棘のあるコミュニケーション

「批判される」の能動形は? ふつうは「批判する」。当たり前だ。否定形は「批判されない」。では、「批判は受けるもの」の反対や逆は? 「批判は受けないもの」? いや、おもしろくない。もう少しひねってみよう。一方的に批判を受けるのではなく、言い返したり反論したり。批判からたいかわす方法もありうる。しかし、とりあえず、「批判は受けるものである。決して受け流してはいけない」と言っておこう。

体を躱したついでに、批判や反論の矢から逃れることはできる。知らん顔したり黙殺したりすればいい。しかし、逃げれば孤立する。さわやかな議論であれ真剣勝負の論争であれ、当事者である間は他者や命題と関わっている。逃げてしまえば、関係は切れる。ひとりぽっちになってしまう。本来コミュニケーションにはとげと毒が内蔵されている。にもかかわらず……というのが今日の話である。


「みんな」とは言わないが、大勢の人たちが錯覚している。親子のコミュニケーションや職場のコミュニケーションについて語る時、そこに和気藹々とした潤滑油のような関係を想定している。辛味よりは甘味成分が圧倒的に多い。フレンドリーで相互理解があって明るい環境。コミュニケーションがまるで3時のおやつのスイーツのような扱われ方なのである。コミュニケーションに「共有化」という原義があることを承知しているが、正しく言うと「意味の共有化」である。このためには、必ずしも批判を抜きにした親密性だけを前提にするわけにはいかない。差し障りのない無難な方法で「意味」を扱うことなどできないのだ。

家庭や行政にあっては、たとえば子育て。職場にあっては、たとえば顧客満足。いずれも人それぞれの意味がある。子育ての意味は当の夫婦と行政の間でイコールではない。顧客満足の意味は社員ごとに微妙にズレているだろうし、売り手と買い手の意味が大いに違っていることは想像に難くない。意味の相違とは意見や価値観の相違にほかならない。互いの対立点や争点を理解することは意味の共有化に向けて欠かせないプロセスであり、単純な賛成・合意の他に批判・反論も経なければならないのである。棘も毒も、嫌味のある表現も、挑発的な態度もコミュニケーションの一部である。これらを骨抜きにしたままで信頼できる人間関係は築けるはずもないだろう。


Aは賛否両論も踏まえたコミュニケーションをごく当たり前だと考え、強弁で毒舌も吐けば大いに共感もする。誰かに批判され反論されても、どの点でそうされているのかをよく傾聴し、必要があれば意見を再構築して再反論も辞さない。要するに、Aは酸いも甘いもあるのがコミュニケーションだと熟知しているのである。

ところが、Bはお友達関係的であることがコミュニケーションの本質だと考えている。意見の相違があっても軽く流して、極力相手に同調しようと努める。こんな等閑なおざりな習慣を繰り返しているうちに、安全地帯のコミュニケーションで満足する。ちょっとでも棘のあることばに過剰反応するようになり、次第に先のAのようなタイプを遠ざけるようになる。このBのようなタイプにAはふつうに接する。むしろ距離を縮めて議論を迫る。しかし、BにとってAはやりにくい存在だ。

Aを敬遠するBは議論の輪に入れず孤立するだろうか。いや、この国の大きな組織では孤立してしまうのは、むしろAのほうだ。残念ながら、コミュニケーションを正常に機能させようとする側がいつも貧乏くじを引く。それでも、言うべきことは言わねばならない。相手に感謝されるか嫌がられるかを天秤にかけるあまり、言うべきことを犠牲にしてはいけないのである。

対話と雑談

「根っからの」と言えるかどうかはわからないが、ぼくが対話好きなことは確かである。口論は好まないが人格尊重を前提とした激論なら歓迎する。ぼくは議論を対立や衝突の形態と見ていない。ゆえに、ジャブのように軽やかに意見を交わすようにしているし、必要とあればハードパンチを打ち合うこともある。このようなぼくの対話スタイルは少数派に属する。そのことをわきまえているつもりだから、対話に慣れない人たちが議論などおもしろくないと思うことに理解を示す。

だが、一人であれこれ考えるより少し面倒でも対話をしてみるほうが手っ取り早い。他者と意見交換してみれば容易にテーマの本質に迫ることができるのだ。一人熟考するよりも、あるいは読書を通じて何事かを突き詰めていくよりもうんと効果的だと思うのである。トレンドが起こるとアンチトレンドが煽られるように、ある立場の意見は対立する別の「異見」によって照らし出される。意見対立を通じて見えてくる知の展望に比べれば、反論される不快さなどたかが知れている。挑発的な質問や当意即妙の切り返しの妙味は尽きないのである。

たしかサルトルだったと思うが、「ことばとは装填されたピストルだ」と言った。拳銃のような物騒な飛び道具になぞらえるのはいささか極端だが、対話や議論のことばには弾丸のような攻撃的破壊力がある。猛獣のように牙を剥くことさえある。たいていの人はことばの棘や牙に弱く、免疫を持たない。たった一言批判されようものなら顔を曇らせる。しかし、少々の苦痛を凌ぐことができれば、対話は有力な知的鍛錬の機会になりうる。論争よりも黙殺や無視のほうが毒性が強いことを知っておくべきだろう。口を閉ざすという行為は、ある意味で残酷であり、論破よりも非情な仕打ちになることがある。


何事にも功罪あるように、対話が息苦しさを招くのも否めない。かつて好敵手だった同年代の連中の論争スタミナも切れてきて、議論好きのぼくの面倒を見てくれる者がうんと減った。また、若い連中は遠慮もあってか、検証が穏やかであり、なかなか反駁にまで到らない。この分だと、これからの人生、一人二役でぼやかねばならないのか。だが、幸いなことに、対話同様にぼくはとりとめのない雑談も愛しているから、小さな機会を見つけては興じるようにしている。対話には屹然きつぜんとした線の緊張があるが、雑談には衝突や対立をやわらげる緩衝がある。雑談ならいくらでも「茶飲み友だち」はいる。

雑談の良さは、ロジカルシンキングの精神に逆らう「脱線、寄り道、飛躍」にある。「ところで」や「話は変わるが」や「それはそうと」などを中継点にして、縦横無尽に進路を変更できる。雑談に肩肘張ったテーマはなく、用語の定義はなく、意見を裏付ける理由もない。何を言ってもその理由などなくてもよい。対話と違って、雑談の主役はエピソードなのである。「おもしろい話があるんだ」とか「こんな話知ってる?」などの情報が飛び交ったり途切れたり唐突に発せられたりする。

対話は知的刺激に富むから疲れる。かと言って、対照的に雑談が気晴らしというわけでもない。なるほど「今から雑談しよう」と開会宣言するようでは雑談ではない。また、「ねぇ、何について雑談する?」などと議題設定するのも滑稽だ。原則として雑談に対話のルールを持ち込むのはご法度なのである。けれども、雑談をただの時間潰しにしてしまってはもったいないので、ぼくは一つだけ効能を期待している。脳のリフレッシュ。ただそれだけである。