『時刻表からの自由』というブログを書き、その中で、窓外に景色が見えるバスの便利さと魅力に触れた。そして、こう続けたのである。
「日本の大都市では、地下鉄のダイヤを分刻みにした代償として、バスが都会でも1時間に1、2本というルートが増えた。残念なことである。時刻表などいらないから、せめて1時間に3、4本、同じ路線をぐるぐると走らせればよろしい」。
その一文を書いてから二年が過ぎた。そして、ついに大阪市バスの路線の一つ「天満橋⇔なんば」が4月1日から廃止されることになった。この路線のバス停の一つから徒歩30秒という地の利のいい所にぼくは住んでいる。ふだん4、5キロメートルは平気で歩くから、このバスを利用するのは月に一度か二度。いや、ぼくのことはどうでもいい。たまに乗ると、ガラガラの時もあるが、地下鉄の階段に不自由しそうなお年寄りが少なからず乗車してくることもある。もちろん、1時間1本のバスで乗車率2、3割なら明らかに採算の取れない路線だろうし、バスの運転手に高給を払い続けることもできないことはわかる。 市民の税金で運営しているのだから、公営事業と言えども採算度外視できないという論理を理解しないでもない。
だが、金の問題を思考の限界にするのはどうか。地下鉄と路線が重複し、しかも赤字だからという理由で人気のないバス路線を廃止するのは想像への踏み込み不足と言わざるをえない。世界の名立たる観光都市では、そんな重複を承知の上で運行するバス路線はいくらでもあるのだ。冒頭でも書いたように、バスからは光景が見える。人通りが見える。店舗や広場や建造物が見える。生きている街の息遣いが聞こえてくる。発着地点を最短距離で結ぶだけが能じゃない。移動には過程がある。ベン・スイートランドの「成功は旅である、目的ではない」に学べば、目的達成よりも重い意味が旅程にあることを再認識できるはずだ。