免疫研究の専門企業の広報を手伝ったことがある。研究の様子や試薬製造の現場も見せてもらい、専門家にヒアリングして免疫についていろいろと教わった。詳細はすっかり忘れてしまったが、まったく無知だったぼくには抗原と抗体のメカニズムの話はインパクトがあった。強いインパクトを覚えたポイントは今も記憶に残っている。
外部からウィルスが身体に侵入しようとする。この攻撃に対して人間側ではリンパ球やマクロファージなどの軍隊を編成し外敵をやっつける――おおよそこんなふうに理解している。もう少し正確に言うと、ウィルスという抗原に対して、リンパ球やマクロファージが抗体をつくって、抗原の作用を排除したり抑制するのである。これが免疫システム。「病気にならないように抵抗力をつける」というのが普段の表現だ。もっとも関心を抱いたのが、免疫システムが「自己」と「非自己」を識別するという点だ。
自己を強く守れば守るほど非自己への「沿岸警備」はいっそう厳しくなるんだろうな、と考えたりした。「知」になぞらえたら、自分好みの同種の知を蓄積すればするほど、異種の知への風当たりが強くなり免疫反応を示すようになるのだろうか――とも推論してみた。フロイトの防衛機構論的に言えば、現実を歪曲したり誤解したり否定したりすることにつながりはしないか、と案じたりもした。
やがて知の世界にも強烈な免疫システムがあると確信するに至った。肉体の免疫は低下していくが、こっちの免疫は加齢とともに強化されることもわかった。免疫は学習においてもちゃんと機能する。「偏重して同種の知ばかりを蓄積し、同質思考を繰り返すと、異種の知や異質思考への防衛機能が強く働く」のである。そうなのだ、人は非自己と見なす「ウィルス的知性」を拒絶する。一定の成熟レベルに達すると、多くの人たちは新しい知や異種なる知に目を向けなくなる。やがて知の偏りが生じる。免疫過剰による滞りなのだ。
熟年になっても知のダイナミズムを衰えさせたくなかったら、ものすごくリスキーなことだが、意識的に防衛機能を甘くせねばならない。それは、自己内でほぼ自動的に形成される「知の抗体」を弱めて、新種かつ異種なる――もしかすると危険な――「知の抗原」を迎え入れる勇気である。もちろん勇気とリスクに見合ったご褒美も期待できる。自己と非自己を分別しない、開かれた知の世界である。
免疫と学習の構造は、もはや類似という段階ではなく、同一と言ってもいいくらいである。自分を高めようとして学習しているつもりが、実は料簡の狭い防御壁をつくり、安住の閉鎖空間に自身を追い込んでいるかもしれない、というわけだ。防衛機能に保護された学びは、やればやるほど排他的になる。結論を急いではいけないけれど、知の免疫における抗体は「専門自我」と呼ぶべきものだろう。実はその専門、すっかり閉じられた「偏学」に過ぎない。