当世ランチ外食事情

知人とのランチ談議をきっかけにランチ外食について書いてみた。

高級レストランではなく、仕事場近くでの日常の昼食なのに1,000円超えが当たり前になって久しい。メニューの数字を見れば最安が1,200円、上になるとその倍の値付けをする店も少なくない。

当世の物価事情を知っているので、値上げはやむをえないと思うし食事処の苦心に同情もする。しかし、この界隈で30数年間にわたり500円から1,000円未満で昼食してきた。その値段が刷り込まれているから、当世のランチの価格になじめない。たとえば、ミックスフライ定食を数年前に800円で食べていたのに、今では同じメニューが1,300円という変わりようだ。

社会の大勢たいせいが値上げに向かう中、あの手この手で工夫し薄利多売で頑張っている店がある。そういう店には常連がつくから、午前11時半には席が埋まる。会社もランチタイムをフレックスにして社員のサポートをしているように見える。


食事処1:初入店した時は、看板メニューの鶏の唐揚げ定食(950円)を注文した。大きめの唐揚げが6個。食後に仕事があるから、この量はきつい。後日知ったが、唐揚げを1個減らして5個にすれば900円、2個減らして4個にすれば850円にしてくれる。4個でも十分だ。同じ味付けの唐揚げでは飽きるので、竜田揚げ、南蛮などの日替わりも出す。唐揚げ好きなら週2で通える。席数約20、調理1人、ホール兼レジ1人、弁当担当1人。

食事処2:海鮮丼にミニ蕎麦とミニおでんと冷ややっこが付いている。これが680円。他にもロースカツ定食や幕の内など十数種類のランチメニューを提供していて、どれも600円~750円ゾーン。席数約60席、メニューが豊富。厨房はメインが1人、サブが1人。役割を決めていて手際の良さが伝わってくる。ホールとレジで2人。

食事処3:以前刺身定食を食べていたら、後から入って来た隣りのテーブルの客が鰻丼を注文した。運ばれてきた鰻丼が950円と知って驚いた。後日入店して鰻丼を注文した。ボリューム感のある大きさと厚み、肝串が1本付いている。中国産特有のくせをうまく消して調理してある。これは少なく見積もっても2,500円級ではないか。席数約50席、和洋メニューいろいろ。厨房不明、ホール3人。家族経営っぽい。

食事処4:カツとじ定食850円。大きめの汁椀の具だくさん味噌汁に小鉢が2つ。さらに、1145分までに入店すると50円引き。十分に満足できるのでライスのお代わりはしたことがないが、男性客の半数はお代わりをしている。「ライスの大盛りもお代わりも自由」とメニューに書いてある。懐が深い。米の高騰にどう対応しているのだろうか。

語句の断章(65) 付箋

英語の「ポストイットPost-it)」付箋ふせんと訳したのではない。また、付箋のことをポストイットという英語で言い換えたのでもない。付箋とポストイットは同じ機能を持つ同種の文具だが、付箋は一般語で、ポストイットは3Mスリーエムという会社の商標である。Post-itというロゴの右上にはのマークが印されている。


ポストイットが画期的だったのは貼っても簡単にはがせた点だ。脱着可能な糊が発明されてポストイットが1968年に発売された。もちろんそれ以前からわが国に付箋はあった。注釈や覚書を書いた紙を本に挟んでいた歴史がある。はさむだけでは紙片が落ちるから、糊で貼った。昔の古文書に付箋が貼られているのを展示会で見たことがある。

企画会議などではポストイットと呼ぶ人が少なからずいる。もちろん、付箋という、少々古めかしいことばを習慣的に使う人もいる(若い世代にもいる)。ところが、書くとなると、ポストイットが増える。理由は簡単。付箋の「箋」が書けないのだ。便箋の箋なのに、使う頻度が異常に少ない。便箋は使うくせに便箋という漢字はあまり書かない。生涯一度も書かない人もいるはず。箋の字が書けない人は「ふせん」または「フセン」と書く。

新明解国語辞典によると、付箋は「疑問の点や注意すべき点を書いて、はりつける小さな紙切れ」。そう、付箋にはすでに「紙」の意が含まれている。だから、付箋紙と言ったり書いたりするには及ばない。便箋のことをわざわざ便箋紙と言わないのと同じだ。

実は、付箋は人気のあるステーショナリーである。文具店を覗いてみると品揃えの豊富さに驚く。本を読み企画をし文章を書く仕事に従事していたので、一般の人の何十倍も付箋を消費してきたと思う。重宝して使っているうちに、差し迫った必要もなく在庫もあるのに買う癖がついた。

本家のポストイットに比べて百均の付箋は激安だ。そのせいで気軽に買うから、どんどん増える。増えたら使えばいいが、付箋というものは使っても使ってもいっこうに減らないのである。同じサイズ・色のものばかり使っていると飽きるから、在庫があるのにまた買う。文具好きの机の引き出しには付箋の束が詰まっているはずである。

抜き書き録〈テーマ:絵画〉

芸術の季節と言えば、通り相場は「芸術の秋」だが、たとえば「美術の春」があっても不思議ではない。春にどこかに出掛けて風景を眺めたり街中でたまたま展覧会の前を通り過ぎたりする時、美術の春を想う。春に目に入ってくる対象は明るい水彩画のモチーフになる。

ゴールデンウィークは近場に出掛けてよく歩いたが、どこの美術館も要予約。行き当たりばったりでは入館できない。と言うわけで、絵画に関する本で美術不足を補った。もっぱら鑑賞側の愛好家だが、久しぶりに絵筆をとってみようという気になっている。


🖌 読書画録どくしょがろく(安野光雅)

いわゆる画家が、自分を芸術家だと信ずるために、看板絵などを軽く見ることのすくなくなかったそんな時代に、場末の風俗や、安花火や、果物屋の店頭に、時代に先んじて美しさを発見し、
――つまりはの重さなんだな――
といわしめる一の檸檬を絵にしたのである。

画家である安野は梶井基次郎の小説『檸檬』を読んで、この作品を絵だと思ったと言う。小説の読後の感覚と絵画鑑賞の感覚に同等の感動を覚えたのだ。本書の表紙は安野自ら描いた京都三条と麩屋町ふやちょうの交差するところ。すぐ近くに丸善があった。当時、『檸檬』を読んでその余韻を求めてやって来た人が多かったはずと安野は思う。

🖌 『絵はだれでも描ける』(谷川晃一)

(……)上手な絵だけが絵画ではないし、上手ということがそのまま見る者を感動させるとはかぎらない。むしろ上手に描くことによって真の魂の創造的表現力が失われることもめずらしくないのである。
ここでいう「創造的」とは何か。(……)「創造美術教育」のリーダー的存在であった久保貞次郎は(……)創造的である作品の特徴を次のように分類している。
1、概念的でない。
2、確固として自信にあふれている。
3、生き生きとして躍動的。
4、新鮮、自由。
5、迫力があるか、または幸福な感情にあふれている。

上手でなくても絵の好きな児童が描く創造的な絵はおおむね上記の5つの特徴を満たしている。他人に認められるモチーフや技を過剰に意識し始めると条件からズレてくる。モチーフについては次の一冊が参考になる。

🖌 『千住博の美術の授業  絵を描く悦び』(千住博)

画家の場合、モチーフとの出合いは一生を左右します。だから私は、モチーフは自分で得たものではなくて、「与えられたもの」だと思うのです。従って、少し描いて飽きた、とか、一枚描いたらもう繰り返し描かない、などというのではなく、何枚でも何枚でも描くのです。

イタリアのボローニャに旅した折り、市庁舎内でジョルジョ・モランディの常設作品展をじっくりと見た。モランディは主に卓上静物というテーマに生涯取り組み、同じような作品を次から次へと生み出した。しかも晩年はボローニャから外には出ずアトリエに閉じこもって創作を続けた。どれも似たり寄ったりで、あまり好みの筆遣いではなかったが、記念に101セットの絵はがきを買った。買った当時よりも今のほうが気に入っている。モチーフに憑りつかれてこそ生まれる画風の個性なのだろうか。

ことばとモノの光景

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行きつけの店の担々麺には半端ない量の肉味噌が入っている。麵を食べた後に、肉味噌の肉と鷹の爪とスープが鉢の底に残る。ミンチ肉を残すのはもったいない。だが、食べ切ろうとしてレンゲを使えばスープも鷹の爪も一緒にすくってしまう。
ある日、穴あきレンゲがテーブルに備えられていた。そうそう、これがいい……と思ったが、穴あきレンゲでもミンチ肉と鷹の爪は同居する。結局、レンゲに残った肉を口に運ぶには
箸で鷹の爪を取り除くことになる。スープがない分、穴なしレンゲよりも多少は食べやすいが、肉と鷹の爪を分別できるレンゲは開発されるだろうか。

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「安っ!」と言うと、料理の値打ちが下がるので、「真心のこもりし御膳春盛り」などと五七五でつぶやくようにしている。
「夢を信じた若き頃 今を信じて生きる日々」などと
七五調でつぶやくと、深刻な話もリズムを得て軽やかになる。

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「雲と空」と「空と雲」。どっちでも同じだろうと思ったが、書いてみたら違って見える。
雲と言うと、言外に空を感じる。だから「雲と空」と言わなくても「雲」とだけ言えばいい時がある。
他方、空と言うだけでは、雲のことは思い浮かばない。だから雲のことも言いたいのなら「空と雲」と言わねばならない。

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大きな虹が出た。みんなが見上げた。鈍感な人も視野の狭い人もみんな見上げたはず。大きな虹は人々を分け隔てなく包容する。
虹が出ていなくても、時々空を見上げてみるものだ。空を見上げるのを忘れたら、目を閉じて空を想う。それを「空想」と言う。

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風景や花を見る。見て何かを語る。対象と距離をおいて感じようとするから語れるのか、それとも、対象に分け入って交わろうとするから語れるのか。
ものの見方や語りは、やれ前者だ、いや後者だと、主張は二分されるが、白黒がつく話ではない。どちらもあるかもしれないし、どちらでもないかもしれない。

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春の陽射しとそぞろ歩き

日光を浴び過ぎると皮膚に良くないという人がいる一方で、日光をほどよく浴びるとセロトニンが分泌されるという専門家もいる。どういうメカニズムかを調べて歩くのは野暮なので、セロトニンは何となくいいものだと思うことにして散歩に出掛ける。

北西というおおよその方向を目指す。自宅から北上する途中で二人連れや小グループの外国人に次から次へと出合う。このあたりの外国人観光客は大雑把に言うと西洋人である。彼らは観光地以外のオフィス街にも頻繁にやって来る。職場近くのお好み焼き店では日本人がぼく一人ということも稀ではない。

土佐堀川と堂島川に挟まれた全長3キロメートルの中之島公園もほどよく賑わっていて、ゲームに興じたり弁当を食べたりしているのはいい光景だ。ゴールデンウイークに渋滞の中をわざわざ遠方まで行かなくても、近場にいくらでもいい場所がある。イライラして移動するよりも、芝生に寝転んでセロトニンとやらをいただくほうが心身にやさしい。

黄モッコウバラ

ラ園はまだバラ園らしくない。「♪五月のバラ」という歌を思い出す。そう、バラの出番はおおむね五月だ。今は美術館の裏手の川沿いに咲く黄モッコウバラの生長が著しい。

東洋陶磁美術館前

緑が鮮やかだ。緑のグラデーションは目にやさしく、目薬要らず。緑ばかりが続くよりも所々に建物や構造物が点在する光景が気に入っている。

淀屋橋から東方面を望む

中之島公園の最東端から歩き始めて、川に沿って歩きバラ園と公会堂を過ぎると大阪市役所横に至る。いつも淀屋橋の欄干から今歩いてきた方角を振り返る。

「御堂筋パークレット」(別名、淀屋橋いちょうテラス)

淀屋橋から御堂筋を南下する。歩道と車道の間のスペースを生かして、23年前からウッドデッキやベンチやカウンターが設置されるようになった。カフェで休憩するのもいいが、この時期から来月中旬までならアイスコーヒーをテイクアウトしてパークレットでくつろげる。若かった頃の昔の御堂筋はそぞろ歩きする大人のイメージだったが、自分が大人になった今、車線も少なくなって、大通りだった御堂筋は垢抜けした通りになった。