コンセプトと属性

使用頻度が高いにもかかわらず、適訳がないため原語のまま使っている術語がある。ぼくの仕事関係では〈コンセプト(concept)〉がその最たるものだろう。ちなみに社名の「プロコンセプト研究所」の中でも使っている。近いのは「概念」ということばだが、これでは響きが哲学的に過ぎる。「核となる概念」や「構想の根源」などは的確に意味を示せているものの、こなれた日本語とは言えない。やむなくコンセプトをそのまま流用することになる。

商品コンセプトや企画コンセプト、さらには広告コンセプトなどとも使われる。多分にイメージを含んではいるが、イメージとは呼ばない。「こんな感じ」と言って誰かと共有するのもむずかしい。“Conceive”という動詞から派生したのだから、やっぱり「考えたり思いついたりすること」である。ならば、その商品で、その企画で、その広告で一番伝えたい考えや命題を言い表わすものでなければならない。ことばに凝縮表現できてはじめてコンセプトなのである。

企画を指導するとき、コンセプトは欠かせないキーワードになる。「もっとも重要な考え」という意味では〈ビッグアイデア(big idea)〉と呼んでもいい。「この企画で一番言いたいこと、伝えたいことは何か?」とぼくはしょっちゅう質問している。言いたいこと、伝えたいことがぼんやりしているうちは、まだコンセプトが見つかっていない、あるいは作り込まれていないということだ。企画をモノにたとえたら、モノの最重要属性を決めかねているなら、「これがコンセプト!」と答えることはできない。


リンゴとは何か? 定義を知りたければ辞書を引けばいい。手元の『広辞苑』には「バラ科の落葉高木、およびその果実」と書いてある。さらに読む進むと、「春、白色の五弁の花を開き、果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱく、食用(……)」とある。だが、企画において「リンゴとは何か?」と尋ねるときは、リンゴのコンセプトを聞いている。「リンゴの最重要属性は何か?」、または「リンゴの売りは何?」とずばり問うているのである。定義はコンセプトと同じではない。

リンゴには形があり、色があり、味がある。場合によっては、好敵手のミカンと対比されたうえでの「関係性」もある。半分に切れば、そこに断面が現れるし、そのまま皮を剥けば白い果実に変身する。黒い鉛筆で描いたモノクロのリンゴの絵を二歳の子に見せたら、「リンゴ」と言った。では、ただの赤い円を見せても「リンゴ」と言うだろうか。いや、言わない。幼児にとって、リンゴの最重要属性は色ではなく、ミカンやイチゴとは異なる、あのリンゴ特有の形なのである。

赤い色は大半のリンゴに共通する属性の一つである。しかし、同時に、赤い色はリンゴ固有の属性ではない。リンゴをリンゴたらしめているのは色や味ではなく、どうやら他の果物とは異なる形状のようである。話を企画に戻す。企画のコンセプトもかくあらねばならない。もっともよく差異化され固有であると言いうる属性をコンセプトに仕立てるのである。「際立った、それらしい特性」を抽象して言語化したもの――それがコンセプトだ。抽象とは引き出すことであるが、この作業には「それらしくない性質」の捨象しゃしょうが伴う。何かを「く」ことは別のものを「捨てる」ことにほかならない。

人を象徴するもの

ここ二、三年、目線がリテラシー、思考、言語に向いている。仕事上の場数のお陰で、ずいぶんいろんな人たちと付き合ってきて、ようやく他人の発想メカニズムが見えるようになってきた。少し話せば、ものの見方や考え方の特徴がある程度わかる。もうしばらく付き合えば、頭の使い方の上手・下手までも診断して処方してあげられる。さらに、その人の長所を減殺している固着観念が何であるかもだいたいわかる。

別に予言者であるかのように自分を持ち上げているのではない。よく他人を観察することの意味、他人のどこを見るかというコツがつかめれば、将来の予言は無理だとしても、「おそらくこんな人だろう」と言い当てることくらいは誰だってできるようになる。占いの専門家には悪いが、人間というものは、手のひらや水晶やトランプや生年月日や星座にではなく、ことばの使い方や仕事ぶりや日々の暮らし方により強く象徴されると思う。

「あの人は背が高く、ハンサムであり、金回りがいい」などというのも、その人の形容である。いろいろある特徴から目ぼしいものを引き出したという意味で、この表現は彼を「抽象」したものと言える。しかし、こんな特徴はまったく個性的ではない。希少なようで案外そうではなく、「背が低く、不細工であり、金がない」と象徴される人たちと同数かそれ以上いるような気がする。身長や美醜や貧富ごときで人を知ろうとするのは甘い。この意味で、雑誌によく掲載されている心理テストの類も胡散臭い。


人間は「言語的動物」という表現によって象徴される。鳥類が「飛翔的動物」であり、魚類が「泳流的動物」であるように。ぼくたちはことばで羽ばたき、ことばで泳いでいる。どこを? 人間関係が複雑に入り組んだ社会環境を。ことばをよく用いないということは、鳥が羽ばたくことをやめ魚が泳ぐことをやめることに等しい。ことばを鍛錬することは環境適応のための必須要件なのである。

言語は思考に先立つ。このことをリテラシー能力でつまずいている人たちに何度も伝えている。外部環境から遮断された状況で、書きも語りもせずに、沈思黙考することなど不可能なのである。沈思黙考という四字熟語はお気に入りの一つではあるが、これは多分にイメージ的であって、現実的に考えることとは違う。むしろ脱言語的世界に没入して、「思索よりは詩作」するような感じではないか。

その人が何を考えているか。一つの質問に対する答え方でわかる。その人の書くこと、語ること、意見を交わすこと以外のどこに、その人の思考の痕跡を見い出すことができるのか。どこにもない。人間が言語的動物であるかぎり、言語のありようを見れば人がわかる。

「きみ、よく考えているか?」
「はい」
「じゃあ、その考えていることを、一つぼくに聞かせてくれないか?」
「できません」
「なぜ?」
「うまく表現できないのです」
「……」。

これを、考えているがうまく話せない状態と勘違いしてはいけない。「考えていないから話せない」のであり、「話さないから考えられない」のである。思考の活性度は言語の活性化によって高まる。大江健三郎に『「話して考える」と「書いて考える」』という本があるが、言語と思考の関係をとらえて言い得て妙である。