能動態と受動態

学校で習った英文法のおさらいではなく、そこを話の出発点として考えてみる。「能動態で書かれた次の英文を受動態に変えなさい」。こういう設問を見ると懐かしさと情けなさが同じ分量でこみ上げてくる。懐かしさというのは青春時代へのノスタルジーなのかもしれないが、情けなさのほうは「いったい何のためにこんなことをしていたのか」という不条理感からやってくる。

たとえば“I drank a glass of water.”(ぼくはコップ一杯の水を飲んだ)という能動態の文章を受動態に変えると、“A glass of water was drunk by me.”となり、「コップ一杯の水は私によって飲まれた」と訳される。強調したい箇所が異なっているから構文が変わるわけだが、決して意味・ニュアンスが同じであるわけではない。しかし、出題者は二つの文章を「等価」として捉えていたような気がする。もう一つ例を挙げると、“He holds a pencil in his hand.”(彼は手に鉛筆を持っている)に対して“A pencil is held by him in his hand.”(鉛筆は彼によって手に持たれている)。受動態の文章を和訳すると、なぜこうもぎこちなくなってしまうのだろう。

機械操作の英文マニュアルなどは原則的に能動態で書け、場合によっては命令形でもいいと言われる。「ボタンを押せ。すると水が流れる」のような調子だ。これを受身にしてしまうと、「ボタンが(あなたによって)押された後に、水は流されるでしょう」と変調になる。能動態の明快さ、ある意味では簡潔な強さに比べて、あなた任せのような、受動態のまどろっこしさを何と形容すればいいのだろう。もし、日々の会話をすべて受動態で表現すれば大変なことになる。「居酒屋は私によって立ち寄られ、一杯の生ビールが私によって注文され、私によって頼まれもしていない突き出しが、店長によってテーブルの上に置かれた」。ここに臨場感はない。まるで他人事、抗しがたい無機質だけが淡々と流れていく。


“The die is cast.” これも受動態である。軍隊を率いたカエサルがルビコン川を渡る時、彼は「賽は投げられた」と言った。誰が賽を投げたのかは重要ではなかった。必然もしくは運命だった。だから「誰によって」の部分は余計だったのだろう。要するに、この一文は受身ゆえに効果的な名言になった。

唐突だが、昨今話題の「仕分け」に対しても賽は投げられる。仕分けを挟んで、「仕分ける(側の)人」と「仕分けられる(側の)人」がいる。前者が「私はあなた方の費用・予算を仕分ける仕分人」、後者が「私たちの費用・予算はあの人によって仕分けられる被仕分人」である。前者が能動的であり、後者が受動的であることは一目瞭然だ。賽を投げる時点で、すでに勝負はついている。つまり、仕分ける側が絶対優勢、いや、仕分けられる側がクーデターでも起こさないかぎり、仕分人には紛れのない勝利が約束されている。

仕切る人と仕切られる人、動かす人と動かされる人、命を下す人と命を下される人、働く人と働かされる人、引っ張る人と引っ張られる人……それぞれの二項にあって、前者には主体と意思があり、後者には主体も意思もない。言語に能動態と受動態という、異なった役割をもつメッセージ表現の構造があるように、実際の生活や仕事における人々の役割にも相似形の構造があるように思われる。記号論はこのあたりを上手に説き明かすに違いない。ともあれ、ことばの受動態表現に漂う主体不在を受動的行動においても同じように感じる。どうやら「同一の態」が精神、言語、行動を縦断しているようだ。

人の企て、人の営み

講師ばかりが集う年一回の会合があった。「業界」の集まりにはほとんど顔を出さないが、例の事業仕分けで仕分け人を務めた方の講演があると聞いて出席した。子細は省略するが、舞台裏の話も聞けて大いにためになった。「予算は事業につぎ込むのではなく、人に託すもの」とぼくは常々考えている。どんなに崇高な理念を掲げ緻密に練り上げられた事業であっても、資金運用の才覚がない人材が担当していては話にならない。事業が金を食い潰すのではない。金をムダに遣うのもうまく活用するのも人である。こんな思いをあらためて強くした。

人と金の関係のみならず、この地球上で生じる自然現象の一部も含めた出来事や生業なりわいは人が企てるものだ。そして、人が営んでいるものでもある。一人一人は自分を非力だと思っているが、非力の集合と総和は想像を絶するエネルギーとして世界の動因になっている。社会や国家をうまく機能させているのも人なら、危うくしているのも人である。ここでの人とは、匿名の人間集団なのではない。個々の人間のことだ。個人の企て、個人の営みが成否の鍵を握っている。

「企業は人なり」の主語と述語を入れ替えて、「人が企業なり」とするのが正解なのだろう。「人間は万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったとき、人類全般ではなく、一人一人の考え方や生き方が念頭にあったはずである。幸せも不幸も、仕事の成否も、社会の良し悪しも、すべて個人の仕業なのだ。このように考えるのでなければ、ぼくたち一人一人は当事者としての自覚もせずに、無責任を決めこんで生き続けていくだろう。


リーマンショックも自分のせい、長引く不況も一人一人のせい。こう思いなしておかないと個人としての対策も行動も取りようがない。理不尽を批判するのは大いに結構だが、同時に他人事ではなく己にも責任の一端があることを肝に銘じておかねばならない。自分のせいではなく他人のせいなのだと誰もが信じていたら、いったいどこの誰が有効な対策を立ててくれるのか。他力を過大評価しすぎることなく、また自力を過小評価しすぎることなく、企て営む。

過ぎ行く年を大いに振り返り反省はするが、来年の抱負について多くを語らない。来年こうしようと雲の上の可能性のようなことを決意表明したものの、叶わなかったときの後悔とマイナスエネルギーが大きすぎるからである。理想が低くて夢のない人間なのか? いや、そうではない。理想や夢の前に、確実にできそうなことを日々着実にこなそうと思うばかりである。この延長線上にしか理想も夢もない。

誰もが知っているにもかかわらず、日々流されて忘れてしまう古典のことばがある。ほとんど真理とも思える二つの箴言は二千数百年も前に語られた。生活と仕事をすっぽりと包み込んでいる市場経済を、ぼくたち一人一人がどのように生きるかのヒントになってくれるはずだ。デルフォイの神殿に祀られたアポロンの神に捧げた箴言、それはソクラテスが終生強く唱え続けたものであった。

汝自身を知れ。

身の程を超えるな。