知るほどに景色が変わる

大川の天満橋近くにオフィスを構えて30年。そこから約1kmの所に住まいを移してからまもなく14年になる。仕事場周辺に地元感覚が芽生えるまで少々時間がかかったが、職住が近接して以来、この地区への愛着が相乗効果的に深まった。

天満橋を南から北へ渡ると大川右岸。その右岸の天満橋から天神橋までの一帯が南天満公園。そこに「天満青物市場跡」の碑が立つ。ふーん、ここに市場があったのか……という程度で通り過ぎていたが、ある日もう一つの碑をじっくり読んでみた。「天満乃子守歌」がそれ。碑のそばには子守姿の女性の像が立つ。

ねんねころいち 天満乃市よ
大根揃へて 舟に積む
舟に積んだら どこまでいきやる
木津や難波の 橋乃下
橋の下にハ かもめがゐやる
かもめ取りたや 竹ほしや

この歌の後に「竹がほしけりゃ たけやへござれ」「竹はゆらゆら 由良のすけ」の二行が続く別バージョンもある


かつては水路が運搬の主要な役割を果たしていたから、川の周辺には随所に船着場があって大いに栄えていた。この大川は西へしばらく流れると堂島川と土佐堀川に分岐する。天満の青物市場、堂島の米市場、そして土佐堀川近くの雑喉場ざこば(魚市場)がかつての大阪の三大市場であった。

こういうことを知って、もう少し調べていくと、大坂城下町と商売人の生々しい実録が見えてくる。各藩の武家屋敷が川沿いに建ち、その背後の船場せんばあたりに商人の豪邸が控えていた。市場や両替で稼いだ旦那衆目当てに遊興街が生まれる。西の新町、北の新地、南の難波・道頓堀という具合。歩くたびに新しい発見がある。老舗の名残りや碑が目に入り、区割りや地形のおもしろさにも気づく。

しかし、見るだけでは限界がある。理解が深まらない。ある程度の活字的な知識がなければ話にならないのである。いろんな本を読んだが、一番勉強になったのが桂米朝の『米朝ばなし 上方落語地図』である。堂島、中之島、高津こうづ、天満、千日前などを舞台にした落語のさわりとエピソードを上方ことばで粋に語る一冊。もう35年も前の本なので掲載されている地図も地名も古いが、勝手知った場所の景色が大いに変わったのである。

T O M A T O

南米アンデスに由来するトマトがヨーロッパに伝えられたのは16世紀。意外にも歴史が浅い。しかも、当初は観賞されるだけの植物に過ぎなかった。広く食用として受け入れられたのは、さらに下って18世紀のこと。日本でトマトの栽培が始まったのが19世紀なので、さほど時間差はない。トマトは洋の東西で比較的新しい食材なのである。

栄養価もあり重宝されている。ところが、テレビで取り上げられたりすると、翌日から敏な消費者が大量に買い出しに出掛ける。普段から料理に使っているのだから、煽られるには及ばないのに……。熱しやすく冷めやすい国民がトマトをサプリメントのように扱う。こういう偏りはいただけない。

食べる側の正しい食事のありようは、「いろんな食材を、なるべく旬に応じてバランスよく食べる」ことに尽きると思う。普段から少しずつ料理に用いたり食べたりしていたらいいわけで、大量買い付けは滑稽である。トマトは加工しやすく、加工しても栄養価に問題がないので、缶詰ならいつでも手に入る。


酒は穏やかに嗜む程度だが、ここ20年ほどワインを飲むようになった。日本料理店が近場から消えたこと、付き合いなどでも洋食傾向が強まってきたことと無関係ではなさそうだ。いいワインも安価に手に入るようになり、肉料理のパートナーとして出番が増えた。

トマトが肉食と特に相性がよいことをフィレンツェで知った。とりわけ、牛の第二胃のトリッパ(ハチノス)や第四胃のランプレドット(アカセン)などの内臓が合う。内臓をトマトソース、塩・コショウ、ニンニクでコトコト煮込めばかなりやわらかくなる。現地では、そのまま食べるかパニーニにはさむ。年に数回自分でも調理するが、トマトソース煮込みの内臓料理は赤ワインを手招きする。

トマトがヨーロッパに伝わってから一般化するまでに、様々なレシピの試行錯誤があったに違いない。ラテン系の人たちは、やがてトマトが肉ともっともよく合い、こうして作られた料理が赤ワインに合うことを体験していった。サラダで食べるトマトもいいが、火にかけて肉と絡ませてこそのトマトである。

あちらではトマト以外に目ぼしい野菜をふんだんに使うわけではない。パスタで使う具材も決して多くない。トマトがあれば、食材が少なくてもバランスを取ることができる。トマトソースに溶け込んだ香味野菜と肉片。それとパンだけでうまい料理が仕上がる。トマトがうまみを演出しているのである。『おいしさの科学』という本によれば、トマトが昆布や鰹節のような役割を果たしているらしい。この夏、調味料も兼ねた優秀な食材に大変お世話になった。

グリーンを通して感じる移り変わり

四時しいじ」と言えば、一般的には春夏秋冬の四季のこと。四季という用語は一年にしか使えないが、四時なら一日の分節にも使える。すなわち、一日のうちの朝・昼・夕・夜をそう呼ぶことができる。

ついでながら、一ヵ月の中にも四時があることをつい最近知った。かいさくげんぼうがそれ。月が出ていない暗い日が晦。朔は新月のこと。弓を張ったような月が弦。望は望月もちづきのことで、満月の別称。これらは月の満ち欠けの姿かたちを現わしている。

四時は文字にして書けばそれぞれが分断されたように見えるが、実は切れ目なく緩やかに流れている。頭で捉えようとするかぎり、緩やかな流れを日々刻々と感じるのは容易ではない。


捲るのを失念していて、オフィスのカレンダーは今日87日まで7月のままだった。明日が立秋の始まりだと言っても、感覚は秋とはほど遠いし、外気の温度や天候は天気予報任せ。これほど暑い日が続けば室内で冷房漬けになり、身体は季節の節目に戸惑う。

ここ数年のうちに、オフィスのグリーンが大小様々およそ30鉢になった。生育させるのにかなりの手間暇がかかる。グリーンに水をやり霧吹きを使い、時折り軽く剪定したり新しい鉢に植え替えたりしていると、季節の移り変わりに気づかされることがある。頭のデジタル知覚としてではなく、体感的な――あるいは触覚的な――アナログ的変化が、朝夕の時間差のうちに確認できることもある。

都会に暮らすということは、こういうことなのだろう。自力では知識や情報に頼るばかり。他力的な手助けなくしては季節の移り変わりが感知できない。感度が極端に鈍らずに済んでいるのは、グリーンの成長具合や日々の様子のお陰なのである。手間暇の恩返しだと思う。

季節の移ろい

移ろいというのは四季を通じて実感する。一年365日を振り返ってはじめて移り変わりがわかる。ところが、3月と4月は月単位で見てもかなり移ろう。三寒四温とは言い得て妙である。さらに、体感のみならず、視覚的にも移ろいを感知することになる。桜の仕業である。

オフィスの目と鼻の先に大川が流れ、年に二度賑わう。船渡御と花火の天神祭りが夏の風物詩。もう一つが今の季節。造幣局の敷地の遅咲き桜の競演を愛でる「通り抜け」だ。先週の火曜日に始まり、今日が最終日。平日、休日に関係なく、天満橋を渡り造幣局の門を目指す人々が長蛇の列を成す。


桜咲く桜の山の桜花 咲く桜あり散る桜あり

視覚的な移ろいとはこのことだ。咲く桜と散る桜が入り混じる。今年は例年と少々天候が違い、4月上旬には一本の木に花びらと新芽が同居していた。

明治時代の唱歌『四季の月』の「咲きにほふ山の桜の花の上にかすみて出でし春の夜の月」のような風情は、この都会では望めない。屋台の匂いが花の香を吸収してしまう。

七分咲きの桜が満開へと向かう。折り返してから三分散らすと、そこで再び七分咲きになる。咲く一方の七分咲きと散る一方の七分咲きは同じではない。不思議なもので、気配が違い、色艶が違うのがわかる。そして、地表に散りばめられた花片が春の移ろいを教えてくれる。

満開の桜を背景に撮影する人が多いが、散った桜の上でポーズする外国人観光客を稀に見かける。それはそれで旅先での思い出のシーンになるのだろう。

今は春べも梅を見ず

正月に神社で梅の枝を見、その一ヵ月後に公園で梅の蕾をしたためた。陽気が春めいてくると、梅の花がつつましやかに咲くのを見逃して、目線は華やかな桜へと移りがち。ここ数年こんな具合だ。

元日に訪れる高津宮こうづぐうの、ぼくなりの梅三題の筆頭は「梅ノ井」。大阪の府の花と言えば梅。大阪市中央区の区の花も梅。中央区の大阪城公園にも有名な梅林がある。江戸時代から高津宮一帯は梅の名所だった。今は微かな痕跡しかないが、当時は梅川という川がこのあたりを流れており、梅の井には上町台地の伏流水が湧いていた。井戸にしたほどだからかなりの名水だったらしい。現在の梅の井は石蓋で閉ざされた空井戸である。

梅川の微かな痕跡というのは、その川に架けられた「梅乃橋」。これが二題目。二百五十年前に奉納されたもので、今も残っている。梅川は東から西へ流れる川だった。この川の下流あたりを掘り下げて川幅を広げたのが今の道頓堀という説がある。この場所から道頓堀のグリコの電飾サインまでは直線で1.3キロメートル。見事に真っ直ぐ西方向。

三題目は「献梅碑」。わが国に『論語』と『千字文せんじもん』をもたらした王仁博士の歌を刻んだ碑である。建立は90年前と比較的新しいが、エピソードは1600年前に遡る。昨日、梅花を神前に奉納する献梅祭が五日前に執り行われたと知った。祭は王仁博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったことにちなむ。

難波津なにわづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

あまりにも有名な一首がこれである。難波は今では「なんば」と呼ぶが、古代の大阪の呼び名は「なにわ」。

まもなく春べ、しかし「この花」の咲くのをまだ見ていない。オフィスから大阪城の梅林まではゆっくり歩いて半時間足らず。梅は五分咲きだという。週末に時間が取れれば行ってみようと思う。紅梅混じってこその梅林だが、どちらかと言うと、白梅びいきである。白梅の校章のついた学生帽をかぶって三年間高校に通ったせいかもしれない。

アートに学ぶ

小さな会社を経営して31年になる。経営者としての強い自覚と意識は、恥ずかしながら乏しい。それでも、世間的には経営者として見なされている。経営能力などたかが知れていて、日々仕事に励み、とりあえず収支だけ大雑把に見ている。潰したりしたら迷惑をかける人が出てくるからだ。代表としての責任感だけは持ち合わせている。

経営をビジネスと考える生き方はつまらない。創業当時からそう思っていた。いや、「経営=ビジネス」という会社でサラリーマンをしていたから、独立した動機が「経営≠ビジネス」だったのである。

商売をしているというのはこちら側の論理と言い分に過ぎない。仕事を依頼してくれる人たちは、それぞれのスケールとコードでぼくの仕事の質を判断している。自分の仕事を自分で出来がいいなどと思うのは勝手な話で、いい仕事かどうかを決めるのはつねに顧客なのである。


本業の領域だけでは仕事は高度化できないし、変化させることもできない。仕事について経営について学べば学ぶほど深堀りするばかりで、見晴らしはよくならない。専門性を研ぎ澄ますスキルが、その専門分野にあるとは限らないのである。

マンネリズムに陥らず、まずまず仕事に恵まれてきたのは、仕事外でのインスピレーションによるところが大きいと思っている。いろいろあるが、アートに親しんできた恩恵を無視することはできない。十代の頃に目指したものの断念したアートが今の自分を救ってくれている。

Palazzo Comunale, Bologna 2004 (ボローニャ市役所)

〈ビジネスなビジネス〉はつまらない。経営から離れる頃に遅ればせながら反省することになるだろう。〈アートなアート〉は趣味である。もしそれが仕事なら食いつなぐことは難しい。生計を立てるためにはアートをビジネスとせねばならない。しかし、そんな〈ビジネスなアート〉も性に合わない。と言うわけで、ぼくはビジネスをなるべくアートとして捉えるように努めてきた。〈アートなビジネス〉である。大儲けはできないが、仕事を愉快に楽しめるのが何よりである。

新しさと古さと

古色蒼然とした歴史的建造物が修復されてよみがえる。たいてい新しい建築素材が使われ壁などは見違えるように美しくなる。美しくなるとは真新しくなることだ。真新しいのに歴史的。複雑な気持ちになる。真新しさが歴史の情趣をいくばくか減じるのはやむをえない。

それでも、壊して建て替えるよりはいい。歴史に敬意を表するがゆえの修復である。築地市場がなくなって豊洲市場として一変し、名も形も消えたのは無念である。少なくとも名か場所のいずれかは残るべきだった。建て替えるにしても、かつての場所に建つのなら記憶に残る。移転しても、歴史を背負った名を継承して何がまずかったのか。

かつての面影を残しながらリニューアルした街並みにずいぶん足を運んだ。金沢や飛騨高山の歴史的街並みは、出来立てのテーマパークのように思えた。建築と街並みの修復後の真新しさに失望し、そういう方法以外に何かないものかと素人ながらに思った頃がある。


今はちょっと見方が変わった。目に見える建築と街並みの背景にある無形の歴史とエピソードが鮮やかに感受できるなら、少々目新しくてもいいと思うようになった。新しくなって歴史が薄まる遺産は、それだけの器、それだけの価値ということだろう。他方、新しくなっても歴史が色褪せない遺産がある。

オランダ商館跡(出島)

先週末、鳥栖に出張したついでに長崎へ小さな旅をした。大浦天主堂は白粉を塗ったように白かった。出島のオランダ商館跡も昔とは色合いも風情もかなり違うのだろうが、17世紀の歴史シーンを炙り出してくれたし、いくつかのエピソードが手招きしてタイムスリップをさせてくれた。大した想像力ではないが、新しく修復された建物を見、生活や商売が営まれた跡地を歩いているうちに、古い物語の一編や二編が紡げたのである。

視覚的な一日

予報によれば平年に比べて気温は高いらしいが、昨年も一昨年も10月初旬はこんなものではなかったか。9月にいったん涼しさを経験すれば、気温が20℃後半に上がると暑さのぶり返し感が強いのは当たり前。先月夏の終わりを感じ名残りを惜しんだが、ちょっと損をした気分である。

昨日、1月以来の京都に出掛けた。美術館を出たのが午前11時。まさに残暑の昼前だった。かなり喉が渇き、すでにペットボトルを1本飲み干していた。おまけに、ランチに入った洋食屋で冷水2杯、帰りがけに寄った喫茶店でも冷水3杯という具合。

暑さを凌ごうと、視覚的に涼感を誘う風情を探す。雲が多めの空の青も少し暑さを緩和してくれた。白川の岸に建つ町家の情趣は秋を思わせ、透き通ったせせらぎは5℃ほど暑さをやわらげてくれた気がする。


歩を進めていくと、朽ちた塀を剥き出しにした一角に出くわした。あばら家だと推理するのは身勝手ではないだろう。塀というものが他人様に見られるものであってみれば、もしその家で住人が生活しているなら朽ちたまま放置はしない。ふつうはそうである。

しかし、人の感覚はそれぞれで、しかも、この時代、これが何らかの美的意匠である可能性も否定できない。しばし凝視しているうちに、住人の意図が作意に転じ、その作意を読み解きたくなる衝動に駆られた。

これはきっと何かある……そう思い始めたら、朽ちた塀のあばら家を好意的に汲んでみようと心が動いた。ほどよい青と白の空のせいもあってか、こんな殺風景な光景の前に佇んで不覚にも視覚的に涼しさを感じてしまったのである。

コーヒーと音楽

「コーヒーと○○」という組み合わせ。相性の良さそうなものを○○に入れてみる。コーヒーと読書、コーヒーとケーキ、コーヒーと観葉植物、コーヒーとギャラリー、コーヒーと新聞……。いろいろあるうち、相性抜群なのはやっぱり「コーヒーと音楽」ではないか。漠然と音楽としておくのがいい。ジャンル次第では合う合わないがあるからだ。

十数年前までコーヒーに合いそうな――つまり、ぼくが合うと思う――CDを買い集めたことがある。French café Italian bar style Paradise Cafe というタイトルのアルバムが棚に並ぶ。カフェミュージックにはポピュラーな定番があるが、専門のラジオ局の選曲は十人十色。コーヒーやカフェとの相性には個性が色濃く出るようだ。


おびただしいカフェ向けの曲が存在する割には、パリのカフェやローマのバールでBGMを耳にした記憶がほとんどない。夜遅くに入店したサンミッシェルのダイニングカフェではロックがガンガンかかっていた。アルコールと軽食の店で客層もかなり若かったし、たぶん音楽が売りの一つだったようである。

しかし、あの店は例外ではないかと思えるほど、パリやローマでは店内で音楽がかからない。パリではテラス派が多いからBGMを流しても音響効果がない。ローマのバールはカウンターでの立ち飲みが普通だから、エスプレッソを注文して一気飲みして23分で立ち去る。音楽を聴くために立ち寄る人はいない。

ホテル向けのラウンジミュージックというコンセプトやラジオ局も存在するが、いくら思い出そうとしてもホテルでBGMが流れていた記憶はない。コーヒーと音楽は抜群に相性が良いなどと思うのも、コーヒーの種類や音楽のジャンルの嗜好性と同じで、個人的な好みに左右されるような気がする。

音楽がなくてもいいが、あればあったで気分は変化するだろうし、いくらかリラックスできると思う。コーヒーを啜りながら音楽を聴いたからと言って、考えごとがまとまったりアイデアが湧いたりするわけではないが、今朝もオフィスでワークミュージックという環境音楽ジャンルの静かなジャズを聴きながら、一杯飲んでいる。

本とコーヒー

一昨日書いた文中では「コーヒーと本」と書いた。今日は「本とコーヒー」と並びが変わった。たまたまそうなっただけで、特に意味はない。

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ハードワークが続いて少々疲れたとしても、陽射しを浴びながら歩けば移り変わる景色が、視覚から別の感覚に変化して身体の隅々に滲み込んでくる。その後に本とコーヒーがあれば言うことはない。もっとも今のような時期に陽射しを浴びるのは危険このうえないが……。

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『カフェの扉を開ける100の理由』という本がある。理由を100も付けられないし探せもしないが、たった一つでいいから理由はそのつどあるほうがいい。日常茶飯事だけれど、カフェの扉を開ける行為を無意識にしてはいけないと思うから。

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ブックカフェには業界なりのきちんとしたコンセプトがあるのを最近知った。

たくさんの本に囲まれ、カフェでゆっくりした時間を過ごす。(……)
「コーヒーを飲んでほっとする。落ち着いた空間で好きな本を読めたら……。」
「本好きな人が集まる場所で、本を中心としたコミュニケーションがとれたら……。」
ブックカフェは、そんな思いをかなえる空間であり、カフェと本屋が合体したお店のことです。
(西日本ブックカフェ協会)

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本とコーヒーは異種だが、見事に融合する。本とコーヒーが同じテーブルに並ぶひととき。死んでもいいとまでは思わないが、さらなる至福への強欲が一時的に抑制される。満たされることに謙虚になれる。

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オフィスに作ったブックカフェ風スペース“Spin_off”の一角。
本とコーヒーのための演出を凝らしたメルシー(パリ)。

最近オフィスにブックカフェ風のスペースを開設した。ここに収蔵した数千冊はほとんどがぼく個人所蔵の古本である。買った新刊書が経年で古くなったのが半分、古書店で買ってきた古本が半分。パリ滞在中に何度か足を運んだメルシーも古本カフェだった。

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珈琲色には古本が合う。十数人入ると満席になる程度の狭いスペースだが、正式に公開していないにもかかわらず、ちょくちょく来客がある。コーヒーはお出しできるが、喫茶専門店ではないしお代もいただかない。ここでは「本とコーヒー」は「本、よろしければコーヒー」という趣を演出している。