再々、ノートのことについて

土曜日。朝から一路高松へ。大阪での私塾の翌日に当地でも私塾開催というスケジュールが9月から続いている。大阪と高松の講座はまったく別内容で、前者が全6講、後者が全5講。「すべて違う内容で丸一日というのは大変ですね」と同情してくれる人もちらほらいるが、同じ話を二日連続せねばならない苦痛に比べれば大したことはない。いや、それどころか知的好奇心を煽りながら新しいテーマを語れるのは幸せというものだ。今年は京都でも新作講座を6講終えているので、かなりの数のテーマを「語り下ろした」ことになる。

ノートがはかどらない、と言うよりも、何をどう書けばいいかわからないと、ややおとなしい塾生のMさんが尋ねてきた。「何でもいいんです。とにかく気づいたこと、見たこと、学んだことを一行でもいいから書く。気分がよければそのまま二行目を書けばいいし、そこでぷつんと切れたらそれはそれでよし。たとえば……」と、ぼくが新大阪から高松までの2時間弱の間に書いた数ページのノートを見せながら少々助言した。

帰路は大阪まで高速バスにした。所要3時間。いろいろ考えたり本を読んだり。しかし、最後部のせいかどうか、少し風邪気味・腰痛気味のせいか、頭痛がしてくる。眠るのもままならない。ぼうっと窓外を見ていると、Mさんの「書けない悩み」のことを思い出す。「いや、ぼくだって書けないよなあ。こんな調子のときは絶対無理。いろいろと刺激もあり、こうして考えたりもしているのだけれども、そうは簡単にメモは取れないものだろうな」と初心者心理に感情移入していた。


今朝も体調がすぐれているわけではないが、一晩明けたら気分だけは引きずらないようにしている。そして、昨日のことを思い出したりしていた。振り返ってみたら、一日のうちにはいろんなことが起こったりさまざまなシーンを感知していることがわかる。岡山で800円の弁当を買ってマリンライナー車中で食べようとしたら、中身がついさっき購入時に見たサンプルと違っている。少し豪華なのである。表示を見れば1000円。レシートを確かめたら800円。店のおばさん、どうやら取り間違えたらしい。

文化人類学の山口昌男の『学問の春』を車中で少し読み始めたら、テーマがホイジンガの『ホモ・ルーデンス』。日本語で「遊ぶ人」。この本はカイヨワの『遊びと人間』よりうんと難解で、二十代初めに読んだのだがあまり覚えていない。山口昌男が興味をそそるように取り上げているので、再読候補にしようと本棚を見るも、ない。誰もいない日曜日の今日の昼下がり、オフィスに行ってみたら見つかった。持って帰る。以上、たわいもないことだが、こんなふうにノートに書けばいいのである。日記のようになることもあるだろうが、ノートにはそんな制約はない。基本的には周辺観察と発想。

あんなこと、こんなこと

とてつもなく何でもない話、三題。


本の話。と言っても、読み方ではない。買い方である。週に一回ペースで散歩がてら書店に立ち寄って、書評でチェックした本を見たり、抱えているテーマに関係ありそうな本を探したり。しかし、たいてい書物との出会いは偶然に任せている。

何冊かまとめ買いをするとき、日によってぼくは相反する消費行動をとる。ある日、「この一冊で終わり」と踏ん切りをつけカウンターに向かう途中に発作的にもう一冊買い足す。別の日は、勘定直前に引き返して本棚に一冊を戻す。一冊の加減で読み方が変わったりはしない。

言うまでもなく、買わなかった一冊に後悔することはない。必要だったら次に買えばいいからである。では、余計な一冊を嘆くかと言うと、そうでもないのだ。衝動の一冊が愛読書になったり、とても役に立ったりすることがよくある。ちなみに、この前の土曜日は一冊買い足した日。その買い足した一冊を鞄に入れて出張に出ている。


その土曜日。本屋の帰りにコーヒーを飲みたくなって、チェーンのカフェに入った。そこで買った本のすべてにざっと目を通した。わずか30分ほどだったがけっこう読めるものである。ちょっぴり満足げにぶらぶらと帰路についた。若い男性が前から歩いてくる。ふいにぼくの方へ近づいてきた。人通りが少ない夕暮れ時、ほんの少し身構えるか、もしくは心構えをしておくのが正しい。

「すみません、このあたりにケンタッキーかマクドナルドありませんか?」

よりによってなぜこの齢のぼくを指名する? 若い人に聞けばいいし、若い人が歩いていないなら、若い人に出会うまで歩き続ければいい。そのうちチキン屋さんかハンバーガー屋さんに行き着くだろう。だが、彼はラッキーだった。なぜなら、さっきまでいたカフェのすぐ近くにマクドナルドを発見していたからだ。指を示し、ことばを添えて教えてあげた。とはいえ、子どもに「この近くにショットバーある?」と尋ねないほうがいいのと同様、中高年にバーガー店への道案内は期待しないほうがいい。


出張3泊目の今夜、さっきホテルにチェックインした。住んでいる人に悪いので固有名詞は伏せるが、こんな殺風景な駅前も珍しい。ほとんど何もない。無機的な空気が張りつめている。駅に着いたら何か腹ごしらえしようと思っていたのに、店がない。駅売店は店じまいの最中。まったく食欲をそそらない売れ残った弁当が一つ。これは買えない。

やむなくホテルの方向に歩く。背広姿の若い男性が前から歩いてきた。ぼくの「すみません」に彼は身構えた(ように見えた)。

「この辺りの方ですか?」
「いいえ。何か?」
「あのう、近くにコンビニないですかね?」
「コンビニなら、そこにありますよ。」 彼が指をさした道路向うにコンビニが見えた。

コンビニで、駅売店の遠慮のかたまりよりはましな弁当を買った。土曜日の道案内の一件と重なった。彼の目にはコンビニ頼りの気の毒なオジサンに見えたに違いない。