知力の低下が叫ばれるものの、指標の定め方や統計の取り方次第で、昔に比べて知力がアップしているという説も浮上する。マクロ視点で日本人の知力を世代比較するのではなく、ここは一つ、自分の回りの人間をつぶさに観察してみようではないか。しばし自分を棚上げして問うてみよう、「わたしの回りのみんなの知力、いったいどんな程度でどんな具合?」
過去に比べてどうのこうのと考える必要などない。当面の問題を上手に解決できる知力、想定外の難問に直面してその場で瞬時に対処できる知力、暗記した事柄を再生するだけでなく創意工夫もできる知力――こんな知力の持ち主が自分の回りにいるだろうか? 周囲には、定番のお勉強がよくできたであろう「静止知力型優等生」は五万といるが、変化に柔軟対応できる「動体知力」の持ち主は、いないことはないが、稀有である。絶滅危惧種にならぬことを祈らねばならない。
だが、そこまで絶望するにはおよばない。そういう人たちが顕在化していないだけかもしれない。あるいは、ぼくの見る目がないだけなのかもしれない。いや、実は、どんな人間にも部分的には動体知力が潜在しているのだが、それを発揮する環境に恵まれていないのかもしれない。そう、動態的な舞台とテーマを用意しなければ、動体知力を発揮する必要など芽生えてこないからである。
だいたいにおいて、集団で学びながら身につける知力は、じっとしている亀の頭から尻尾までを定規で測るスキルのようなものだ。テーマも対象も計測器もすべて静止している。他方、入り組みながら飛ぶ鳥の数をすばやくカウンターで数えるようなスキルがある。鳥も動くが指もずっと動き続けている。あるいは別の例として、流れる時間を刻むために動き続ける時計はどうだろう。時が動き、同時に時計がそれを刻んでいく。一時も静止することがない。ぼくのイメージしている「動体知力」とはこんな感じなのである。
大学生になった1970年代始めは、知と言えば、まだまだ“knowledge”(知識)のことで、“information”(情報)は目新しいことばだった。前者が“know”(知る)から、後者が“inform”(知らせる)から、それぞれ派生した名詞だ。この二つの英単語には決定的な差異がある。前者の“know”の主体は自分であって、「私が知る」――これが知識。自分の中にストックするものだ。ここに他人は関わってはいない。対照的に、後者の“inform”は「誰かに知らせる」――つまり、自分から他者へ、あるいは他者から自分へと流れる情報だ。知識が〈ストック知〉であるのに対して、情報は〈フロー知〉なのである。
自分があることを熟考しているうちに、時代は動いている。自分の中で仕事をいったん休止しているあいだも、その仕事に絡むさまざまな要因は変化している。国際化・情報化の時代は24時間社会なのだ。このような時代が動体知力を求めているにもかかわらず、相変わらず日本社会で訓練しているのは静止知力――知識の貯め込み――のほうなのではないか。一人静かに本を読み、読んだ本の話を誰にするともなく悦に入る。転がってきたボールはいったん足で止め、それから狙いを定めて蹴る。期限ゆったりの宿題は大好き、でも予想外の問題のアドリブ解答は苦手。
動体知力の特徴は、スピード、集中力、即興性、対人関係性、複雑系、臨機応変、対話的、観察的、異質性、超越的などである。いずれもマニュアルや指導要領ではいかんともしがたい特徴だ。しかし、基本は動体への反応の速さである。すべての対象、テーマ、問題を止まったものではなく、「ピチピチと動いているもの」と認識すればいい。鮮度を落とさずに手早く捌く経験を積むのだ。何年もかかるものではない。テキパキと何事にも対峙すれば、それまで静止していた知力が勝手に動き始めるのである。