「説明」ということ

地下鉄案内表示 パリ web.jpg写真はパリの地下鉄の行先案内表示である。この下に立つぼくの前には上りの階段があるのみ。階下への階段もエスカレーターもない。階下がないからである。

 一段目の〈〉の箇所。○で囲まれたMはメトロ。は地下鉄の路線番号と終点が書いてある。二段目の〈〉は切符売場と案内所。三段目の〈〉は出口。ぼくたち日本人の感覚からすると、この状況では、下向きの矢印は地下へ行くか後戻りするかを意味するような気がする。実は、「このまま前方へ進め」である。前方と言っても、階段なので「上がれ」ということだ。下向きなのに「上がれ」なのである。矢印など常日頃安易に使うが、この記号一つで意図を伝えるのは決してやさしくない。
 
何を今さらというテーマである。そうではあるが、説明を要しないほど「説明」ということは自明ではない。『説明・説得』というテーマでお呼びがかるので、年に数回話をさせていただく。あれこれと意見交換していても、「説明とは何か」に明快に答えられる人はめったにいない。
辞書的な意味で言えば、とても簡単だ。それは、「あることの本質や意味や背景や事情などを、まったく知らない、またはあまりよく知らない人にわかるように言うこと」である。説明の定義は何となくこれでよさそうだが、「どのように」という説明の方法に関しては不十分。ふつう、説明とは「論理的に順序立てて包括的におこなうもの」と思われている。しかし、必ずしもそう断言できない。「印象的に要点のみ拾う」という方法もあるからだ。

ここで、問題を提起する。「わかっていることなら説明できるのか?」 イエスは楽観的に過ぎるし、ノーは悲観的に過ぎる。

二十代の頃、友人が「たこ焼き」を見聞きしたことのないアメリカ人に説明するのを傍で聞いていたことがある。英語力のある男だったが、そんなことはあまり関係ない。見たことのないもの、知らないことについて相手に理解させるのは、説明者だけの力でどうにかなるものではない。「それ」について輪郭のディテールまでわかるかどうかは、その説明を受ける張本人の知的連想力によるところが大である。

他方、ろくにわからないからこそ説明できるということがある。専門家がこだわって一部始終語らねば気が済まないことを、ちょっとだけ齧ったアマチュアがかいつまんで説明できることがある。専門家のかたくなな説明手順を嘲笑うかのように、飛び石伝いに喋って理解させてしまうのだ。自身わかっていることを専門家が説明できず、非専門家があまりわかっていないのに説明できたりする。

説明の技術は、知識の豊かさや専門性と無関係ではないが、決して比例もしない。知っていても説明できないことがあり、さほど知らなくても説明できることがある。そして、説明がうまくいくためには、説明者だけの技術だけでは不十分で、説明を受ける者の背伸びという協力が欠かせない。説明の上手な人とは、相手をよく理解して、何を説明し何を説明しないかを判断できる人と言えるだろう。

届かなくても背伸び

以前『背伸びと踏み台』というタイトルでブログを書いた。背伸びを自力、踏み台を他力としてとらえた話である。よく「お前は背伸びしすぎだ。分をわきまえろ」などとお説教している人がいるが、少し酷ではないか。分をわきまえているからこそ背伸びをしているのである。自分は力不足だ。期待されている「そこ」に手が届かない。だからこそ、不安定になりながらも、爪先を立てて精一杯手を伸ばす。いったいこの努力のどこに問題があるだろうか。何もない。たしかに彼は無理している。だが、たとえ爪先と言えども、自分の足が地に着いているのである。

ぼくは背伸びする人たちをずっと評価し、背伸びのお手伝いができないかと考えてきた。今も変わらない。背伸びは自助努力である。自力を用いようと踏ん張っている様子である。そう、上げ底と取り違えてはいけないのだ。上げ底は見せかけである。そこに実体などない。正味60点の力量に架空の20点をどこかから持ってきてトータル80点の振りをしているにすぎない。背伸びして80点というのは、正味の力量である。たとえ20点分に無理があろうとも20点分が束の間の足し算であろうとも、彼の潜在能力が発揮された結果にほかならない。


マルボロの広告で有名な広告界の巨匠レオ・バーネット(1891~1971)は味わい深い名言をいくつか残している。「商品には固有のドラマがある」ということばから、どんなありふれた商品にも誕生したかぎり隠されたドラマがあり、それを掘り起こし使いこなすのがコンセプト開発者の仕事であることを学んだ。「テーマに没頭し、考え抜き、そして自分の予感を愛し、尊び、それに従うこと」という企画者の姿勢にも大いに共感したものだ。

今もなお、ぼくには「できること」と「できないこと」を分別する合理的精神の趣が強い。「一見できそうもないこと」は場合によっては「一見できそうなこと」でもあるから何とかしようと試みるが、努力が徒労に終わりそうな、「明らかにできないこと」はパスするのである。しかし、二十数年前にレオ・バーネットの一文を知るにおよんで、「できないこと」に向かって背伸びして得られる副次的なメリットにも開眼した。

“When you reach for the stars, you may not quite get one, but you won’t come up with a handful of mud either.”

「(つかもうと)星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、(そうしているかぎり)一握りの泥にまみれることもないだろう」という意味である。ぼくはここに背伸びの効用を見て取る。背伸びは必ずしも目的への到達だけを目指すのではなく、落ちぶれないための、あるいは能力を減じないための歯止めでもあるのだ。背伸びをしなければ現状維持さえおぼつかない。肉体のみならず知力のアンチエイジングのために自らの心身によって背伸びする。上げ底ではエイジング対策にならないのである。