推論と「正答」について

「正答」という表現が妙に不思議に見えてくる。常識世界では〈11〉には一つの正答が存在する。正答のない問題を学校は出題しないし、また正答が複数あるような問題の採点に教師は苦労するだろう。極端なアマノジャクでないかぎり、〈112〉を認めざるをえない。だから、「11は?」と聞かれて「2」以外の答えを書いたら間違いとされる。

こんなふうにただ一つの答えを覚えたり導いたりする習慣を身につけてしまったのがわが国の大人たちだ。必然、「人生とは何か?」や「世界とは何か?」や「日本と中国の関係はどうあるべきか?」などにも唯一の正解が――自分のアタマで編み出されるのではなく、どこかにすでに――あるように錯覚してしまう。

一つの答えしかないという、学校時代と同じような場面は実社会ではめったに現われない。実社会ではふつう解は複数存在する。いや、解をどこかから探してくるというよりも、解を捻り出さねばならないのである(これは決断の一つ)。ある問いや課題を前に、ぼくたちはありったけの知識によって考え、何らかの答えを導く。このような導出は演繹的推論と呼ばれるが、答えは推論によって編み出される。自分の推論を他者に説得できれば、それがひとまず正解になのである(年初に正解創造について書いた)。

ところで、受講生の興味をくすぐるために、論理講座の冒頭でいくつかのクイズを出題することがある。以前、その一つに競馬の話があった(逢沢明著『論理力が身につく大人のクイズ』を参照してアレンジしたもの)。「アメリカの作家マーク・トウェインは、競馬を成立させているものは『これだ』と喝破した。いったい何が競馬を成立させているのだろうか?」という問いである。三択なのだが、選択肢を見ないでしばし考えていただきたい。


この問いは正解を求めているのではない。もとより正解など誰も決めることはできないし、仮に決めるにしてもたった一つではないだろう。ごく常識的に考えれば、競馬は馬、競馬場、調教師、騎手、厩務員、馬産地、馬主、競馬ファン、血統……など長いリストの複合要因で成り立っている。したがって、上記の問いがぼくたちに期待するのは、マーク・トウェイン自身が想定した競馬成立要因の最たるものを推論することである。では、もったいぶらずに三択を示すことにしよう。

競馬を成立させているのは、意見の相違だ。

競馬を成立させているのは、強欲な人間だ。

競馬を成立させているのは、勤勉な馬だ。

さあ、どれがマーク・トウェインの主張だったのだろうか(ちなみに、「辛辣な皮肉家マーク・トウェイン」と言っておけば、大勢が➁を選ぶようになる)。


まず、➂を検証してみよう。たとえば10頭の馬が走るレースの場合、ごく稀に同着があるものの、1着から10着までの着順が決まる。わが国には馬券の種類がいろいろあるが、いずれも3着までが配当対象。だから、1着、2着、3着さえはっきりすればいい。別に馬が勤勉だろうと怠けようと順位がつくのはほぼ間違いない。馬がまじめである必要などまったくないのである。

次に➁はどうか。これも強欲だろうが少欲だろうが無欲だろうがかまわない。馬券さえ買ってもらえればいいのである。本気か遊びかは問わない。

消去法的には、どうやら➀の「意見の相違」がマーク・トウェインの考えらしい。念のために推論してみよう。あるレースで馬券購入者全員がただ一頭の単勝馬券を買えば、的中しても儲けはなく、買った分だけの金額しか戻ってこない。これを「元返し」と呼ぶが、実際は馬券売上の25パーセントは控除され、残りの75パーセントが配当に振り分けられるので、もし全員的中などということがあれば、100円で的中しても75円しか返ってこないことになる(ぼくはこれ以上詳しくは知らない。そんなことが万が一あれば、主催者側は売上のすべてを還付するのかもしれない)。

もうお分かりだろう。競馬ファンにはそれぞれのお気に入りの馬や狙いの馬がいる。お気に入りと狙いが極端に集中した例としては、ディープインパクトの菊花賞での約80パーセントが記憶に新しいが、こんなケースは例外中の例外。そこそこ人気の馬でもめったに占有率50パーセントには届かないから、競馬ファンの意見は見事に分かれるようになっているのだ。すべてのレースでみんなが同じ馬券を買えば、競馬は破綻する。いや、運営する意味がなくなってしまう。意見の相違こそ競馬成立の要因なのである。

以上がぼくの推論である。三択でなければ、「競馬を成立させているものは、必勝法の不在」とぼくは答える。完全必勝法が誕生すれば、競馬は賭けの対象ではなくなるからだ。ともあれ、ぼくはこの問いを、民主主義と二重写しにして考える。「民主主義は意見の相違によって成り立っている」。

値段がクイズになる会話

K氏が知人からゴルフ会員権を買った話を氏にしている。ぼくはゴルフとは縁のない人生を送ってきたので、会員権が何百万とか何千万とかいう話が飛び交っても感覚がよくわからない。耳を傾けていると、かつてマンションと同じくらいの価格だった会員権を20分の1で買ったと言うのである。それも、ふつうに語るのではなく、安く買ったことを鼻高々に弁じているのである。典型的な大阪オバチャン的キャラのK氏のことだ、おそらく今日に至るまで方々で吹聴してきたに違いない。

「大阪人は変だね。なんで安く買ったことを自慢したがるのかわからない。東京じゃ、むしろ高く買ったことに胸を張るよ」と関東出身のS氏が呆れ返る。大阪人であるぼくも、S氏に同感である。このブログで拙文に目を通していただいている大阪以外の地域の読者が7割。想像してみてほしい。大阪人ならほとんど自らが出題者になり、また回答者にもなった覚えのある日常会話内のクイズが、「これ、なんぼ(いくら)やと思う?」だ。身に着けている商品ならそれを指差して値段を推測させるのである。K氏もまったく同じように、「会員権、なんぼでうたと思う?」と尋ねていた。

「これ、いくらだと思う?」と切り出すのは、驚くほど安い買物をしたことを自慢する前兆である。「いくらかなあ、五千円くらい?」と言わせておいて、にんまりとして首を横に振り、「いや、たったの千円!」とはしゃいで見せる。まるでバナナの叩き売りをするオヤジ側の口調みたいなのである。もちろん、自慢したり自慢されたりの関係にあっては、安い値段を聞いて「へぇ~」と驚く。そのびっくり具合を見て当の出題者は勝ち誇る。


だが、会話がそんなにスムーズに運ぶとはかぎらない。なにしろ値段を当てさせようと出題した時点で、思いのほか安かったというヒントが見えているからだ。的中してしまうと出題者は少し残念そうにする。しかし、実際の値段よりも安く答えられるともっとがっかりし、やがてムッとして「そんなアホな。そんな安い値段で売ってるはずないやん!」と吐き捨てる。気分を害してしまうと、正解も言わずに会話を終える。大阪人に「これ、なんぼやと思う?」と聞かれたら、推定価格の数倍で答えておくのがある種の礼儀かもしれない。高めに回答し、してやったりの顔で正解を言わせ、仰天してみせる。場合によっては「どこに売ってるの?」と興味を示せば、完璧な会話が成立する。

日曜日の昨日昼過ぎ、出張から帰阪した。地下鉄のホームに降りて電車を待つ目の前で七十半ばの老人二人が話している。二人は知り合いで、バッタリ会った様子である。男性のほうが、デパートの地下食料品街でおかずを見つくろって買った話をしている。「あんたは何してたん?」と聞かれて、瞬発力よろしく女性が反応する。「私? 私はお茶をうただけ。お茶、三百円」。出題こそしなかったが、物品購入時にご丁寧に値段も暴露する。これが大阪人のDNAのようである。