場末はどこにある?

知人と場末についてあれこれと話した後、しばらく考えてみた。『広辞苑』によれば、場末は「都市で、中心部からはずれた所」であり、具体的には「町はずれ」ということになっている。「場末の酒場」という活用例が挙がっているが、別に酒場でなくても「芝居小屋」でもいいのだろう。ともあれ、場末に「さかば」という音の響きはとてもよく合っている。茶店さてんやスナックなども場末と相性がいい。

別の辞書には「繁華街からはずれた、ごみごみした場所」とも記されている。ごみごみはわかるが、「繁華街からはずれた」にはちょっと異議ありだ。場末は繁華街というエリアになければいけないのではないか。繁華街にあって、なおかつ「末」、つまり「端っこ」のことなのではないか。中心の対義語の一つに「周縁」がある。かつて周縁には否定的なニュアンスが込められていた。しかし、山口昌男的に言えば、周縁には他者性と豊穣性がある。なるほど、中心では味わえないそんな雰囲気が場末に漂っているような気がする。

広辞苑に戻る。「場末は都市にあるもの」と定義されている。都市とは何ぞやと問い始めるとキリがないので、一応、経済的に発達した人口過密地または大勢が外から集まってくる土地としておこう。そうすると、ぼくが生活し仕事をしている大阪市、もっと具体的には、ここ中央区(旧東区地域)は堂々たる都市であり繁華街と断言して間違いない。つまり、どこかに場末が存在する資格を備えている。そして、確かに、場末などいくらでもありそうだ。


ここでいくつかの疑問がわき上がる。広辞苑の定義文中もっとも重要な「中心部」とはいったいどこなのだろうか? 中心部を特定しなければ場末も明らかにならないのではないか? では、都市や繁華街の中心を誰が決めるのか? もっと言えば、特定された中心とその周縁である場末との距離や人の密集度はどのように決まるのか? という問いに答えがあるような気がしないのである。

ぼくの居住する大阪市にはぼくが中心と見なせる地域がいくつかあるが、一般的にはオフィス街でもあり市庁舎も立地する淀屋橋はその一つだろう。また、JR大阪駅をはじめ地下鉄各線や私鉄が乗り入れる梅田も中心部を形成しているだろう。そのいずれの中心の一角を占めながら、周縁に広がる歓楽街が北新地というエリアである。北新地は中心(淀屋橋駅と大阪駅)からわずか数百メートル、徒歩にして56分だが、ここもまた中心に対しては場末なのだろうか。この北新地にも本通りという中心があり、ここから逸れた通りは場末ということになるのだろうか。仮に梅田・淀屋橋を大阪の中心と見なせば、マクロ的には南方面の難波や天王寺も、東方面の京橋や北方面の十三も場末扱いされることになる。

いやいや、場末とはそんな巨視的に取り扱う中心に対する存在などではない。中心も周縁も人それぞれの土地感覚に規定されるはずだ。誰かにとっての「あの店は立地がいい」は、別の誰かにとって「あの店は立地が悪い」なのである。大阪市役所はぼくにとって立地が必ずしもよくはなく、中央区役所の立地のほうが好都合である。どうやら、場末の特徴は人によって「ごみごみしている」とか、「怪しげである」とか、「庶民的」とかで感知されるようだ。他者性というなら、見知らぬ人間と出会うというのもあるだろうし、豊穣性ならば、何でもありというのもあるだろう。

ぼくの仕事場である天満橋の中心は府の合同庁舎あたり。さらには、大川に臨むちょっとした商業エリアだろう。天満橋京町と呼ばれるこの一角、土佐堀通りから南へ少し入ると、名も知れぬ坂がある。桜の木がなければ、ここはパリの裏町風情に見えなくもない。ごみごみしていない、怪しげでもない、特に庶民的でもなく、人とほとんどすれ違わない。ぼくにとっては、ここが場末である。かなりうら寂しい場末である。但し、このあたりの住民は誰も場末感など抱いていないはずである。中心にいると確信していても、別の中心から見ればそこが場末かもしれない。もちろん、場末の中にも中心と周縁のせめぎ合いがあっても不思議ではない。

土佐堀通りから北大江公園へ上がる.jpg

よい仕事、価値のあるサービス

市バス廃止2.jpg

『時刻表からの自由』というブログを書き、その中で、窓外に景色が見えるバスの便利さと魅力に触れた。そして、こう続けたのである。

「日本の大都市では、地下鉄のダイヤを分刻みにした代償として、バスが都会でも1時間に12本というルートが増えた。残念なことである。時刻表などいらないから、せめて1時間に34本、同じ路線をぐるぐると走らせればよろしい」。 

その一文を書いてから二年が過ぎた。そして、ついに大阪市バスの路線の一つ「天満橋⇔なんば」が41日から廃止されることになった。この路線のバス停の一つから徒歩30秒という地の利のいい所にぼくは住んでいる。ふだん45キロメートルは平気で歩くから、このバスを利用するのは月に一度か二度。いや、ぼくのことはどうでもいい。たまに乗ると、ガラガラの時もあるが、地下鉄の階段に不自由しそうなお年寄りが少なからず乗車してくることもある。もちろん、1時間1本のバスで乗車率23割なら明らかに採算の取れない路線だろうし、バスの運転手に高給を払い続けることもできないことはわかる。 市民の税金で運営しているのだから、公営事業と言えども採算度外視できないという論理を理解しないでもない。

だが、金の問題を思考の限界にするのはどうか。地下鉄と路線が重複し、しかも赤字だからという理由で人気のないバス路線を廃止するのは想像への踏み込み不足と言わざるをえない。世界の名立たる観光都市では、そんな重複を承知の上で運行するバス路線はいくらでもあるのだ。冒頭でも書いたように、バスからは光景が見える。人通りが見える。店舗や広場や建造物が見える。生きている街の息遣いが聞こえてくる。発着地点を最短距離で結ぶだけが能じゃない。移動には過程がある。ベン・スイートランドの「成功は旅である、目的ではない」に学べば、目的達成よりも重い意味が旅程にあることを再認識できるはずだ。


観光客にとっては、行き当たりばったりの乗り降りという楽しみがバスにはある。一日乗車券を手にしていれば、人で賑わう広場を見つけては降り、観光名所から外れた散歩道を遊歩し、再び別のバス停から乗車できる。廃止が決まったぼくの利用している路線にしても、少しルートを変更すれば、賑やかな大阪ミナミでのショッピング、大阪城の見学、大川や堂島川ほとりの散策、黒門市場の食べ歩きなどを組み合わせることができる。それでも、乗客で混み合うことなどないかもしれない。しかし、そこが公共交通の担い手のイマジネーションとコミットメントの発揮しどころなのではないか。
CS・ルイスが「よい仕事」について語っている。
「金儲けだけを唯一の前提にする仕事などはよい仕事ではなく、たとえ買い手や利用者が少なくてもやり遂げようとする仕事こそがよい仕事だ」。
犯罪や火災の件数が激減しても警察や消防はスタンバイする。乗降客が減っても交通手段を確保するのが価値のあるサービスなのである。利用者がいなければ、サービスの提供者は衣食住に事欠くだろう。しかし、だからこそ、市民に税金という対価を払ってもらって行政が運営する値打ちがあるのだ。わざわざ高齢者や弱者支援という小難しい話を持ち出さなくてもいい。採算のほうにではなく生活や文化に目配りする、懐の深い街づくりこそが最優先されてしかるべきなのある。ムダはもっと他にもいくらでもある。

帯に短し襷に長し

かなり意識して節約したはずなのに、結果は浪費になっていた……「今夜はゴージャスな食事を楽しもう」と勇んで外出したが、結局ラーメンと餃子で帰ってきた……。あることを目指したつもりがその反対の結果になる。目論見通りに事が運ばなかったということだが、取るに足りない小さなことへのこだわりが原因だったりする。

そうなのだ。紙一重で一流と二流が振り分けられるように、ほんのささいな行為や発想が分岐点で明暗を分けている。望みが叶う確率が二分の一であってもいいはずのことが、往々にして叶わない方向へと傾く。期待は泡と消えることが多いし、企みは頻繁に的を外す。
 
買物でよく経験することがある。たとえば、店でちょうどいい具合の色のネクタイを見つけて買って帰ったのはいいが、自宅の鏡の前に立つと店で感じた色とは微妙に違っている。ネクタイならまだしも、スーツだとかなり後悔することになる。ちょっと明るめの紺の夏スーツを昨年買ったが、これが自然光に当たると紺ではなく青に近い鮮やかさだったのだ。明るめということは承知していたが、紺ではなく青だったとは……。出番を与えないと後悔に苛まれるから何度か着てみたが、しっくりいくはずもない。自分の受け止める現実とは別の現実が存在する。
 

 絶対的な尺度からすれば、帯にも襷にも使えるちょうどいい長さの紐などはありえない。とは言え、都合よくその紐を巧みに使いこなす人も現実にいたりする。「帯に短し襷に長し」と見切られた紐を、巧みに帯と襷の両用に使いこなす柔軟な器用人である。では、自分には合わないが他人に合うことが納得できたら、収まりがつくのだろうか。自分に合わなかったが、そこで諦めずに自分に合うように思い直して、叶わなかった願望を、泡と消えた期待を、的の外れた企みをリセットしてみたいのではないか。事は、やはり主観的なのである。
 
フィレンツェバッグ.jpg二、三度だけ使って納戸に入れたままの鞄を取り出した。もう13年も前にフィレンツェの老舗工房で買い求めたものである。決して値の張る代物ではないが、どこででも見かけるブランドバッグと違うし無印ゆえの手作り感もある。この鞄、総革なのでかなり重い。そのことは買ったときにわかっていた。濃い茶色という認識だったが屋外では赤っぽく見える。まあ、これも承知していた。けれども、帯に短し襷に長しの感覚がぬぐえない。通勤鞄として使うと中がガラガラ、荷物の増える一泊出張になると今度はギュウギュウなのである。
 
紐にしても鞄にしても、思い通りにはいかない。もとよりぼくのニーズに特別に合わせて作られたものではない。そして、思い通りにいかないのは、紐や鞄のせいではなく、自分の内なる硬直的な理想へのこだわりゆえなのである。用途もろくに考えずに買ってしまったのだから悔やんでもしかたがない。自分に合わないことに地団駄を踏むのはお門違いというものだ。紐や鞄を生かしてやるべく、それらに合った用途を自ら編み出すべきなのである。
 
思い通りにならないことをモノや環境や人のせいにして苦労している人たちがいる。思い通りになりそうなモノや環境や人だけを求めていると、事情は複雑化し時間もコストもエネルギーも増大するばかり。ほんの少しやわらかい発想を身につけるだけで、話はシンプルになり早く安く手軽に対処できるはずである。

言及の有無について

話し手(書き手)が何について語り(書き)、何について語っていない(書いていない)のかを見極めるのは、話し手(書き手)の意図を理解するうえで重要である。言及されていることとされていないことを読み分け聞き分けるからこそ、わからないことについて問うことができる。問い下手はだいたい聞き下手・読み下手と相場が決まっている。書名を忘れたが、以前読んだ本に言及について次のような例があった。
「この町では肉を煮て食べることを住民に禁じる」という町長の通達が出た。この通達文を読んだ旅人が次のように推論した。「わたしは住民ではなく旅人だから、この禁止事項は当てはまらないだろう。それに、煮て食べなければ、たとえば焼いて食べるのであれば、肉を食べても罰せられないはずだ」。
さて、この旅人の推論は妥当だろうか。
 
残念ながら、妥当ではない。この町長の通達で言及されたことだけがすべての禁止事項とはかぎらないからだ。いろいろある禁止事項のうち、「肉を煮て食べること」だけに言及したと考えるべきなのである。もとより、「煮て食べることの禁止」が「焼いて食べることの容認」になるはずがないから、早とちりの推論と言わざるをえない。同様に、「住民に禁じる」というくだりから「旅人には禁じない」という結論は導けない。要するに、町長の通達で言及されたことだけが禁止事項であると勝手に解釈してはいけないのである。
 

 自分が話し手(書き手)であるときを思い出してみればいい。何について語っているのか、何かを語っていてもすべてについて一気に語れているのか……そんなことはできない。たとえば象について語るとき、脳裡で象のイメージが一目瞭然的にはっきりしているとしても、これをことばによって説明するときは順序制御的にならざるをえない。象が大きいという描写から入るか象は鼻が長いという描写から入るかなど順番がある。そして、描写しているうちに、象が灰色であることを言い忘れるかもしれない。時間に制約があれば、話の予定に入れていたはずの餌や棲息環境、人間との共生については言及できなくなってしまうだろう。
 
いまぼくはものすごく当たり前のことを書いている。つまり、人は何もかも話したり書いたりなどしていないし、することもできないということだ。だから文脈や行間に目を向けないで額面通りに解釈してしまうと曲解・誤解まみれになる。人の話を真剣に聴くことを「傾聴」と言うが、語られたことだけを聴いて理解して終わらない。むしろ、語られなかったことを聞き分けて推論し、許されるならばヒアリングにまで踏み込んでこその傾聴なのである。
 
最後に身近な言及の例をご紹介しておく。大阪名物の串カツの店には「ソースの二度づけお断り」という注意書きがある。この注意書きを見て、「二度づけはダメでも、三度づけならいいだろう。だって、三度づけお断りと書いていないんだから」と推論すると吉本系のギャグになってしまう。「二度」とは「二度以上」のことであり、「二度およびそれ以上の回数」の禁止を意味する。なお、串カツをソースにつけて食べるのは自明であるから、一度だけつけるのは推奨され容認されている。「もしかして一度だけでもダメなのではないか」と不安になる人は、ソースにつけないで食べるしかない。

「手作り」という妄想

偽装→手作り.jpg.jpgのサムネール画像年が明けて前年を振り返る。月並みだが「いろいろあった」とつぶやくしかない。いろいろの話題のうち、国家の外交問題は重大であるものの、印象深かったのは食品偽装のほうだ。売り手も買い手も性懲りなく何度同じ轍を踏めば気が済むのか。偽装から発覚、謝罪、対処に到るまで絵に描いたようなワンパターンが繰り返された。

食材の偽装と調理の偽装がある。前者については何度か取り上げたので、今日は後者、とりわけ「手作り」について考えてみる。『新明解国語辞典』は素っ気なく、「自分(の手)で作ること(ったもの)。手製」としている。自家製も定義してあって、「自分の家で作ること」だ。つまり、自家製ケーキとは「自分の家で作ったケーキ」のこと。それなら、名称上はホテルやレストランとどこかのお宅のケーキにも差異はない。違いは食べてみて初めてわかる。いや、食べてもわからないかもしれない。
さて、「手作り」だ。どこかで買ってきた既製品のチョコレートを小鍋で溶かしてから成型し、冷やして何かを足して一手間かけたら、それは手作りか。手を加えたら手作りと呼べるのか。たとえば、栽培していたハーブを手でもぎり、皿に盛りつけてドレッシングをかけたら「手作りハーブサラダ」になるのか。サラダに手作りという表現を被せると浮いて見えてしまうのはなぜだろう。そうだ、寿司にも手作りということばが合わない。もちろん「手握り」とも言わない。

明らかに手で作ったり盛ったりしたものをわざわざ手作りなどとは言わないのではないか。手作りと敢えて強調する時点で、何だか怪しげな空気に包まれてしまう。「これは、どこかで買ってきた既製品じゃないぞ」とか「何から何まで機械や器具で作ったんじゃないぞ」という注釈のようにも思える。いや、好意的に考えれば「心を込めた」ということになるか。だが、機械て作っても心を込めることはできるだろう。どこかで手作りしたものを仕入れて店で出しても手作りと呼べる。自家製にしても、作った本人が売ればこそであって、仕入人が売れば「他家製」になる。別にどっちだっていいではないか。
呆れるほど当たり前のことを書いておこう。純然たる手作りなどありえないのだ。手作りは妄想なのである。たとえば手作りハンバーグとは「手作業ハンバーグ」のことではないか。包丁を使いボールを使いフライパンで焼いたのだ。道具を使って手作業したのである。「それはそうだが、ハンバーグの肝心要の工程である手ごねは手作りなのだ」という弁明があるだろうが、それでもなお、手ごねが道具ごねよりもすぐれているという証明にはならない。手ごねと聞くだけで皮膚や爪の垢まで混入するようで気分穏やかではない人もいる。
手作りでも手ごねでも、「誰の手」のほうに注意を向けるべきではないか。きみのその手で作られた料理は勘弁願いたいということだってある。ぼくたちは手作りや自家製という表現に何となく良さそうな固有の価値を感じているが、手作りや自家製が実際にはどういうことなのかについてはあまり深く考えてなどいない。店や売り手がどうのこうのという話ではなく、外食に対する一人一人の顧客の考え方がいま問われているのである。

偽装の怪

偽装.jpg.jpgめったに週刊誌を買い求めることはないが、先月『週刊文春』を買って「食品偽装 悪質ワースト10」という記事に目を通してみた。ホテル系レストランから発覚した問題の数々を新聞で拾い読みしながらも考えていたことだが、廃業に追いやられた船場吉兆と同罪であると結論を下したい。誤表示どころか、偽装の域を超えて、詐欺呼ばわりするのが妥当である。

念のために、手元にある数冊の国語辞典で【偽装】の意味を調べてみた。「あざむく」という共通概念が浮かび上がる。但し、どの辞書も用例を挙げていないので、実際の文脈上のニュアンスがぴたりと伝わってこない。辞書編纂者には「用例のない辞書は骸骨である」というヴォルテールの言をよく咀嚼していただきたい。
ついでなので類語辞典にもあたってみたら、「陣地を樹枝で偽装する」という用例が見つかった。これも「あざむく」に類する意味だが、相手が敵なのだからあざむく行為は咎められない。この例でわかるように、相手次第では偽装も正当化できるのだ。但し、悪質というニュアンスをそぎ落としたければ、「陣地を樹枝で迷彩する」とするほうが精度が増す。


発端となった”HHホテルズ”は「誤表示」か「偽装」かで往生際の悪い釈明をした。誤表示と偽装は作為や意識において違うが、うたい文句と実態のズレという点では本質は同じである。食というデリケートな分野では、意識的であったか無意識であったかはあまり重要ではなく、結果のみが問われる。羊肉を料理するつもりだったが、つい狗肉を使ってしまい、「羊頭」という看板を書き直すのを怠った……これは「悪意のある羊頭狗肉」と同じことなのである。
料理の名前に使っている食材と産地をこと細かに記載するようになったのは、フランス料理の影響なのだろうか。いつぞや食べたパスタは「伊サルディーニャ産カラスミと宇治産壬生菜のリングイネ」だった。また、あるパーティーか披露宴のメインは「春キャベツで包んだ豪州産仔羊肉とチーズのカイエット そのジュのソース」であった。この種の料理を出すシェフは料理を作ってから命名するのではない。レシピを構想する時点で食材を選び長々とした名前を考える。この長い名前が料理に先立つシナリオのはずである。
 
そうであるならば、サルディーニャ産のカラスミが使えないのなら、その料理を作らないか、代替で使った品の産地に書き換えるべきなのだ。ブランドで勝負するレストランなら、食材が手に入らないならその料理を出さないだろう。そもそも産地名まで料理の名に含めるのは食材のブランドによって、美味と品質を誇示したいからである(それゆえ値段も高くできる)。偽装を企むレストラン側だけでなく、名産地に全幅の信頼を寄せてきた客も、危ういブランド信奉主義の片棒を担いできたと言わざるをえない。
 
格下の品を格上に見せかけるのが偽装である。格上の格下表示を偽装とは言わない。たとえばA5ランクの佐賀牛を使ったステーキなのに、単に「牛ステーキ」とメニューに書くのは偽装ではなく、パロディに近い。そんな痛快な仕業をどこかの店でやってみて欲しいものである。

考え浅くして、表現先走る

故事名言・諺・格言.jpg最初に断っておく。ぼくは故事、ことわざ、金言名言、四字熟語にそこそこの興味がある。箴言集などもよく読む。若い頃から続いており、今もなおそうだ。但し、検定の一つでも受けてみようと思い立つようなマニアではない。ちょっとキザかもしれないが、考える材料としてああでもないこうでもないと解釈して一人愉しんでいる。

俳句の向こうに句意や主題を読み解こうとするのに似ている。珍味の貝ひもから原形を想像するのにも似ている。一行表現に凝縮された、今もなお語り継がれる格言やことわざの類は文脈や行間を背負ってはいるが、露骨に見せない。文脈や行間や背景の見据え方は、味読するぼくたちの想像次第である。「さあ、この格言をきみはどのように読み解き、推論し、どこへ帰着させるのか」と問われているような気持で向き合うとき、スリルとサスペンスが横溢してくる。
中学生の頃に習った英語表現を思い出す。“X is made of Y.”“of”を用いるときは、XYでできていることが見ただけでわかる場合。木製の机は木でできていることがわかる。他方、モノを見ただけでは原形や原材料がわからないとき、“X is made from Y.”“from”を使う。パンは小麦粉もしくは小麦からできていることを、知識がなければ類推しづらい。スルメからイカに遡るのも容易ではない。格言やことわざも同様で、読んですぐに理解できたらつまらない。ハイコンテクストであればあるほど、XYfromでつなごうとする意欲も高まる。

凝縮された格言やことわざをみんなが同じように解釈してもしかたがないし、たとえばぼくが一つの名言をいつも同じように解釈する必要もない。立場も状況も知識もキャリアも違えば、凝縮された表現のほどき方も変わってしかるべきだろう。もう一言付け加えるならば、格言もことわざも強引に普遍化され、洗練され、単純化されている。「急がば回れ」などその最たるものだが、同時に決して鵜呑みにできない極論も内蔵されている。
にもかかわらず、「考えるな、感じろ」というフレーズにしても、「考えなくていいんだ」と己に言い聞かせておしまい。“Stay foolish”だから「バカでいいんだ」と勝手解釈してけろりとする。表現処理で終わるなら、そんなものは格言でも何でもないのだ。世にメッセージを伝え残そうとする手段はいろいろある。コンテンツを並べて論理でつなぐ方法もあれば、エッセンスのみを抽象して短文メッセージにする方法もある。格言・ことわざの類は後者である。
ろくに熟考もせずに、思いつきの表現をにわか仕立てする傾向が目立つ。適当に気に入ったことばだけを並べておいて、そこに後で強引な意味づけをしようとする。衣装を着飾ってからその衣装に見合う体躯をこさえようとするわけだが、体躯に無理をさせる。ぶかぶかの衣装、あるいは身がはみ出しそうなきつい衣装は滑稽である。
線であれ点であれ、思いと表現には責任を持たねばならない。ぼくなどは点の表現で語り済ます自信が十分にないから、こんなにくどく線によって思いの筋をつなぐしかない。裏返せば、格言を作って知らん顔できないからこそ、古今東西の格言に対してもおもしろおかしく解釈して思考訓練してみようと好奇心が奮い立つ。

身勝手なコジツケ

mehrabian.pngある著名な説を自分に都合よくこじつけることを「牽強付会けんきょうふかい」と言う。また聞きや孫引きも学びには不可欠だが、間接学習ばかりしているとこの牽強付会が起こってしまう。説の発生時点に時々遡って検証しておくことも必要だろう。これは自分への戒めでもある。

権威を引用してこじつける狡猾な例がある。アルバート・メラビアン博士が実験を通じて導いた『メラビアンの法則』がそれだ。もちろん良識ある引用者もいるが、大半が看過できないほどひどい曲解をしてしまっている。なかには故意犯もいるからたちが悪い。

マナー、コミュニケーション、コーチング、ファシリテーションなどを専門とする複数の講師が、メラビアンの法則を曲解してジェスチャーや表情の優位性を強調する一方で、言語を見下すような発言をするのを何度か見聞きしている。念のために書いておくと、この法則は、一対一のインターパーソナルコミュニケーションに限定して、話し手が聞き手にどんな影響を与えたかを実験して導かれたものである。

実験によって、影響に占める割合は、表情やジェスチャーが55%、声のトーンや大きさが38%、話す内容が7%ということがわかった。こう説明した上で、講師たちは「ことばはわずか7%しか伝わらない。コミュニケーションにおいてことばは非力なのだ」というような趣旨を、さも真理のごとく説く。これは、目に余るほどの虚偽の一般化なのだ。もちろん、メラビアン博士の意図に反するこんな邪説を、免疫のない、無防備で純朴な受講生はものの見事に信じてしまう。そして、講師によって引き続きおこなわれる、取って付けたような身振りやマナーや表情の模範例に見入ることになるのである。


アルバート・メラビアン博士自身は、ちゃんと次のように断っている(要旨、原文は英語)。

この法則は「感情や態度が発する言行不一致*のメッセージ」についての研究結果に基づく。実験の結果、「好感度の合計=言語的好感度7%+音声的好感度38%+表情的好感度55%」ということがわかった。但し、これは言語的・非言語的メッセージの相対的重要性に関する公式であって、あくまでも「感情と態度のコミュニケーション実験」から導かれたものだ。ゆえに、伝達者が感情または態度について語っていない場合には、この公式は当てはまらない。 (*inconsistentを「言行不一致」と意訳した。傍線は岡野)

ぼくも曲解しないように気をつけて書くが、下線部から、言語的メッセージを伝えることを目的としたコミュニケーション実験ではないということがわかる。だから、回覧板には適用しない。読書にも適用しない。会議や対話にも当てはまらない。携帯電話で「明日の夕方5時に渋谷でお会いしましょう」という簡単なメッセージも対象外だ。要するに、ほとんどの伝達・意見交換場面には法則が当てはまらないのである。ある種の顔の表情とジェスチャーを伴って単発のことばを発した場合のみ有効という、きわめて特殊なシチュエーションを想定した実験にほかならない(たとえば、万田銀次郎のようなお兄さんがどんなにやさしいことば遣いをしても、コワモテはかりが気になってことばが耳に入ってこないというような場合)。

もし本気でコミュニケーションに果たす言語の役割が7%だと信じているのなら、講師はずっと顔と身振りで思いを伝えればよろしい。それで93%通じるのだから楽勝だ。パワーポイントやテキストも作らなくていい。いや、もし曲解するのであれば、ついでに悲観的になってみてはどうか。言語理性の危機が叫ばれ、ボキャブラリー貧困に喘ぐこの社会をよく凝視し、「言語7%説」が日常化するのを案じて、「これはいかん、もっと言語の比重を高めなければ」と一念発起するのが教育者ではないか。

私家版食性論(下)―風土と食事

哲学者であり倫理学者である和辻哲郎は名著『風土』の中で次のように書いている。

「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したものもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくて風土である」。

かつては風土が食べるものを決定したと言うのである。どうやら、元来食生活は嗜好性によって決定されたのではなかったようだ。好き嫌いの余地すらなかっただろうが、もし好き嫌いという意地を張った者がいたとしたら、滅びる運命を辿った。和辻の説を敷衍すれば、人類は例外なく旬の狭食を余儀なくされたわけである。

そこで、文化風習への適応を促す「郷に入っては郷に従え」という諺が思い浮かぶ。まさに食事こそこの教えにぴったりだ。異国へ行けばその土地の人が食べるものと同じ旬の料理を食べるのが理にかなっている。好きなものをやみくもに料理に加えたり、嫌いなものを料理から差し引いたりしないほうがいい。少なくともぼくはそうしている。翻って、日本にいるときはどうなのか。日常茶飯事、世界中の食べ物を口に入れている。旬のことなど気にせずに、嗜好性を優先している。異国に入っては異国に従っているくせに、自国にあっては自国に従わないことが多いのである。


〈医食同源〉という熟語が示す通り、食材も薬もよく似ていて、体内で組み合わさった時にどんな化学反応・・・・が起こるのかは読み切れない。広食を習慣としてきたぼくなどと違って、狭食してきた人がある日突然広食に転じると、胃中で悪しき食い合わせが生じる可能性がある。たとえ好き嫌いをしてきたとしても、狭いなりの食性秩序が保たれてきたと考えるべきかもしれない。数年前のことだが、幼少時からジャムパン以外いっさい食べていない十代半ばのアメリカの少年がテレビで紹介されていた。医者が健康診断したところ、軽度の貧血症状があるものの、いたって健康であった。こんな極端な狭食性であっても、栄養の帳尻が合っていたのである。

広食であれ狭食であれ、旬を忘れてしまった現代人の食性は少なからず歪んでいる。このことは、食に経済原理が持ち込まれたことと無縁ではない。「もし地球外生命が地球を眺めたら、地球を支配しているのはトウモロコシに見えるだろう」と分子生物学者の福岡伸一が語っていた。トウモロコシの64パーセントが畜産用の飼料である。肉ばかり食べるとトウモロコシを育てなければならない。そうすると、他の穀物を育てなくなる。先進国のチョコレート需要を満たすために、穀物を育てずにカカオのプランテーション事業を優先するというのも同様の論理である。一部現代人たちの「グルメ偏食」を経済がさらに加速させているという構図だ。

鰹の心臓.jpg

これはある食材をニンニクで炒め、塩・コショーしたソテーである。その食材とは鰹の心臓だ。「そんなものをわざわざ食べなくても、心臓も混じって売っている鶏肝を食べればいい」という声も聞こえてくる。そうかもしれない。しかし、ぼくたちは鰹を釣り上げて、鰹のタタキにして食べる。鰹節も作る。どの部位を選んでどんなふうに食するかの前に、一匹の鰹は絶命するのである。その命の恵みにあずかるのなら、できうるかぎりアタマからシッポまで、すべてご馳走になるべきだ。これを「全食」と言う。

古代人は風土とのバランスがとれた全食をしていたのである。だから、今日から全食に立ち返ろうなどというつもりはない。飽食の時代だからこその偏食も狭食もある程度はやむをえないと思う。しかし、最後に、商材化した食材に反省を加えよ、自ら作り注文した料理は残すな、おもてなしのために供されたご馳走に挑戦せよ……と好き嫌いの多い人々に伝えておきたい。

〈終〉

私家版食性論(中)―「広食」か「狭食」か

ジャガー.jpgのサムネール画像「腹を空かしているときに、この中に入るとやられてしまいます」。ある動物園の飼育員が冗談抜きの表情で語った。この中とは檻であり、腹を空かしているのはジャガーである。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与える。赤ん坊のときから何年も飼育してきたのに、腹ペコ状態のジャガーの檻には入れない。念のために書くが、ジャガーとは猛獣のジャガーであって、女子プロレスのジャガー横田ではない。

エサをもらっている姿を見るかぎり、ジャガーは飼育員になついているように見える。だが、「なついているようでも、いつでも私を狙っています」と飼育員。ジャガーにとって動く哺乳動物はすべて標的。世話をしてくれる飼育員さえもジャガーの食性内の獲物にすぎない。ジャガーにとってみれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない健気けなげさや親しみや信頼性などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめて首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、ぼくたちは残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまうが、ジャガーは食材を調達して食事をしているにすぎない。自然界に棲息するジャガーと違って、動物園の片割れは調達などしないが、それでも自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員はいつでも狙われているのである。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の《食う・食われるの関係》においては、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこには損得観念などはない。自然の摂理はめったなことではバランスを崩すことはないのである。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生のまま草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。「広食」の最右翼が人間であり、日本人はそのリーダー的存在だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はパスタ、夜はサムギョプサル、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば、明日の昼はタイ風カレー、夜は酢豚に餃子……まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておく。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などとしつけるはずもない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

 〈続く〉