つい「もったいない時間を過ごした」とつぶやいたが、まんざら悪い気もしていない。今朝、本来なら30分で済んだかもしれない打ち合わせが3時間になってしまった。脱線、見直し、小言などであっという間に時間は経過した。半時間で終わる予定が3時間になった―3時間要してしまったのだが、見方を変えれば、3時間注げる余裕があったということでもある。別の約束があったり期限を妥協なく設定しておけば、予定通りに終わった、いや終えることができたはずである。
サラリーマン時代の話。もう25年くらい前になるだろうか。縁故で商談に出掛けていた上司が帰社してぼくにこう言った―「紹介してもらった人は部長だったけど、2時間も話を聞いてくれた。たぶん、あまり仕事のできない、閑職にある人なんだろう。暇人でなければ、そんなに時間は取れないからな」。会ってくれた相手にそんな言い方はないだろうとぼくは思った。その部長は多忙にもかかわらず、寛容の精神で接してくれたかもしれないではないか。風呂敷のたたみ方を知らぬ上司のほうこそ仕事のできない暇人ではなかったか。
暇人だから時間に融通がきくとはかぎらない。たしかにそんな御隠居さん的ビジネスマンもいる。しかし、「忙中閑あり」も真実だ。人は多忙だと思っているわりにはゴミ時間も消費している。逆に、時間がたっぷりあると油断していると、あっという間に一週間や一ヵ月が過ぎてしまう。忙と閑をうまく使い分けて時間管理をきちんとしていれば、時間に対して寛容になれる、つまり「あなた時間でいいですよ」と言えるようになる。
アポイントメントを取るとき、月日は双方合意で決めるのは当たり前。その後の時間決定の段になると、ぼくは原則として相手に時間指定権を譲る。こちらから出掛けていってお邪魔するときも、相手に来てもらって迎えるときも同じである。「その日は終日空いています」とか「夕方以外は午前、午後いつでもいいです」というふうに自由に時間を選んでもらう(もともと欲張って分刻みの約束はしないし、できるかぎり一日のアポイントメントは一件、せいぜい二件までにしている)。
「あなた時間」で決めたからといって自分が束縛されたり窮屈になるものではない。「あなた時間」に「自分時間」を合わせることができる―これこそが真の自由時間だと思っている。暇であるか多忙であるかという状態と、時間が自由であることはあまり関係がない。先行して段取りさえしておけば、多忙であっても自由時間は持てる。後手後手に回ると、暇であっても時間は自由にならない。
時間だけではない。時間以外の諸条件も相手の主張をできるかぎり呑むことによって自由が生まれると思っている。自由が欲しければ、まず寛容にならねばならないのだ。
「時間? お任せしますよ」と言えるようになってはじめて、時間をコントロールできたことになる。いつでも自分時間で動けるのは、一見マイペースのように見えるが、「その時間帯」以外が窮屈ということだ。「この時間でなければならぬ」という人物は、可哀想に自由がないのである。その人たちの手帳は屑みたいな約束とゴミ時間の印で埋められていることが多い。