忘れたことと思い出すこと

人類には記憶しようとして工夫してきた歴史がある。記憶力はいいほうだったが、覚えたくないことまで記憶させられた学生時代はしんどい思い出ばかり。「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのはいつか?」というような問題が出されるから、1492年を「いーよ、この国、コロンブス」というふうに語呂合わせで覚えることになった。年号を覚えることが歴史の学びだとは思えない。あの頃を思い出すたびに空しくなる。

学校の勉強と切り離して遊び心でやったことがあるのが「ワタナベ式記憶術」。その場に居合わせる誰かに、たとえば英単語を「1番何々、2番何々……」と読み上げてもらう。それらを順番に覚えていく。番号を言ってもらい対応する単語を答える。逆に単語を言ってもらって番号を告げる。ここで詳しくは書かないが、50くらいなら簡単に覚えられた。世界の都市名でもいいし、食材でも何でもいい。その技を披露すると、「記憶力の天才!」と驚嘆されたものである。

去る1月、伯母(父の姉)が享年102で亡くなった。葬儀に列席した一人がぼくを見つけて「私を覚えてますか?」と話しかけてきた。伯母の長女の旦那さんだとすぐにわかったので「もちろんです」と返事。伯母の夫のお通夜以来なので30年以上は経っている。ぼくが大学生の頃にわが家によく遊びに来ていたタクシー運転手だ。

「あの頃、個人タクシーの試験準備で勉強されてたのを覚えていますよ」と言ったら、「その節は大変お世話になりました」と旦那氏。何のことかわからない。ぼくよりも10歳以上年長の人をお世話した記憶がない。「え、お世話?」とぼくは首を傾げるばかり。

「個人タクシーの試験を受ける前に、テキストや問題のテープの吹き込みをしてもらいました。私ね、本を読むのが苦手。文字からだと覚えられないタイプでして、当時テープレコーダーで英語を勉強されていた勝志さんにお願いして吹き込んでもらい、運転中や休憩中にずっと聞いて覚えていました」。勝志さんとはぼくのことだが、出題されそうな箇所をぼくがテープに吹き込んだことは記憶にない。

後日、その頃のことをまさぐっているうちに少しずつ思い出し始めた。忘れてしまったことを自分一人で自力で思い出すことは容易ではないが、誰かと雑談したり昔話をしていると、相手の一言がきっかけになって記憶がよみがえる。そして「記憶は不思議だ」と思いながら、昨日の晩ご飯を思い出せない自分を笑う。十数秒かかったが無事思い出した。

旬の食材は「おまかせ」

蕎麦の名店に行ってきた。引っ越せばこのあたりには来なくなるから食べ納めのつもり。家近くなのに最近は足が遠のいていた。年越しそばを2回パスしていたから23年ぶりかもしれない。珍しく並ばずに入れた。さあ、何を注文するか……などと悩むことない。いつもざるそばだ。

食べ納めだから、少々贅沢に旬菜の天盛りざるそばを注文した。この店の天ぷらは手打そばにひけを取らない。メニューに旬菜の定番が書いてある。春にふさわしい次の8種が盛られる。

・ふきのとう
・菜の花
・こごみ
・芽キャベツ
・行者にんにく
・安納芋
・たらの芽
・姫人参

しかし「その日の仕入れにより食材が変わることがあります」と注釈が付いている。春の旬菜は食べ慣れないので、見た目だけでは名と実物が照合できない。いや、見た目だけではなく、口に入れても一致する自信がない。ざるそばより少し遅れて天盛りが運ばれた。

食べ始めてすぐに、定番にないレンコンとタケノコに気づく。さらに、舞茸とアスパラに出合う。この4種が加わって、定番のどの4種が外れたのか。詳しくないうえに衣に包まれているからよくわからない。おそるおそる口に入れて味を噛みしめて何となくわかってきた。

どうやら菜の花、こごみ、たらの芽、姫人参が入荷できなかったようだ。旬のものはある時とない時がある。旬の食材を使う料理やコースが基本「おまかせ」になるのはそのせいかもしれない。「あれを期待していたのに入っていないじゃないか」と難癖をつけない。好き嫌いがないのでおまかせして後悔することがない。

読書と感想文と書評

読書はよくしてきたが、苦痛の体験が多く、愉しさの思い出は少ないという印象がこびりついている。何がしかの枠組みを決めたり決められたりして読むのは辛かった。そう吐露するものの、やはり読書は知の啓発に役立ったと認めざるをえない。

本は読まないよりは読むほうがいい……強迫観念とまでは言わないが、本心からズレたそんな思いが心のどこかを支配していた。書く題材に行き詰まることさえなければ、読書に比べたら自分で何か書くほうがよほど愉しい。

今さらだが、読書とは何か? と問うてみる。『新明解国語辞典』でチェックした。

〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕一時いっとき現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固浮動のものたらしめたりするために、(時間の束縛を受けることなく)本を読むこと。

ほほう、こんなものなのか。上記の語釈は辞書の定義としてはやや偏向している。現実の世界にあっても本は読めるし、必ずしも精神や未知の世界と関わるものでもないだろう。この語釈を書いた人は「寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、本来の読書には含まれない」とも記している。もしそうなら、読書は大衆的ではなく、かなり崇高な世界に属すものということになる。

読書につきものの感想文。それを学生に課す先生が考えるほど、学生にとって意味あるものだろうか。小説を要約したり話のあらすじを書いたり感想を述べたりするとして、その感想文を読むのは先生だけである。仮に仲間とシェアしたり読書コンクールで発表したりしても、ネタバレのあらすじや一学生の感想を読んで何かの参考にしたいとは思わない。

ぼくは長年読書会を主宰してきたが、みんなが違う本を読み――感想を書くのではなく――抜き書きと書評を1枚でしたためて本を紹介するのを旨とした。感想だといいことばかり書くが、書評と呼べば批判的コメントも出てくる。

まあ、感想文でも書評でもいいが、本について書くべきたいせつなことは、あらすじではなく、抜き書きである。抽象的なあらすじは記憶に残りづらいが、さわりの抜き書きからは本の核心が窺える。後日抜き書きを読み返すと読書会の余韻がよみがえることがある。

語句の断章(77)「対義語」

対義語の同義語には反対語、反意語、反義語、対語などがある。「反」に違和感があるので、ずっと「対義語」を使ってきた。対義語なら2つの語句を同等に対置させることができる。意味が対峙するようなAB2語のそれぞれが対義語と呼ばれる。Aの対義語がBBの対義語がAという関係だ。

「長い」の対義語は「短い」。「長短」は対義語関係を示す。対義語の象徴的な漢字1文字どうしがくっついて熟語になることが多い。多少、高低、表裏、左右、開閉、父母、親子、山海、白黒、吉凶など。但し、1つの語の対義語が1つとはかぎらない。下記のように1つの語が23つの対義語を持つ場合もある。

対義語が複数になる場合を「正」と「主」で考えてみよう。

組織の順位や物事の段階を表す「正、副、準、次」がある。おおむね「正>副>準>次」とランク付けされる。この時、正の対義語が副、準、次の3つになる。正の補佐役としての「副」、正の下だが同等に近い場合の「準」、二番目という位置づけの「次」。これらは対義語だが、別名「二項対立」とも言われることがある。

副と次をくっつけた「副次(的)」という表現がある。主たるものに対して、従属したり付随したりする二次的なもののこと。急行の早さには劣るが、各停よりも速いという意味の準急。

正の対義語は他にもいろいろある。テーゼの正に対しては「反」(アンチテーゼ)、プラスの正に対しては「負」(マイナス)。あと、誤、邪もある。主の対義語も、客、従、助、副などと複数ある。最高責任者である主席に対して次席、おもてなしする主人に対して客人、主観に対して客観。主人と従者、主演と助演、主菜と副菜……。当然ながら、どの対義語を対照させるかによってニュアンスが変わる。