんか? 小さな別荘を持っているんですよ」と研修主催者に誘われた。返事の前に「明日の切符をください」と言って、誰かに変更手配をさせた。「陸別はここから近いですよ」と言われたが、途中温泉に寄り道して3時間ほどかかった。

6月の陸別の朝、キタキツネの姿を見ながらトイレで用を足した。トイレは別荘の外、冬かと思うほど身震いした。陸別の売りは「日本一寒い町」。過去最低気温-38.4℃7月の平均気温18.5℃。それなのに、去る723日に35℃超を記録した。いずれ日本はどこで暮らしても、夏と冬の二季にして高温と低温の二刀流になる。

トウモロコシ、シャインマスカット、イチジク

事務所の隣りが府立高校。花や観葉植物の手入れに余念がない。1ヵ月半程前に背の高い植物がお目見え、てっきりヒマワリだと思った。今月に入ってそれがトウモロコシだとわかった。日当たりのよい場所なので、これからの生長を楽しみにしている。高校の隣りが寿司屋が入るビル。ビルの1階と2階部分をシャインマスカットが覆う。

自宅に近づいて表通りから裏通りに入るとイチジクの木。先日、三代目桂春団治似の家主と初めて会話をしたが、「いま65歳。このイチジクは自分が小さい時からここにあった」とおっしゃる。特に手入れはしていないということだが、る実は年々少なくなっているらしい。

トウモロコシ、シャインマスカット、イチジク……漢字にすると、いずれも難読字であり難書字である。玉蜀黍、麝香葡萄、無花果。

いろいろなクラッカーあります」

店のガラス窓の貼紙に書いてあった。「いろいろと言うけど、クラッカーなんてたかだか34種類だろう」と思って、もう一度貼紙を見て店の様子を窺った。「パーティーグッズ」の店だった。

数字の二字熟語を遊ぶ

数字を含む二字熟語の数は限られているが、あることはある。あることはあるが、字順逆転すると意味不明になるものが多い。数少ない例から3つ選択。

五七ごしち七五しちご

(例)五七の五文字と七文字を並べ替えて七五にしても意味が変わらないという人がいるが、ニュアンスと調子は見事に変わる。

俳句は五七五、短歌は五七五七七。たとえば、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」という和歌は、五七を二度繰り返して七で終わる。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」は都々逸で、七七七五。下線部の〆は七五調だ。
七五調は浄瑠璃の特徴。近松門左衛門の『曾根崎心中』の名調子が有名。

あれかぞふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて
残る五つが今生こんじょう
鐘の響きの聞きをさめ
寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

五音と七音の韻律は日本人に快く響く。五七調は荘重で、七五調は軽やかな調子と言われる。声に出してみてこその韻律である。

十二じゅうに二十にじゅう

(例)ちょうど感をあまり覚えない十二なのに時間やカレンダーには不可欠。他方、ちょうど感があるのに二十という数字はわが国では二十歳はたちの他に出番が少ない。

十進法に比べて十二進法は使いにくそうに見えるが、時計盤の文字、1ダース、年十二ヵ月、十二支、星座で身近にお世話になっている。二十という数字は、20ドル紙幣や20ユーロ紙幣など、世界では貨幣の単位としてスタンダードである。

万一まんいち と 一万いちまん

以前取り上げたが、例文を新たにして書いてみた。

(例)「万一そんな事態になったら……」とは通常ありえないこと――めったにないこと――を仮定している。他方、一万は昨今さほど珍しいものではなくなった。

千を10倍、百を100倍、十を1,000倍にするとそれぞれ一万になる。一万の大きさを説明するのにこれ以上詳しい方法は見当たらない。こんなに大きな数字なのに、一万円という文字は見た目が軽い。祝儀袋に「壱萬圓」と画数の多い漢字を使うのは貫禄を示すためである。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

学びは甘くない

「学び続けることが重要」と言う人がいるが、それは習慣の話に過ぎない。学びで重要なのは「日々ハードルを上げていく学び方」だ。学びは義務でも権利でもなく、覚悟である。

適塾の創始者、蘭学者の緒方洪庵

名称や形態は変遷したが、30代後半から本業とは別に私塾を主宰してきた。オフィスから西へ歩いて15分、緒方洪庵の適塾が保存されていて、よく訪ねたものだ。足を踏み入れると、学び心が横溢した当時の空気が偲ばれる。「輪講」という会読兼討論の方法について強く触発された。

適塾の輪講で最優秀だったのが福沢諭吉。『学問のすゝめ』や『福翁自伝』をよく読み、また『適塾の研究』(百瀬明治著)では、江戸末期に比べて現代人の学びが甘すぎることをあらためて思い知らされた。

何事もすでにある程度わかっていたら理解は容易である。Aについてすんなりとわかるのは、Aと照合できる知識を持ち合わせているからだ。わからない、難しいと感じるのは、自分の知識と照合できないからである。ここで学びをやめると何も身に付かない。一かけらでも齧っておくと、次なる未知と出合う時に、照合可能なヒントになってくれる。

幼児は知らないことばを一つずつゆっくりと習得していく。初耳の単語ばかりなのに必死で聴こうとしているうちにことばが増えていく。効率が悪そうに見えるが生まれて2年もすれば大人たちの会話が理解できるようになる。成人の学びも基本は一つずつ。やがて知のネットワークが形成されて、ある日閾値を突破する。

適塾では絶対的な勉強量が他塾と違っていた。難しいことをおもしろいと感じる塾風があった。蘭学塾だったから学びの狙いははっきりしていた。しかし、蘭学を蘭学だけで終わらせず、世事一般に生かそうとする学びの姿勢があった。

目先のハウツーを追い求めるようでは本物の学びにはならない。学びの向こうに立身や報酬を目指さず、小手先の技術に偏重せず、人間や社会に目を向ける。本物の学びは元々「無私的」なのである。

抜き書き録〈テーマ:夏、暑、食〉

今年は5月から6月半ばまでが例年に比べて過ごしやすかった。その分、7月の時候が身に堪える。「暑い暑い」と言わずに、黙ってスタミナ食を補給するように努めている。

本ブログで題名に夏を含む記事をどれだけ書いたかを調べてみた。季節の夏と関係のない『ふと夏目漱石』を除いて9題あった。

『「日」と「者」の夏』  『秋が来て夏が終わる』  『なつと夏』  『夏の終わりの……』  『夏はやっぱりカレー?』  『夏は豚肉料理』  『夏のレビュー』  『夏の歳時記』  『夏の忍耐、昔の3倍』

ざっと本棚を見たところ、題名に夏が入っている本は見当たらない。空いた時間に歳時記の本と食の本をいろいろと繰ってみた。

📖 『歳時記百話 今を生きる』(高橋睦郎 著)

「暑」という見出しのページがある。夏は暑いという実感は昔から変わらない。夏と関連する季語として「暑さ」「大暑たいしょ」「極暑ごくしょ」「溽暑じょくしょ」「炎暑えんしょ」を列挙して、著者は3つの句を示す。

なんとけふの暑さはと石のちりを吹く   鬼貴
石も木もまなこに光る暑さかな   去来
青雲あおぐもに底の知れざる暑さかな   浪化

ありとあらゆる感覚が刺激される様子が伝わってくる。熱を帯びているように見えるせいか、それとも単純に刷り込みのせいか、暑という文字には疲弊させられる。暑中見舞の葉書が激減して、文字を見る機会が少なくなったのがせめてもの救い。

📖 『考える舌と情熱的胃袋』(山本益博 著)

毎年、土用のうしの日ともなると、うなぎ屋に行列が出来る。ところが、この時期の鰻は、けっしてうまいものではないのだが、「夏バテ防止に」なんて鰻屋の口グルマに乗せられて、真夏に蒲焼ということになってしまっている。

その土用の丑の日、今年は明日(719日)だそうである。土用の丑は江戸時代からPRされてきた。鰻自体が夏バテしておいしくない夏は蒲焼が売れなかったのだ。この商魂が今も続いていて、丑の日にこだわって鰻重に大枚をはたく人たちが少なくない。

巷では1尾千円程度の安い中国産の蒲焼をおいしく仕上げる方法が紹介されている。簡単に書くと、熱湯をかけて水分を拭き取り、蒸し焼きにしてからタレを塗る。以上。これで安上がりで国産並みの自家製の鰻重が完成する。明日ありつけるようにと祈るわけではないが、鰻のビフォー・アフターを描いてみた。

人生後半の自主練

今年もまた、この暑い時期を迎えたオフィスの観葉植物群。春に爽やかなグリーンの新芽を出したと思ったら、ほんの1ヵ月の間にぐんぐんと生長を続けて上方へ左右へと葉を膨らませる。直射日光のない陽当たりのよい場所、ほどよい水やりのお陰と言うだけでは不十分。植物のチカラには奇跡と呼ぶしかない何かが備わっている。

狭い鉢の中での植物の生長ぶりを観察していると、わずかな経験と知識しか持ち合わせていないのに、驚嘆に値する成果を生み出す若い人たちを想う。能力の絶対量が不足していても、固定観念に染まらない発想をしてオトナよりも大きな創造の可能性を膨らませる。

亡き父の姉は先々月に100歳を迎えた。「人生100年時代」が身近なところで現実になりつつある。高齢者の経験と知識は若者を凌ぐ。しかし、日々暇な時間をやり過ごしているうちに、自分だけは大丈夫と思っていた脳と身体の衰えに気づき、根気も失せて身につけてきた経験と知識を十分に生かし切れなくなってしまう。

ここ数年、某企業の依頼に応じて人生100年時代をテーマにしたコラムを書いてきた。加齢してフレイルに陥る高齢者が多いなか、加齢してもますます充実一途の雰囲気を漂わせる少数のシニアがいる。意気軒高のよいお手本になる人たちだ。生きる意欲があるかぎりは、頭を使い身体を動かすことに億劫になってはいけないのだろう。

どうすれば元気にシニアライフを過ごせるかを安直に書くわけにはいかないが、取材や事例や自らの体験を通じていくつかのヒントを得た。

• 人間関係は「つかず離れず」が基本。明けても暮れても共食しない、仲間と群れない。他者に頼らない生き方を基本とし、受けた情けは忘れない。

• 一人の時間に孤独に苛まれることなく、没頭できる対象を持つ。若い頃から嗜んできた趣味を飽くことなく続ける。但し、新しい体験の幅を狭めない。

• 言語生活を活性化する。雑談する、本を読む、傾聴する。とりわけ、日記やノートやメモなどを手書きする。書くことは言語力と記憶力をキープする要である。

他にもフレイル予防の食事やフィットネスがあるが、門外漢なのでここでは取り上げない。人生後半の意気軒高を望むなら、誰かと一緒に何かをする前に、一人で何かをし続ける「自主練」に励むことだ。面倒くさがらずに、マメに、日々新たにワクワクして。

語句の断章(68)結構

いつもの辞書ではなく、久しぶりに類語辞典を手に取る。「結構けっこう」は多義語で、大きく3つの意味がある。辞書の用例を自分なりにアレンジしてみた。

① 構成・趣向。「この建造物の結構は壮麗だ」とか「文章の結構がなかなかよい」というのが元来の用法。
② 優等。「結構な出来映えだ」、「結構な品物をいただきました」というような使い方をする。
③ 十分/不十分。「この道具で結構間に合う」や「彼の英語は結構通じる」。「意外なことに」とか「想像以上に」というニュアンスが感じられる。

建物や文の構成が始まりで、褒めことばとして「結構がいい」などと言ったようだ。これが変化して、たとえば「結構なお庭ですなあ」とか「旅も食事も結構づくめだった」などと使うようになった。しかし、「結構なご身分だこと」という評になると、本意か皮肉かがわからなくなる。このあたりから意味が二重化してきた。

やがて、上記の例のように、褒めと、不要/お断りの両義を持ち合わせるようになる。結構な味ですと満足を示すこともできれば、もう十分ですという意味でも使える。なぜ結構は多義後になったのか?

国語学者、岩淵悦太郎の『語源散策』にヒントが見つかった。昔は「すぐれた結構」と言っていたのが、やがて表現を短縮して結構だけで「すぐれた結構」という意味になったという。そして、使う対象が建築や文章だけでなく、天気や料理や人柄などに広がっていった。

なるほど、表現を短縮化し、かつ適用範囲をどんどん広げていけば、意味が曖昧になるのもやむをえない。こうして、結構はイエスとノーの両義を持ち、意味の解釈は相手に委ねられることとなった。

曖昧ついでに「結構毛だらけ猫灰だらけ」などとも言う。意味よりもただ単に語呂を楽しむ表現として使われてきた。ちなみに、ありがとうございますの意の「ありがた山のかんがらす」。大河ドラマ『べらぼう』の蔦重つたじゅうこと蔦谷重兵衛のあのせりふも、これとよく似た語呂遊びである。

ブログ、2,000回という通過点

本ブログ、“Okano Note”は今日のこの投稿で2,000回を数える。何かシャレたことを書いてみようと思ったが、平凡に172,000回の雑感を綴ることにする。

2,000回の一つ前に1,999回があり、2,000回の一つ後ろに2,001回がある。こうして見ると、2.000回が他の回と同じく一つの通過点であることがわかる。どういうわけか、1,000回や2,000回を区切りにしようとするのが人の常。しかし、「ちょうど100」と言うのもあれば、「ちょうど257」と言うのもある。

「ちょうど」というのは人間界で人間が作り出している。誕生日が1225日の人が買物をして1万円札を渡した。お釣りが1225円だったら、ぴったりちょうど感を覚える。ただそれだけのことだ。ブログの2,000回は数えていたのではない。投稿一覧に投稿回数が出るから知っただけのこと。

徒然なるままに文を綴るにしても、動機も無しに週2回ペースで続けることはできない。動機の内容が同じだと来る日も来る日もよく似たことを書かざるをえない。飽きないように長く続けるには多様な動機がいる。多様な動機が多様なテーマのヒントを授けてくれる。

サービス精神のつもりでも説明が過剰になると嫌がられる。親切心で綴っても、小難しい文を読む他者には迷惑なことがある。饒舌に要注意だ。しかし、思いつきの短文を適当に書いてけろりとしているわけにはいかない。公開とは責任を負うことなのだから。

「継続は力なり」と言うけれども、何の力なのかが明らかにされない。ずっと続ければいったいどうなるのか……継続は力なりの「力」は、続けるという力である。つまり「継続は継続する力をもたらす」の意。そう、この言い回しは同語反復トートロジーにほかならない。

書いた文章を照れもせずに抜け抜けと公開しているわけではない。自分の書いたものを他人様ひとさまにお読みいただくのは、内心うれしくもあり、また自信にもつながるのだが、内実の心境としては少々気が引ける。17年経った今も少々恥ずかしい気持に変わりはない。書いたり話したりすることには照れがつきまとう。

これからも、考えることや気づいたこと、その他諸々の見聞を――書かないよりは書いておくほうがいいと判断して――公開していこうと思う。衒学に走らず、また自己陶酔に陥らないように気をつけて。

2025年6月のエピソード写真

今年の6月、月末は厳しくなったが、例年に比べると、特に朝夕ははまずまず過ごしやすかった。あっと言う間に過ぎた。わざわざ書きとめるほどの話ではないが、写真を見ながら振り返ってみた。


先週、本ブログ『語句の断章』で「阿漕あこぎ」を取り上げた。阿は曲がり角、ご機嫌とり、親しみを込めた呼称を意味する多義語。白川静がどんなふうに語源を探ったのか。辞書を開いた。だけに一番最初に出てくるだろうと思いきや、収録されていなかった。

事務所からの帰り道、道路工事が長引いている場所がある。ここを歩くたびに、この水道の記号が目に入り、コテ(ヘラ)を連想してお好み焼きを食べたくなる。


かなり巧妙な手口でリュックサックの中の、財布は盗られず、財布の中のクレジットカードだけが抜かれた。利用内容の確認メールが入って気づいた。「利用に覚えがない」をクリックしてカードを無効化し、再発行を申請。インドルピーの通貨で30万円ほど使おうとしたようだ。被害の有無に関わらず、こういう事案は警察に届ける。

蕎麦の有名店で修業した料理人が独立して店をオープンした。行ってみた。いい仕事をしている。二八の硬い蕎麦が自分に合う。それはそうと、天ぷら付きざるそばはすっかり高級料理の仲間になった。

夏に日傘を差すようになって3年目。朝に東に向かい、夕方は西に向かう。片道123分だが、もう手放せなくなった。但し、暑さしのぎの代償として視野は狭くなる。

眼科が処方した2種類の目薬のうち1つが品切れだった。「明日なら入ります」とのことで、翌日調剤薬局を再び訪ねた。自宅に帰るともらったはずの薬がない。あちこちを探し、翌日に事務所でも調べ尽くした。ない。また薬局へ。手渡したと確信した調剤薬局、たしかに受け取ったと思ったぼく。結局、薬局に置いてあった。
代金を払い終えたのに商品を受け取らずにその場を離れることが、時々ある。そして残された商品に気づかない店員も、時々いる。