筆記具構えて本を読む

決心したのに守れなかった。それなくして一日を終わらせることはできないのだろうか。職業病なのか、あるいは習性なのか。久々にフルネームで呼んでやるならば、そいつはパーソナルコンピュータというものである。

血行があまりよくない。過度のPC使用が原因だと勝手に決めている。差し迫った仕事がない今日、在宅読書をすることに決めた。自宅なら軽装でデスクに向かえるし、いつでも身体をほぐす体操もできるし、刺激臭の強い湿布を貼っていても気にならない。何よりも、職場にいなければPCを使わずにすむだろうと目論んだ。

本は何冊も拾い読みした。しかし、途中で「はてな癖」が出てきた。読んでいる本のテーマとは無関係のその「はてな」が気になり、PCを取り出してそのことを書こうと思い立った。こうして「今日はPCを使うまい」という決心は数分前に崩れた。

(こんな経緯を前置きにしたために、休ませる予定だった指も手首も余計に使った。いきなり本題に入って、さっさと電源オフしたらいいのに……。おっと、この注釈すら余計。)


やわらかな木洩れ日が射す広い庭に面したテラスでティーカップ片手に読書。映画かドラマで実際に見たか、見たような気がするデジャヴ体験か、こんなシーンがよく浮かぶ。優雅な読書習慣は教養の高さを漂わせる。こんな場面でマヌケ顔の主人公は想像しにくい。記憶に残るそのシーンにズームインしても、筆記具はどこにも見当たらない。その読者はゆったりとページを繰るのみである。

そんな光景がチラチラして、読書に専念できなくなったのだ。その主人公に比べて、タイ製の中性ゲルインク「印のつけられるボールペン」という名称のペンを右手に読書をしているぼくが何だか守銭奴のように思えてきた。そんなに卑下することはない、獲物を追うハンターのごとく一字一句一行たりとも見逃さぬ知的情報行動ではないか!? と叱咤激励してもなんだかむなしい。

なぜ文章に線を引いたり用語を囲んだりするのか。欄外にメモを書き込むのか。好奇心とは一線を画す野心の成せる業か。習慣や仕事柄などいろんな理由があって「読書にペン」という取り合わせになっているに違いない。しかし、いつかどこかで使ってやろうという下心を認めざるをえない。ぼくのペンは一色なので三色ボールペンより下心の度合いはましだろうが、筆記具は読書の一つの特徴である「読み流し」の楽しみを奪っている。

本から何かを学ぶことと本そのものを読み流すことはまったく違う。忘れまいとして読むか楽しもうとして読むかという違いでもある。昨今、前者の読み方ばかりしている。読書や書物を題材にする著者もみんな筆記具片手に読んでいるんだろう。小説を読む時までペンを取り出すようになると、もはや仕事になっている。

調査や資料探しと次元を異にする読書をどこかに置き忘れてきたようだ。せめて数冊に一冊くらい、筆記具の代わりにコーヒーカップを片手に読書をしてみたいものである。  

なかなか整合しない、主題と方法

社会的意義のきわめて小さいニュースをお伝えする。昨日(12日)ぼくが代表を務めるプロコンセプト研究所が創業21周年を迎えた。一日遅れで取り上げることによりタイムリー価値も低減した。だからこそ、「済んだ話」として照れずに書ける。いや、記念日についてあれこれ書いてもしかたがないか。

過去21年間「理念は何ですか?」とよく聞かれた。聞かれるたび「ありません」と答える。まっとうな企業人や経営者が聞いたら呆れ果てるに違いない。おおっぴらに理念を掲げて公言することを躊躇するぼくだが、企業理念らしきものがないわけではない。世間で言う理念に相当するのは「コンセプトとコミュニケーション」なのだが、理念とは呼ばない。それを目的や目標や夢とも呼ばない。「コンセプトとコミュニケーション」は「コンセプトとコミュニケーション」であって、わざわざ理念という冠をつけることはない。

創業以来、ぼくはコンセプトとコミュニケーションを仕事にしてきたし、顧客のコンセプトづくりとコミュニケーション活動のお手伝いをしてきた。だから、理念ではなく、問い(主題)であり現実的な答え(方法)なのである。


先週も少し書いた「問いと答え」。この二つを対比するからこそ答えの有効性を評価できる。「無理なくダイエットして痩せたいですか?」――ある広告の問い(主題)である。しかし、無戦略的に太ってしまった意志薄弱な顧客を前提にしているのだから、「毎日10分のダンスエクササイズ」という答え(方法)は有効ではない。試練を乗り越えねばならないのは、テレビの向こうの杉本彩ではなく、デブっとしたテレビの前の消費者のほうなのだ。

新聞でも紹介されていたので知る人も多いだろう。緑茶とコーヒーが癌のリスクを減らすという話。日頃そこそこ飲んでいるのに、抗癌作用にすぐれていると聞いて回数を増やした人がいる。緑茶とコーヒー合わせて一日十数杯飲み続けた。ちょっと動くたびに腹がチャポンチャポンと音を立て、食事も受けつけないほど胃が満タン状態。主題に対する方法の有効性はいつ証明されるのであろうか?

おなじみのテレビショッピング。マッサージチェアの通販である。これだけ多機能、しかも、お値段はたったの(?)89千円! と例の調子でやっている。「疲れをとりたい、癒されたい」という主題に対して「お手頃価格のマッサージチェア」という方法の提案だ。触手が動きかける消費者の踏ん切りどころは「大きさ」である。そのことを承知している広告は、「半畳サイズに収まるのでかさばらない」かつ「お部屋の雰囲気を壊さない」と映像でアピールする。しかと映像を見るかぎり、確実にかさばっているし、和室もリビングルームも完璧に雰囲気が壊れてしまっている。主題を説くまではいいのだが、方法が弱い、答えが甘い!

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美しい理念を掲げながらも、現実には理念通りに行動できない企業。看板に偽りありだ。見事なテーマで企画提案書が練られていても、そこに一発解答の提案はない。広告の甘いうたい文句に誘惑されて手に入れた商品は何も解決してくれない。問題提起は威勢がいいが、いざ答えの段になると消費者の着払いというケースがおびただしい。「口先ばっかり」と言われぬように、自分への警鐘としておく。

組み合わせと配置の妙

G・ミケシュが著した『没落のすすめ』に、「虚栄心、好奇心、サディズム、冷静さ――これらを組み合わせれば、立派な外科医が出来上がる」という記述がある。医者に関して下手にコメントすると総理大臣すら批判を浴びるご時世だ。30年前に書かれた英国人の本でなかったら、「サディズム」はちょっとまずいかもしれない。

ところが、話はここで終わらない。著者はこう続ける――「と同時に、同じ組み合わせが性犯罪者をも作り上げる」。著者でないぼくだが、引用するだけでもドキドキしてしまう。外科医と性犯罪者を対比して類似性もしくは共通点を論うのは度胸を要する。しかし、これしきのことで目くじらを立てていてはいけない。例には事欠かないのだ。「無学歴、貧乏、病弱、苦労、一途」が稀に立派な人物の養分になる一方、これまた稀にテロリストをたくましく育て上げてしまうこともある。

驚くに値しない、当たり前のことなのだ。確率論からすれば、この国にあなたと同じ誕生月日の人間は35万人ほどいる。その中には医者も犯罪者も善人も悪人も必ずいる。血液型O型、四緑木星、みずがめ座というぼくと同じ組み合わせにも多種多様な人間が存在しているに違いない。「えっ、こいつと同じ!?」と、不幸な偶然にショックを隠せないかもしれぬ。もちろん、お互いさまだが……。


身長と体重がまったく同じでも、人間にも「鋳型」というものがあるから、見た目のスタイルはまったく違って見える。同じ顔のパーツを使うのだが、出来上がりの配置のおかしさに笑い転げるのが福笑い。部品の良し悪しが重要なのは十分承知しているが、実のところは組み合わせや配置の妙のほうが決定的なのである。綺麗な瞳、筋の通った鼻、魅力的な唇、すっきりした小顔に恵まれてもレイアウトがまずいと台無しだ。

「人が事実を用いて科学をつくるのは、石を用いて家をつくるようなものである。事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である」(ポアンカレ)

多くを示唆する名言である。情報の集積は知恵ではない、読書の集積は創造ではない、計画の集積は行動ではない……。学問の集積は必ずしも偉人をつくらなかったし、生真面目の集積も成功と程遠い結果をもたらすことが多かった。組み合わせと配置の妙――これこそがバランスなのだろう。

今年わが国が輩出したノーベル賞受賞者。お茶目な人あり、ワイン好きあり、シャイな人あり、テレビゲームに興じる人あり、風呂好きあり、とてつもないことを考える人あり……。自己評価すると、ぼくはほとんどこれらすべてに該当する。おそらくバランスが悪いに違いない。

なお、この組み合わせと配置にさまざまな問題の原因を求めていくと、けっこうすっきりすることが多い。たとえば、企画がなかなか通らないのは、内容の問題ではない。企画書のパーツはいいのだが、目次の構成と章立ての比重が悪いだけなのだ、など。但し、「個々の才能やスキルには問題がないのだが、組み合わせと配置がまずい」――これは言い訳にはならない。なぜなら、そのことを別名「バカ」と呼ぶからだ。