街路樹の取扱い

つい先日のニュース。東京都日野市の緑道でイチョウの木の枝が折れて、その下を歩いていた男性(36)を直撃。男性は死亡した。最近、街路樹の倒木や枝の落下が目立つようになってきた。イチョウの木はこの時期ギンナンの実をつける。専門家によれば一本の枝に数10キロの実がたわわにることも稀ではなく、その重みで枝が折れて落下する。

経年した街路樹の老朽化が人の通行の安全に支障をきたすことなど、計画時には想定していなかっただろう。それが死亡事故に至ったとなれば、老木から順番に街路樹の撤去または植え替えを急がねばならない。やむをえないが、理解を示したい。


たまたまわが家のそばを通る熊野街道の始点に近い街路でも、樹木の撤去が予定されている。対象となる街路樹は約15本。「お知らせ」と書いた紙が養生テープで幹に貼られている。

このは、水道工事すいどうこうじにおいて、掘削くっさく支障ししょうとなるため、撤去てっきょ予定よていしています。
理解りかい・ご協力きょうりょくくださいますよう、よろしくおねがいいたします。
撤去作業てっきょさぎょうは、10月上旬以降がつじょうじゅんいこう予定よていです。

表現がしっくりこないが、それ以上に違和感を覚えるのはすべての漢字にルビを振っている点。誰のためのルビ? 掘削と撤去の漢字を読めない人が、掘削と撤去の意味を理解できるはずがない。行政ならではの「やれることはやっています」という形式的な配慮だ。徹底するのなら「お知らせ」にもとルビを振るべきだった。

さて、「この木は(……)掘削の支障となるため」が引っ掛かる。街路樹と水道工事の局は違うが、同じ自治体。ずっと以前に木は当該自治体が植えた。自ら植えた木をぬけぬけと・・・・・「支障となる」と言えるものだ。街路と木々の経緯や水道工事の内容を語らずに、支障とは非情である。

街路とは街の中を通る道である。適当に作るのではなく、長い目で計画的に・・・・作っている。したがって、街路の街路樹も計画的に構想されて植栽されている。植えた時は、市街の美観、環境の整備と保全が目的と説明したくせに、水道工事の邪魔だと判断したら「掘削の支障」の一言で済ませる。撤去を予定と言うが、これは「決定」の意である。隣の自治会のエリアだから出しゃばらないが、役員が知り合いなので、今度会ったら話題にしてみたいと思う。

見たり読んだり思ったり

📌 大手書店に特設コーナーができて、これでもかとばかりに文庫版『百年の孤独』が並べられている。若い頃に単行本で読み、30代でガルシア・マルケスの他の作品も読んだ。そうだ、もう一度『百年の孤独』を読もうと思った時は見当たらなかった。ダンボールに入れたまま不要品と間違えて捨ててしまっていた。数年前に古書店で単行本を見つけて読んだ。そして、いま最新刊の文庫本も手元にある。
何度読んでもあらすじも登場人物も覚えない。残っているのは風土と空気の匂い、突拍子もない物語と出来事のシーンばかり。今回は文明の5つの利器、磁石、望遠鏡とレンズ、天文学、錬金術、写真術が印象に残る。とても理系的だ。

📌 自民党総裁選の各候補者の決意表明。理屈量の多いことばが耳に入ってこないし、感情量の多いことばは滑稽である。これはことばのせいなのか。もしかして決意なんていうものが、そもそも他人ひとに言うものではないのかもしれない。

📌 「グッドラック!」は、別れ際や離れ際の祈り。その後、実際にどうなるかについては言った本人は関心を示さないし責任も取らない。言われた方も何とも思っていない。

📌 毎日が暑い。暑さが積算されてきて、とんでもない総和になっている。睡眠不足はないが、暑さ疲れで仕事中に眠くなる。歩いていても、食事をしていても、本を読んでいても眠くなる。眠くならないのは眠っている時だけだ。

📌 春に颯爽と出掛けて、その土地の情趣を味わった。夏になると、そこは不毛の場のように思える。行ってみようとも思わない。

📌 『百年の孤独』のせいかもしれないが、本棚からウンベルト・エーコの『バウドリーノ』上下巻を取り出した。『百年の孤独』のページ数を超える大作。いくつかある共通点のうち、特徴的なのが「しつこさ」だ。『バウドリーノ』のしつこさは章立てに顕著である。

 1  バウドリーノは書きはじめる
 8  バウドリーノは地上楽園を想像する
13 バウドリーノは新しい町の誕生を目の当たりにする
16 バウドリーノはゾシモスにだまされる
20 バウドリーノはゾシモスに再会する
25 バウドリーノはフリードリヒが二度死ぬのを見る
32 バウドリーノは一角獣を連れた貴婦人に会う
37 バウドリーノはビザンツの宝物を増やす
40 バウドリーノはもういない

語句の断章(56)「他人」

今さら念を押すまでもなく、他人は「たにん」と読むのが基本。しかし、例外があって、「ひと」とルビが振られていることが稀にある。他人を「たにん」と読ませる時と「ひと」と読ませる時では、意味とニュアンスの違いが出る。

Aを固有の人名だとする。「A他人たにんです」と言えば、Aは自分以外の人である。自分以外の人は、親族・親類とそれ以外の人に大別される。他人たにんは親族・親類以外の人とされる。おそらくAは友人や知人ではない。友人や知人なら、他人たにんなどとは言わない。他人たにんAと自分には道で見知らぬ者どうしが通り掛かる以上の関係はなく、この先どうなるかはわからないが、今のところ利害を共にしたりお互いを必要としたりする仲ではない。

他人を「ひと」と読ませたい時、「A他人ひとです」とは決して言わない。自分に直接関係のない事を「他人事ひとごと」と言うが、Aという人名と他人ひとをセットにしてしまうと、Aを適当に扱っていたり素知らぬ顔をしたりしている感じが色濃く出る。他人ひとと言う場合は、自分との分別を強く意識している。そこには「自他」という――現実の人間関係とは別の――存在関係がうかがえる。他人ひととは、自分とは異なる「他者」という存在なのである。

哲学に「他者問題」というのがある。自分には他者の心がわかるのか、仮にわかるとすれば、どのようにわかるのか……そんなテーマを考察する。今、友人一緒に食べているステーキを自分はおいしいと思っているが、他者である友人は自分と同じおいしさを感じているのかどうか。他者の頭痛、他者が見ている色、他者が言う「わかった!」という理解の程度を、自分はわかることができるのか。

他人たにん他人ひとの違いを出すために、他人ひと他人事ひとごとではなく、他者としてとらえてみたい。その瞬間、哲学の思索が始まって頭を痛めることになるが、やむをえない。赤の他人たにんを他者に見立てて論じようとすれば責任が伴うのである。

店主の決断、言い訳を少々添えて

ランチに何を食べるか、午前11時過ぎ頃から迷い悩み始める。ほぼ毎日のことだ。オフィスに備蓄してあるカレーや丼のレトルトにするか、弁当を買ってくるか、外食するか……。外食が一番悩み多いが、いったん店が決まればメニューもほぼ決まるので、それ以上は迷わないし悩まない。

買い置きしてあるカレーや缶詰類に値上がり感はない。弁当を買う店は限られていて、直近の数年間は500円から600円の範囲で収まっている。問題はランチ処である。ここ12年でどれだけ値上がりしたか近似値でチェックしてみた。

担々麺 800円→950
冷やし担々麺 900円⇢1,050
ビフカツ/トンカツ 1,000円⇢1,300
京御膳 1,100円⇢1,300
中華定食 900円⇢1,200

もちろん値段据え置きの店もある。鯛めし屋の定食は開店以来ずっと1,100円、寿司屋の盛り合わせは相変わらず良心的な650円、鉄板焼きのソース焼きそば定食も目玉焼きをトッピングして850円で奉仕している。据え置き組は5店に1店くらいだと思われる。


大きな薪窯を設えた、ピザが売りのイタリア料理店。先日店の前を通りかかった。しばらくぶりである。「ランチの価格・営業日変更のお知らせ」の貼紙が出ている。この店のランチは長らくお得な800円だったが、2年前に1,000円に値上げされた。それでも十分にリーズナブルな値付けだ。メインのピザの他にハムの入ったサラダ、窯焼きのパン、ドリンクがセットになっているのだから。しかし……

ついに我慢の限界が近づいたようだ。セットをやめ、値段そのままで単品の提供にするか、それともセットを付けたままで1,300円に値上げするか……この二択を夫婦で話し合い、セットを維持して価格をアップすることにした……そんな事情と経緯が詳しく書かれている。客としてはもっと利用して売上に貢献したいが、物価高で苦戦している行きつけの店はここだけではない。困っている店にまんべんなく足繁く通うには限界がある。

昨日は、数ヵ月ぶりに和定食の店に入った。すべての定食にご飯、味噌汁、小鉢2品、漬物がつく。メニュー表の値段に変わりはないが、新しく作り替えられたらしいメニュー表の最上段に食材高騰の影響について注釈があった。この店は、値段を上げずに、値段そのままで小鉢を一つ減らす決断をした。この程度なら大勢に影響はない。

ここまで書いてランチに出掛けた。冒頭のほうで紹介した担々麺の店である。そろそろシーズン最後の冷やし担々麺を注文した。値段は3ヵ月前と変わっていなかった。


常連が会計時にスタッフとことばを交わすのが聞こえた。

「来月から値上げって、ほんと?」
「ええ、そうなんです。でも担々麺はそのまま。醤油ラーメンとチャーシュー麺は上げさせてもらいます」
「いくら? 100円くらい?」
「いえいえ、50円です」

この程度なら深刻な値上げ事象ではない。企業努力と呼んであげたい。

抜き書き録〈テーマ:野菜〉

「キノコは菌類で、ジャガイモはイモ類、野菜に含めるのは変だ」と言う人がいるし、そういう説もある。「メロンもイチゴも果物」という分類にも異論が出る。穀物・肉・魚・野菜と大雑把に分けるなら、キノコやイモやスイカやイチゴは生鮮野菜のグループに入る。

7月と8月、暑さに負けないようにしっかり夏野菜を食べた。野菜に関する本も読んでみた。

📖 『身近な野菜のなるほど観察録』(稲垣栄洋著)

主題は「野菜だって生きている」。「野菜が植物であり、生命ある存在であることは誰もが知っていること」と著者は言う。本書では次の43種類の野菜が紹介されている。

キャベツ、レタス、タマネギ、エンドウ、ソラマメ、アスパラガス、タケノコ、ゴボウ、カボチャ、シソ、エダマメ、ナス、トウモロコシ、トマト、ピーマン、トウガラシ、メロン、スイカ、キュウリ、ニガウリ、オクラ、ショウガ、ミョウガ、ネギ、ニラ、ラッキョウ、ニンニク、ラッカセイ、シイタケ、サトイモ、ジャガイモ、サツマイモ、ヤマノイモ、レンコン、イチゴ、カリフラワー/ブロッコリー、ダイコン、カブ、パセリ、ワサビ、ニンジン、ホウレンソウ、ハクサイ

野菜を広義で捉えているので、メロンもスイカもイチゴも、また、シイタケもイモ類も収まっている。このリストから「マイベスト10」が選べるかどうか試してみた。悩みに悩んで選んだが、18種類が残り、それ以上絞れない。ベスト10ではなく、「よく常食している10種」にしてみたら、何とか選べた。キャベツ、タマネギ、トマト、ピーマン、トウガラシ、ニンニク、ネギ、シイタケ、ブロッコリー、ニンジン。汎用性と出番ではタマネギが一番かもしれない。その項には次のように書いてある。

タマネギ|玉葱たまねぎ ユリ科
涙なしには語れない

📖 『食ことわざ百科』(永山久夫著)

野菜だけでなく、食材全般について書かれている。米や餅、大豆、魚、茶についての記述が豊富だ。

「野菜」の本来の意味は、「野」と「草」と「る」からなっているのをみてもわかるように、「野」の「草」を「摘む」ことである。(……)日本の「おかず」は、古くから”野のもの”の比重が、たいへんに大きかった。

わが「岡野」の姓は、丘に登って木の実やキノコを採り、野に出ては野菜を摘んだことに由来するに違いない。野菜のことわざでおもしろいのが一つあった。

ねぎは人影でもきらう

「ネギは日当たりのよい畑でないと生育しない。ネギは、少しの日かげもきらう」らしい。このことわざが正しいなら、ベランダの日陰で育てられるネギは気の毒だ。

📖 『イタリアに学ぶ医食同源』(横山淳一著)

イタリアに行き始めた頃は、麦と肉が中心で野菜控えめな偏食民という印象をイタリア人に抱いた。何度も訪れているうちに、そうではないことに気づいた。どんな料理にもよくトマトを使い、ミネストローネにはいろんな野菜をたっぷり入れる。肉料理ではハーブの出番が多く、ポテトやホウレンソウもよく付け合わせる。決してパスタとピザだけではない。もちろん、ワインを忘れてはいけない。

伝統的な郷土料理には、その風土で育ったワインがよき伴侶になる。したがって、トラットリアはもちろん、リストランテにもソムリエは原則としていない。気の利いたカメリエーレ(給仕人)がいれば必要もない。

地産地消を徹底している。ワインは、かつては水の代わりであり、今ではジュースである。食中酒としてのワインは野菜の一種として見立てることができる。