最初に訪れたイタリアの都市はミラノだった。ミラノのドゥオーモはその規模において世界最大級である。恥ずかしいことに、あのミラノ大聖堂のことをドゥオーモと呼ぶのだと思っていた。しかし、それも束の間、続いてヴェネツィアを、フィレンツェを訪れるうちに、どこの街にもドゥオーモがあることに気づかされた。
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イタリア紀行23 「ドゥオーモ――象徴の象徴」
ミラノⅡ
それぞれの都市には本山のようなポジションを占める大聖堂がある。これをドゥオーモ(Duomo)と呼ぶ。イタリア全土にはそう呼ばれる教会が百十いくつかある。スタンプラリーをしたわけではないが、数えてみたら、これまで17カ所の街のドゥオーモを訪れていたことがわかった。
すでに紹介したシエナ、フィレンツェ、オルヴィエートのいずれにもドゥオーモがある。それぞれに荘厳で華麗だ。しかし、スケールにおいて、このミラノのドゥオーモの右に出る大聖堂は他のイタリア都市には見当たらない。いや、それどころではない。これは世界最大のゴシック建築でもあるのだ。1813年に完成するまでに要した年月は気の遠くなるような5世紀! 室町時代の初めから江戸時代末期まで建設していたことになる。
ミラノを象徴するものはいろいろある。前回のヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世の名を冠したガッレリアもその一つだが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を擁するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会やミラノ公国時代から残るスフォルツァ城もある。食ではリゾットとカツレツが有名だ。世界の三大ファッションであるミラノ・コレクションに、サッカーのACミランにインテル。ローマのコンドッティ通りをはるかにしのぐブランド街は数本の通りに集中する。だが、ドゥオーモはこれらの名立たる象徴の上座を占める。ミラノの「イメージ収支」がマイナスのぼくではあるが、ドゥオーモの存在には土下座するしかない。
ドゥオーモは工事中だった。屋上にもエレベータか階段で昇れるが、見送った。2001年には屋上から尖塔を目の当たりにした。ちなみに尖塔の数は135本。次いで、ミラノ市街地からアルプス連峰まで眺望した。ミラノはロンバルディア州の州都で、イタリアではほぼ最北に位置する。スイス国境に近いので、よく晴れた日にはアルプスが見えるわけだ。
ミラノはローマに次ぐ大都市で、人口130万人。地下鉄網はローマよりも充実している。大都市とは言うものの、中心市街地に様々な機能が密集しているので便利だ。たとえばミラノ中央駅からドゥオーモまでは直線距離にして2.5キロメートル。ドゥオーモからサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会までは2キロメートルほどなので、行きも帰りも歩いた。健脚なら有名スポットへは難なく確実に歩ける。ミラノにかぎらず、イタリアの都市はすべて、日本人の感覚からすればコンパクトにできている。
イタリア紀行21 「エトルリア文明の名残」
オルヴィエートⅡ
エトルリアについてよく知らなかったし、今もさほどわかっていない。『エトルリア文明』というえらく難しい本にざっと目を通したが、受け売りするレベルにも達しない。ローマ時代を読むだけでも精一杯、さらにその前の紀元前の時代にまでは手が回らないのだ。エトルリア時代とのきっかけは2004年。ペルージャ滞在にあたって調べていたら、紀元前4世紀のエトルリア時代に遡る古代都市であることを知った(目の当たりにしたペルージャに残るエトルリア門は「歴史の貫禄」そのものだった)。
オルヴィエートもエトルリア国家の一つで、ペルージャよりさらに2、3世紀遡ると言われている。エトルリア(Etruria)はエトルリア人(etrusco)たちの居住地で、主として現在のトスカーナ(Toscana)地方を中心とした地域である。“Toscana”はこの“etrusco”に由来するらしい。生兵法は大怪我、いや大恥の基ゆえ、塩野七生の『ローマから日本が見える』に拠って「エトルリア人」を紹介しておく。
エトルリア人の起源については、いまだ謎とされているのだが、早くから鉄器の製造法を知っていて、イタリア半島に彼らが定着したのも、半島中部にある鉱山が目当てであったと考えられている。古代エトルリアには十二の都市国家があったが、突出した力を持つ国家はなかったので、エトルリア全体で協調行動を取ることがなかった。このことが、のちにエトルリアが衰亡する致命傷になったのである。
話をオルヴィエートに戻す。この日、アパートで前夜調理して食べ残したイカのリゾットをカップに入れて持参していた。それとゆで卵でランチを済まそうと思っていたので、レストランに入る予定はなかった。初めて訪問するイタリアの街で地元の料理とワインを賞味しないのはあまり賢明ではない。それは重々承知しているのだが、ローマで予約していたホテルを急遽キャンセルしたため想定外の出費があり、財布の紐を締めにかかった矢先だったのだ。
「ここはエトルリア文明の街だ」と自覚するだけで、視線は古びた煉瓦や街路にも延びてくれる。街の中心であるレップブリカ広場では市が立っていた。名物の白ワインを買わない手はない。二本がセットになったご当地の定番を買う。広場から旧市街あたりへ出て、地図に名前も載っていない小道をぶらぶら辿ってみた。
旧市街やドゥオーモへ引き返す別ルートの道すがらにエトルリア時代の遺産はほとんど残っていないのだろう。おそらく現存する面影は中世の佇まいなのだ。にもかかわらず、エトルリアの名残を時空間的に錯視している。そのように感じざるをえない舞台装置がここには巧妙に仕組まれていた。 《オルヴィエート完》