語句の断章(20) 隠れ家

今時の「隠れ家かくれが」は必ずしもその姿を隠して佇んではいない。とりわけ「隠れ家的な」と形容される食事処や宿は、隠すどころか、逆に露出を売りにしている。元々は一部の客だけに知られていたのだろうが、常連が「落ち着いた雰囲気の店があるんだよ」と口走り吹聴することによって有名になってしまった。 

樹木の陰にあって表立たず、めったに人が来ない隠れ家では、大ぴっらに商売などせずに、隠遁者が忍ぶように寝起きしているに違いない。しかし、残念なことに、今では兼好のような徒然の生活者はほとんど存在しない。

隠遁者の住む場所という意味では、フランス語の「エルミタージュ(ermitage)」もぴったりだ。隠れ家とはずいぶん語感が違うが、意味はほぼ同じ。ロシアのエルミタージュ美術館にしても、元を辿れば一般には非公開の私的美術展示館だったのである。

時々近くを歩くものの、未だ一度も階段を下りて覗いたこともないショットバーが自宅から歩いて十数分のところにある。明るい時間帯は当然営業していないから、昼間だとほとんど気づかない。実際、ぼくがこのバーの存在に気づいたのは、ある月夜の午後7時過ぎだった。地下部分にあるこの店、一見いちげんさんが入りにくい雰囲気を漂わせ、まさに隠れ家的と呼ぶにふさわしい。もしかしてアンニュイなエルミタージュなのだろうか。
図書の損傷で話題になったアンネ・フランクと彼女の一家は、アムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地に身を隠していた。場所を知られてはいけないという意味では真の隠れ家であった。しかし、自ら望んだはずもなく、見つかれば最後という恐怖から解放されることのない、絶望的なまでに残酷な空間であった。
狭くてもいいから自宅にプチ隠れ家を持ちたいと、ぼくらの世代までの男どもは思ったものである。何のことはない、趣味や読書に興じる書斎のことだ。そこに閉じこもって、しばしの間、雑音と雑事から逃れたい……机一つに小さな本棚があれば御の字、その狭い空間で極上の時間を過ごしてみたい……それは一つの夢だったはずだ。先日、「書斎を持ちたいと思う人?」と研修時間中に聞いてみたら、一割も手を挙げなかった。書斎という隠れ家が何かと便利だということに当世の若者たちは想像が及ばないのだろうか。

「10分進めています」

出張中は歩くことも少なく過食気味になる。今回は月曜日から金曜日までの45日。いつものように食べているとメタボを加速させる。と言うわけで、ホテルでの朝食ビュッフェはパスして、朝は野菜ジュース2杯だけでしのいでいる。今朝はコーヒーを求めて会場近くの喫茶店に寄った。ほとんどのお客さんがモーニングを食べている。モーニング付きもコーヒー単品も値段は同じ400円。トーストとゆで卵に触手が伸びかけたが耐えた。

喫茶店に入ると壁に掛かっている時計を何気なく見てしまう。万が一遅刻すると大変なので、普段以上に時刻に神経質になっている。今朝の店の時計は正確だった。腕時計と携帯の時刻表示も完全に一致していた。ふと同じような雰囲気の大阪のとある喫茶店のことを思い出す。その喫茶店もモーニング目当てのサラリーマンで朝が賑わう。

その喫茶店では時計の針を10分進めている。サラリーマンが遅刻してはいけないという配慮からである。だが、一見いちげんさんは、その時計を見て「あれっ?」と一瞬ドキリとし、慌てて自分の腕時計の「正確な(?)時刻」を確認することになる。そして、念のため「あの時計、時刻は合ってます?」と尋ね、「いえ、10分進んでいますよ」と聞いてホッとする。こうなると、わざわざ10分進めている理由がよくわからない。


別の喫茶店。時刻が正確かどうかを聞くお客さんが増えたのだろうか、その店では時計の下に貼紙がしてあった。なんと「10分進めてあります」と書いてあるのだ。これにはたまげた。とても不思議である。時計を進めた本来の目的が意味を成さなくなっているではないか。時刻を10分進めたのは、会社にせよ電車にせよ、お客さんが遅れないようにという意図だったはず。そこに注意書きがあって「10分進めています」と種明かしをしてしまったら、もはや「正確な時刻」を告げているのと同じである。

常連さんは時計が10分進んでいることをみんな知っている。だから誰も店の時計に目もくれない。つまり、常連さんにとっては時刻の狂いは想定内。ということは、一見さん向け? いや、一見さんに関しては先に書いたような反応を示すから、「お急ぎを」と促してもしかたがない。ぼくとしては、逆に時計を遅らせておき、「この時計は10分遅れています」と小さな貼紙に書いておくほうが、お客さんを慌てさせる効果があると思う。もちろん、正確な時刻の時計が一番であるが……。