語句の断章(78)「貪等」

もう30余年も前になる。京都の宿坊で中小中堅企業の人たちを対象に12日の企画研修をおこなった。初日の夕食時の箸袋にハガキの大きさの紙が添えられていて、「食事の五観文ごかんもん」と題した10行ばかりの文章が印刷されていた(五観文は「五観の」とも呼ばれる)。

今は胃腸は丈夫だが、働き盛りの当時は不規則な食事時間、時に暴飲暴食に溺れ、胃潰瘍の一歩手前まで行った。一枚の紙に素直に感心し、持ち帰って筆を手にして書いた。長くダイニングキッチンに掲げて、思い出しては読み返した。その書は汚れがひどいので5月の引越時に処分した。下記が食事の五観文である

一 こうの多少をはか来処らいしよはかる。
(この食事ができるまでの労力や、どこから来たのかを考える。)

二 おの徳行とくぎようの全欠をはかってに応ず。
(自分の日頃の行いが、この食事をいただくに値するか反省する。)

三 しんを防ぎとがを離るることは貪等とんとうしゆうとす。
(食物に向かって貪る心、厭う心を起こさない。)

四 まさ良薬りようやくを事とすることは形枯ぎようこりようぜんがためなり。
(身体を養い、健康を保つための良薬として食事をとる。)

五 成道じようどうためゆえに今このじきを受く。
(修行や目的を達成するためにこの食事を受ける。)

初見の熟語もあり、また正しく読めるかどうかもあやふやだった。辞書も引いた。しかし3種類の辞書を引いても載っていなかったのが、三つ目の文中の「貪等とんとう」である。いつも気になったせいか、この一文だけはそらんじることができた。

貪等は仏教用語であり、食事に対して起こりがちな「もっと美味しいものをもっとたくさん食べたい」という欲望を意味する。その反対の「これは厭だ、あれは苦手だ」と言って遠ざけるのも心の囚われであり執着しゅうじゃくである。文字通り「貪」は必要以上に欲しがること、「等」は貪りと同類の煩悩だ。

食事を前にして、出されたものを厭うことはまったくない。しかし、この歳になってもまだあれもこれも食べたいという欲がある。食事の五観文のうち、つい油断してしまうのが第三句である。なので、人を貪等まみれにしてしまうホテルのビュッフェや焼肉の食べ放題などは遠ざけるようにしている。

今日一日を振り返ると大したことをしていないので、今夜の夕飯は粗食にするつもり。これは第二句の教えの実践である。

多様性と多様化

新しい概念であり造語である〈生物多様性(biodiversity)〉を通じて、ごくふつうに使ってきた多様性という表現が別の文脈において変容してきた。生物多様性に思いを馳せておきながら人間多様性をイメージしなければ鈍感に過ぎる。人間多様性とは人類の相貌の多面性のことではない。見た目以上に人間はそれぞれに異質なのである。それゆえ、人間をわずか数種類のパターンに分類できそうもないと思い知る時、そこに個々の考えや欲求や価値観が十人十色であること、すなわち、人間の多様性を実感する。人はみな違う。

他方、人はみな同じだという見方も可能だ。一見多様な見方や思いがあろうとも、共通点を列挙すれば、人は所詮人であることも否めない。これは、個体識別がむずかしそうな蟻を例にあげて「蟻は所詮蟻だ」と言うのとはわけが違う。ぼくたちは、ある種の蟻をすべて個性的であると断定するほど十分に識別などできない。ところが、人間に関しては、肉体的にも精神的にも多様であると認識する一方で、それでもなおかつ人はみな同じであると論じることもできるのだ。裏返せば、「人は似たり寄ったりである」と結論づけるにしても、前提のどこかに人間の多様性をちらりと垣間見ているのである。

生物多様性が論じられるようになったはるか以前、たとえばぼくが学生時代であった1970年前後に人々は今ほど多様ではなかったのか。いや、そんなことはない。あらわに顕在化こそしなかったが、当時の人たちもそれぞれに固有の考えや欲求や価値観を把持していた。ただ、社会に多様性を受容するだけの環境が整っていなかった。仕事もライフスタイルも生き様もいくつかのパターンに嵌め込まれており、いずれのパターンにも色分けされない者はアウトローの烙印を押されてもしかたなかったのである。


いつの時代も人間は多様性の存在であると思う。その多様性の面倒を見切れずに、制限を加えざるをえないのは社会のパラダイムのほうである。今からわずか一世代遡るだけで、「男というものは……」「女というものは……」「仕事というものは……」などに見られる、数少ない型が社会に用意されていた。極端な例が職業で、江戸時代までは大きな概念上の職業には士農工商という四種類しかなく、よほどのことがないかぎり、人間の多様性は無視されて出自という運命的な帰属から逃れることはできなかったのである。

マーケティングの分野では、消費者ニーズの「多様性」とも「多様化」とも言う。ニーズはもともと多様性に満ちているのか、それともますます多様化しているのか……いったいどちらが正しいのだろう。これまでの自論からすれば、ニーズはいつの時代も人の数だけ多様なのである。その多様性の、たとえば60年代・70年代の社会や企業は、十分な受け皿になれなかったのである。コンピュータやテレビや電話へのニーズが実際に多様かつファンタスティックであったことは、子どもたちが描いた絵やサイエンスフィクションが証明している。多様性はあったが、多様化が実現しなかったというのが正しい。

ぼくが若かった時代のアウトローやドロップアウトも、今の時代の多様化システムの中になら収まる程度だったのかもしれない。辛辣な言い方をすれば、昔なら村八分扱いになりそうな異型の個性が今の時代には容認されているのである。とは言え、人間多様性を生かしてくれるこのような社会構造の多様化を原則として歓迎する。但し、ニートにクレーマー、仕事のできない社員に無責任なリーダーたちが無条件に救われていていいはずがない。居場所と棲息方法の多様化は、十人十色の人間多様性を担保しないのである。