続・「カンタンな仕事」はタブー

次のようなスパムメールがぼくのところに来たが、他の人たちのアドレスにも届いているのだろうか。

「ほぼサルでもできる軽作業で副収入が月10万円~」

ここまでしかわからない。件名だけは見えるが、本文を開いていない。また、読む気もない。だから、その「ほぼサルでもできる軽作業」がいったい何なのかがわからない。しかし、この件名のコピーに関して言えることがある。すなわち、この件名コピーは挑発的でありながらも、一部の受信者たちに「いったいどんな軽作業なのか?」と思わせる訴求力を持っているのだ。それでも、ぼくは読まない。その代わり、このスパムでちょっと遊んでみることにした。

「ほぼサルでもできる」のなら、わざわざ人間のところに迷惑メールを送りつけることもないだろう。サルにお願いすればいい。そうすれば月に10万円の報酬を払わなくても、3万円くらいの餌代で済むではないか。だが、こんな難癖をつけようものなら、メールの送り主はニタリと笑ってこう続けるはずだ。「ちょっと待ってくださいよ。わたし、サルなんて断言していません。『ほぼサル』でして、『サル』ではないんです。」 

さらに耳を傾けるととんでもないことになる。「サルでも78割はできるんです。でもね、あとの23割はどんなに訓練してもダメ。だから『ほぼサルでもできる軽作業』なんですな。つまり、23割は人間の力が必要。ほんとうにカンタンな軽作業なんだけど、サルではやっぱりできないんですよ。だから、サルではないあなたの力が必要なんです。」


話は変わるが、「猫の手も借りたい」と言う。多忙な仕事があるのだが、人手が足りない。だから、猫の手でもいいからレンタルしたいということだろう。もちろん手だけをレンタルするという都合のいい話はないから、生きた猫をレンタルすることになる。「生き物にレンタルとは何たることだ」と叱られそうなので、「猫を雇う」と訂正しておこう。

「猫の手も借りたい」と嘆いている人にも「ほぼサル」メールが届いているかもしれない。大いにありうることだ。「ほぼサル」に失敬な! と怒りながら、一方でご自身は人間の仕事を猫の手で何とかしようと考えている。「猫の手も借りたい」というのも、ある意味で人間に失礼な話ではある。一般的にサルのほうが猫よりもIQが高いらしいので、猫の手を借りたい職場の仕事は、「ほぼサルの軽作業」よりもカンタンな超軽作業なのに違いない。

そこで妙案がある。軽作業であれ超軽作業であれ、いっそのこと思い切って人間をリストラしてみてはどうか。そして、猫とサルによる作業コラボレーションを実験してみるのである(「犬猿の仲」ではないから大丈夫だろう)。猫の手はだいぶ昔からニーズがあるようだから、あとは「ほぼサル軽作業」をサルができさえすれば、コラボは成功する。そうすると人件費はまったくいらなくなる。やがて世の中は、猫の手とサルだけでこなせるカンタンな仕事で溢れるようになる。

ちょっと待った! リストラには断固反対! こうおっしゃる方がいるかもしれない。それなら、さらなる妙案がある。人間と猫、人間とサルのワークシェアリングをすればいいのだ。この制度を採用すれば、バカにされそうな「カンタンな仕事」を「ほぼカンタンな仕事」にグレードアップすることもできる。

受注するにせよ発注するにせよ、カンタンな仕事にはタブーがつきまとう。

「カンタンな仕事」はタブー

会社を創業したのは198712月。オフィス探しと同時に、定款や登記の準備に追われたのが前月。すでに起業していた大学の後輩に税理士さんを紹介してもらった。さらに、その税理士さんが司法書士さんを紹介してくれた。 

何の書類か忘れたが、手書きの原稿か何かをその司法書士に渡して仕事を依頼した。「ちょっと急ぎなんで。すみません」と言うと、「いえいえ、ワープロに書式が入ってますから、事務所に帰ってパパッとすれば簡単です」と対応された。これには驚いた。これではまるで「はごろもフーズのパパッとライスこしひかり」と同じではないか!? いや、それよりも簡単な作業に聞こえた。そのときの「簡単」は、カタカナの「カンタン」と表記されるべき響きであった。

ぼくもその一人だが、弁舌や文章を生業とする人はこれを教訓にしなければならない。具体的なアドバイスを3箇条にまとめてみる。

1.めったなことで「カンタンです」と口に出してはいけない。たとえ依頼されたその仕事がカンタンであっても、一度は苦渋の表情を浮かべて見せるように。

2.要する時間を一日、いや数時間くらいかなと見積もっても、遠慮がちに「あの~、数日ほどいただいても大丈夫でしょうか?」と小声で尋ねること。つまり、相手に骨のある課題であるように感じてもらう。

3.オーケーが出て納期が決まったら、表情を笑みに変えて「満足していただけるよう頑張ってみます」と答える。

具体的なモノを扱わず、ノウハウと知識という、他者からは見えない資源を使い、これまたすぐに消えてしまう音声と、吹けば飛ぶよなペーパーを納品形態とする職業人が「カンタンな仕事です」と告白するのは自害にも等しいことを忘れてはいけない。

(続く)

過去は現在に選ばれる

塾生のT氏が、「過去と未来」についてブログに書いていた。この主張に同感したり異論を唱えたりする前に、まったく偶然なのだが、このテーマについてアメリカにいた先週と先々週、実はずっと考え続けていたのである。明日の夕刻の書評会で「哲学随想」の本を取り上げるのだが、これまた偶然なことに、その本にも「過去と未来、そして現実と仮想」というエッセイが収められている(この本は帰国途上の機中で読んだ)。

未来とは何かを考え始めるとアタマがすぐに降参してしまう。T氏のブログでは「未来は今の延長線上」になっているが、仮にそうだとしても、その延長線は一本とはかぎらない。未来は確定していないのだから(少なくともぼくはそういう考え方をする)、現在における選択によって決まってくるだろう。その選択のしかたというのは、それまでの生き方と異なる強引なものかもしれないし、過去から親しんできた、無難で「道なり的な」方法かもしれない。未来はよくわからない。だからこそ、人は今を生きていけるとも言える。

では、過去はどうだろうか。カリフォルニア滞在中に学生時代に打ち込んだ英語の独学の日々を再生していた。その思い出は、アメリカに関するおびただしい本やアメリカ人との会話を彷彿させた。もちろん何から何まで浮かんできたわけではない。過去として認識できる事柄はごくわずかな部分にすぎない。しかし、なぜあることに関しては過去の心象風景として思い浮かべ、それ以外のことを過去として扱わないのか。ぼくにとっての過去とは、実在した過去の総体なのではなく、現在のぼくが選んでいる部分的な過去なのである。


現在まで途切れずに継承してきた歴史や伝統が、過去に存在した歴史や伝統になっている。現在――その時々の時代――が選ばなかった歴史や伝統は、過去のリストから除外され知られざる存在になっている。別の例を見てみよう。自分の父母を十代前まで遡れば、2の十乗、すなわち1,024人の直系先祖が理論上存在したはずである。だが、ぼくたちは都合よく「一番出来のいい十代前の父や母」を祖先と見なす。ろくでなしがいたとしても、そっち方面の先祖は見て見ぬ振りしたり「いなかった」ことにする。自分を誰々の十代目だと身を明かす時、それは過去から千分の一を切り取ったものにすぎない。

過去の延長線上に現在があって、現在の延長線上に未来がある――たしかにそうなのだが、それはあくまでも時間概念上の解釈である。タイムマシンは無理かもしれないが、人は過去と現在と未来を同時に行き来して考えることはできる。生きてきた過去をすべて引きずって現在に至ったのかもしれないが、その現在から振り返るのは決してすべての過去ではない。現在が規定している「一部の過去」であり、場合によっては「都合のよい過去」かもしれない。

過去のうちのどの価値を認めて、今に取り込むか。どの過去を今の自分の拠り所にするのか――まさにこの選択こそが現在の生き方を反映するのに違いない。現在が過去を選ぶ。この考え方を敷衍していくと、未来が現在を選ぶとも言えるかもしれない。こんな明日にしたいと描くからこそ、今日の行動を選べているのではないか。いずれにしても、現在にあって選択の自由があることが幸せというものだろう。 

それでも差異はつくられる

「メニュー全品280円」を売りにする居酒屋がテレビで紹介されていた。ビールも一品料理もすべて280円という。この値段をどう見るか。誰も高いとは言うまい。ならば、安いかリーズナブルか? コストは、味という”パフォーマンス”によって人それぞれが感じるものだろう。

変えてはいけない(あるいは、変える必要がない)価値と、積極的に変えねばならない価値を見極めるのが商売の心得。料理店にとってはここが腕の見せ所だ。その店は今のところ繁盛している。その店では廃業したテナントが残していった什器や備品で使えるものはそのまま流用している。これが不変の価値。と同時に、何でも280円というのは、かつての百均革命に相当する、異端領域への踏み込みである。これが変化の価値。

「居酒屋は安くて旨ければそれでよし」と、満足げな常連たちが異口同音に評価しているらしい。家族で来ていたある主婦は「食べるために来ているのだから、雰囲気は関係ない」と、暗に雰囲気がイマイチであると匂わせながらも、この店のやり方に賛辞を送っていた。賑わっている、客の評価も良好、わかりやすくて安い価格……これら三拍子が揃えば、居酒屋は「形より中身」と結論づけてよいか。「旨ければ付加価値はいらない」を普遍的な公式にしてもよいのか。あいにくなことに、話はそんなに簡単ではない。


ノーと力強く叫ぶ自信はないが、さりとて手放しでイエスとも言い切れない。優柔不断だが、半分イエス、半分ノーである。半分イエスの根拠は「オール280円の低価格」と「過剰投資をしないインテリア」。この二つは一つのビジネスモデルになりうる。安くて旨いものに憧れる人間心理は、おそらく十中八九不変だろう。

しかしながら、半分ノーにも有力な根拠がある。この280円路線と低コスト内装を他の居酒屋がマネて「売りの目玉」にしはじめたとき、店選びは偶然に委ねられるのだろうか。いや、そうではない。先発・後発とは無関係に、店と店の間にまったく別の差異化ポイントが生まれることになる。安いだけではない何か、旨いだけではない何か、雰囲気以外の何かを求めて人々は店の選択を検討するようになるのだ。

人は飽きる。新しいもの、よりよいものを求めるのが人間の本性である。それゆえに市場価値は巡り巡る。売る人と買う人はいずれもよりすぐれた価値へと向かう。差異化の成功は「次なる淘汰試験」の始まりであり、片時も成功に安住することはできない。昨日の席次一番が、翌日落第の憂き目に遭うかもしれない。異質から同質へ、同質から異質へ……この繰り返しは終わりのない差異化競争を生む。そして、競争はますます熾烈になっている。

「10分進めています」

出張中は歩くことも少なく過食気味になる。今回は月曜日から金曜日までの45日。いつものように食べているとメタボを加速させる。と言うわけで、ホテルでの朝食ビュッフェはパスして、朝は野菜ジュース2杯だけでしのいでいる。今朝はコーヒーを求めて会場近くの喫茶店に寄った。ほとんどのお客さんがモーニングを食べている。モーニング付きもコーヒー単品も値段は同じ400円。トーストとゆで卵に触手が伸びかけたが耐えた。

喫茶店に入ると壁に掛かっている時計を何気なく見てしまう。万が一遅刻すると大変なので、普段以上に時刻に神経質になっている。今朝の店の時計は正確だった。腕時計と携帯の時刻表示も完全に一致していた。ふと同じような雰囲気の大阪のとある喫茶店のことを思い出す。その喫茶店もモーニング目当てのサラリーマンで朝が賑わう。

その喫茶店では時計の針を10分進めている。サラリーマンが遅刻してはいけないという配慮からである。だが、一見いちげんさんは、その時計を見て「あれっ?」と一瞬ドキリとし、慌てて自分の腕時計の「正確な(?)時刻」を確認することになる。そして、念のため「あの時計、時刻は合ってます?」と尋ね、「いえ、10分進んでいますよ」と聞いてホッとする。こうなると、わざわざ10分進めている理由がよくわからない。


別の喫茶店。時刻が正確かどうかを聞くお客さんが増えたのだろうか、その店では時計の下に貼紙がしてあった。なんと「10分進めてあります」と書いてあるのだ。これにはたまげた。とても不思議である。時計を進めた本来の目的が意味を成さなくなっているではないか。時刻を10分進めたのは、会社にせよ電車にせよ、お客さんが遅れないようにという意図だったはず。そこに注意書きがあって「10分進めています」と種明かしをしてしまったら、もはや「正確な時刻」を告げているのと同じである。

常連さんは時計が10分進んでいることをみんな知っている。だから誰も店の時計に目もくれない。つまり、常連さんにとっては時刻の狂いは想定内。ということは、一見さん向け? いや、一見さんに関しては先に書いたような反応を示すから、「お急ぎを」と促してもしかたがない。ぼくとしては、逆に時計を遅らせておき、「この時計は10分遅れています」と小さな貼紙に書いておくほうが、お客さんを慌てさせる効果があると思う。もちろん、正確な時刻の時計が一番であるが……。 

救いがたいほどの”センス”

先週の土曜日である。出張のため朝8時半頃最寄駅から地下鉄に乗った。マスク着用の乗客がちらほら見えるが、土曜日のせいか車内は空いている。ここ三年間職住接近生活をしているので、出張以外はあまり地下鉄に乗る機会はない。たまに乗れば混んでいるので車内の広告にまで目が届かない。その日はゆったり座って車内吊りポスターをじっくり品定めすることができた。

いったいどうしたんだ、大阪市交通局! 思わず内心そう叫び呆れ返った。シイタケとリンゴを擬人化したイラストが描かれた「座席の譲り合いマナー」を促すポスター。そこにはこんな見出しが書かれてあった。

互いに譲って うれシイタケ!
「どうぞ」の笑顔で すっきリンゴ!

これではまるで「おぼっちゃまくん」ではないか。「そんなバナナ」や「おはヨーグルト」を思い出した。いや、こんな言い方はおぼっちゃまくんには失礼だ。おぼっちゃまくんにはダジャレという売りのコンセプトがあった。譲り合いマナーになぜシイタケとリンゴなのか。必然性が見えないから、単なる思いつきのダジャレなのに違いない。一方がキノコで他方が果物というミスマッチも相当にひどい。

正確に言えば、こういう類いのことば遊びはダジャレとは少し違う。技としてはダジャレよりもうんと簡単で、一文字だけ合わせたら一丁上がりだ。これがオーケーなら、「うれシーラカンス」でもいいし「すっきリスザル」でもいい。要するに、「シ」と「リ」で始まる単語なら何だって成立してしまう。


シイタケとリンゴが大阪市の名産品なら理由もわかる。地下鉄のどこかの駅でシイタケとリンゴの物産展があるのなら、短期の季節キャンペーンだろうとうなずける。だが、そんな深慮遠謀はまったく感じられない。誰がどのような経緯でシイタケとリンゴという案に辿り着いたのか。ぼくの思いもよらぬ狙いがあったのならぜひ聞かせてもらいたいものである。

ポスターでここまで救いがたいほどのセンスを暴露しながら、車掌は「インフルエンザ予防のためにマナーとしてマスクを」と生真面目に車内放送していた。トーンが合っていない。そのポスターを見ながらマイク放送を聞いて、同一の発信源とはとても思えなかった。まあ、こんなことはどうでもいい。何よりも、財政難の折、一人前の大人にマナーを促すようなPR活動にお金を投じるのは即刻やめるべきだろう。

タブー命題を封印してはいけない

誰から教わったのか覚えていないが、青年期から「政治と宗教」の話はタブーだと心得てきた。けれども、親しい友人となら平気でテーマにするので、いつでもどこでも絶対禁忌きんきと見なされているわけではない。政治や宗教とは無関係な、いろんな人々が集まる場や会合では、話題にしたり言及したりしないほうがいい、暗黙のうちにそうなっているのだから……というわけだ。議論やお喋り好きにとっては、舌に軽はずみをさせぬよう言い聞かせておくべき「禁じられたテーマ」ではある。

つまり、政治と宗教の両方に関わらない人たちにとって、「何かの席上」で論じることがタブーとされている。ところが、議員が政治と無関係の人たちに「政治」を語ることはタブーではなく、また僧侶が宗教と無関係の人たちに「宗教」を語ることもタブーではない。政治家にとっては「宗教問題」だけがタブー、また宗教家にとっては「政治問題」だけがタブーになっている。なぜぼくたちは、いずれのテーマもタブーとして封印しなければならないのか。


十数年前、ディベートの論題を決める際に上記のことが問題になった。政治や宗教の論題はやめるほうがいいというのが多数であった。多数意見を前にすると俄然ノーを突きつけたくなるぼくだ。強く主張した。

「ディベートは『論争のシミュレーション』、誤解を恐れずに言えば、ある意味で『議論ごっこ』なのだから、目の色変えて本気になってもらっては困る。アメリカでは『堕胎の是非』や『黒人生徒への学校の開放』のようなテーマも取り上げていた。極論すれば、どんなテーマでもよいはずだ。」

誰に睨まれようと、今もこの考えに変わりはない。タブー性の高い命題を互いに了解したうえで、議論好きの親しい人間どうしが集まり、たとえ口論寸前の過激なムードになっても咎められることはないはず。それがオープンなディベート勉強会という形になって、何かの拍子で第三者や報道関係者に公開されることになったとしても、ぼくは「見えざる世論」に遠慮することはないと思っている。

政治と宗教のみならず、タブーとしていったん「禁」のラベルで封印されると、どんな話題も公然と論議のマナイタに載せにくい。腫れ物に触らぬよう扱われているうちに、やがて社会的良識から乖離して「治外法権」へと逃げていく。もとより論議という関与しかできないぼくたちにとって、治外法権という温床に鎮座する禁忌命題はまったく手に負えなくなってしまう。そしてよりも深刻なのは、健康、病気、身体的特徴などタブー命題コレクションがますます増えつつあるという事実なのだ。クールに凝視して取り上げ、時には怒りながら、時にはわらいながら、論うことを忘れてはいけない。


油断していると、タブーは日常茶飯事の領域にまで忍び寄ってくる。タブーを侮ってはいけない。人間はタブー発言を耳にすると結束する習性を備えているのだ。「マスクなんてしなくてもいい」とか「マスク求めてドラッグストアに並ぶ連中の気が知れない」とか「インフルエンザにかかったら罹ったでしかたがない」とか、ゆめゆめ公言してはならない。世論が一斉にある方向に向かっている時は流れに逆らわないのが賢明なのだ。そして、やがてこんな弱腰が「異様なほど生真面目でおもしろくない社会」をせっせと築いていくことになる。世界から「ニッポンの常識は世界の非常識」とまたまた揶揄される。ついさっき、ある英文ニュースで「日本は戦争中だ。敵は新型インフルエンザ」というのがあった。案の定だ。

オイルショック当時、トイレットペーパーを買い漁る連中をバカにしたら何十倍もの非難を浴びせられた。後年、誰が愚かであったか、いずれに理があったかが自明になった。「言うべきこと」と「言うべきでないこと」を現在進行形の渦中で判断するのはむずかしい。しかし、結果がどうであれ、何でも言っておくことがマイナスになるとは思えないのだが、この考えは危険なのだろうか。  

情報欲の皮が突っ張る

運よくうまいものに巡り合えた人間は、その運のよさに感謝して一品を心ゆくまで味わえば十分に満足できるはずである。ところが、人は運のよさのことを忘れてしまい、さらに多種大量を貪ってしまう。腹いっぱい、酒いっぱい、金いっぱい、遊びいっぱい……欲望は尽きることはない。

いつになったら、あるが上にも欲しがらないようになれるのか? ギャル曽根百人分の食欲と胃袋でも手に負えないほどの食糧を眼前に積み上げられたら、おそらく降参するに違いない。いや、もっと簡単な方法がある。いっそのこと身体を壊してしまえばいいのだ。壊れた身体の一部の欲の皮だけがもはや突っ張ることはあるまい。

食に関しては卑しいところが残っているが、昔に比べれば少しは節制できるようになってきた。酒や金や遊びはもうすっかり枯れた境地である。ただ一つ、欲の皮が突っ張ってしかたがない対象がある。そいつにだけは卑しくなったり貪ってはいけないと頭では重々承知しているし、他人にまでそのことを示唆しているにもかかわらず、それをついつい求めてしまう。それは、情報である。情報依存症になってはいけないと、自他ともに言い聞かせているくせに。


光る情報が欲しくなるのだ。この情報欲というのは一種のメンタルな病だろうと思う。資料はもう十分なのである。当初構想したものはちゃんと出来上がっているのである。もうストップすればいいはずなのだ。にもかかわらず、落ち着かない。一日に一つ、いや、週に一つでも二つでもいい、光る情報に接しないと不安になってくるのである。

ここまで自戒の念に苛まれなくてもいいのかもしれない。プラス思考で考えてみれば、あと一つの情報を欲張るのは、固定化しつつある知のネットワークに一条の光を照らすためだろう。くすぶっていた視界がパッと開けるような効能もあるに違いない。

しかも、大量の情報を求めているのではなく、きらりとした一点情報なのだから触媒としてはほどよいのではないか。それをゆっくり噛みしめればゆゆしき問題ではない。と、ここまで書いてきたら、冒頭の文章につながってくるではないか。わかっているつもりのことなのに、どこでどう狂って貪欲への一線を越えてしまっているのだろうか。しかし、わかった。

「ユーレカ!」と叫んで、裸で風呂から飛び出すほどの大した悟りではない。要するに、あと一つの情報を楽しく求めてみて、なければないで情報探索を潔く切り上げて自力思考にシフトすればいい。そんな環境を作るのはさしてむずかしくはない。書物や辞書やインターネットをしばし遠ざければ済む話である。

「わかる」ということが、実は「よくわからない」

「クラシック音楽はわからないから、つまらない」。たしか先週だと思う、つけっ放しのテレビからこんな音声が聞こえてきた。小学生のつぶやきだった。わからないから、つまらない……なるほど、そうだろうなと暗黙のうちに同意していた。

ところが、ぼくは大人である。「わからないからつまらない」と簡単に物事を片付けるわけにはいかない。大人だからもう一歩踏み込んでみなければならぬ。そこで自問してみた。わかれば楽しくなるのだろうか? 「クラシック音楽はわからないけれど、なんだか楽しい」は成り立たないのだろうか? そもそも「わかる」とはどういうことで、「わからない」とは何を意味しているのだろうか?

自宅の本棚に目をやって、しばし何段か追ってみたら、「わかる」をテーマにした本で以前ざっと読んだのが4冊並んでいる。ずばり『「わかる」とは何か』、その隣に『「わからない」という方法』、そして『「わかる」技術』に『わかったつもり』だ。よくもまあ、うまく揃っていたものである。これらの本の目次はほとんど覚えていないし再読したわけでもないので、どんな切り口で書かれているのか知る由もない。


それにしても、考えれば考えるほど、「わかる」が結構むずかしいテーマであることに気づく。「クラシック音楽はわからないから、つまらない」と言った小学生の男の子に一度は共感したが、ちょっと待てよ、音楽というものは、それがクラシックであれ童謡であれジャズであれ演歌であれ、鑑賞すればいいわけで、わからなくても問題ないのではないか。もし「わかる」が「理解する」という意味ならば、それこそそんな論理的了解の必要などさらさらないはずだ。

音楽がわかることと算数がわかることは、たぶん違う。算数で問題が解けたり道すじが見えたりするのと、鑑賞者として音楽がわかるのとは根本的に違うはずである。音楽鑑賞や美術鑑賞に際して、詳しい知識を身につけているからといって「わかる」ようにはならない。たしかに「わからない」よりも「わかる」ほうがいいに決まっている。だからと言って、芸術鑑賞において「わからなければならない」必要性やノルマなど一切ない。「こんなもの、わかるってたまるか!」という反発や居直りさえあってもいい。


もしかして学校教育は「わかる」ことを当然のように前提にして成り立っているのではないか。どんなことにも答えがあって、その答えを見つけたら「わかった」と見なし、答えが見つからなかったら「わかっていない」と判定を下す。こんな調子で、「わからないことはつまらないこと」と決めつけるような空気を充満させて、つまらない教育を膨らませているのではないか。

「わかる」の対極に「わからない」があって、その二つの状態しかないのであれば、まるでON/OFFのデジタル処理みたいではないか。そんなバカな話はない。「わかる」にはいろんな程度の「わかる」があり、「わからない」にもいろんな程度の「わからない」がある。人によって度合が異なるものなのだ。「それなりにわかる」という、きわめてファジーな了解の仕方すらある。「わかる」と「よくわかる」の差が、実はよく「わからない」のである。

もしあることについて「完全にわかる」ことがありえないのだとしたら、ぼくたちはたぶんすべてのことについて「あまりよくわからない」状態に置かれているに違いない。そして、たいせつなことは、あまりよくわからないからつまらないなどと刷り込みをさせず、むしろ、あまりよくわからないからこそ楽しいのだという方向へ子どもを導くことだろう。

今日の話、わかったようでよくわからないという印象をお持ちになったのであれば、お詫び申し上げる。

情報を選び伝えるマナー

定期的であるはずもないが、時折り思い出したかのように書きたくなるテーマがある。「なくてもいい情報」の話である。昨年のにも書いたのを覚えていて、さっき読み返してみた。変な話が、自分で書いておきながら大いに共感した次第。先週、同じような体験をした。饒舌な情報に対するぼくの批判精神は相変わらず健在である。

先週の金曜日、出張先は高松。新大阪発ひかりレールスターに乗車予定。すでにホームには列車が入っており、各車の扉付近に清掃中の表示がかかっている。待つこと数分。ホームにアナウンスが流れる。

「折り返し運転のための清掃が終わりました。」

この後にもいろいろプラスアルファの情報が耳に届いた。「清掃が終わった」という情報にひねくれてはいない。それはオーケーだ。「待たせた」と「まもなくドアが開く」という情報もあった。いずれもなくてもいいが、まあ問題ない。要するに、「清掃が終わった、待たせてすまなかった、すぐにドアを開ける」という案内はぼくには不要だが、他の誰かのためにはあっても悪くはないだろうと思う。

だが、「折り返し運転のための」は必要不可欠か。清掃して車庫に直行するわけがない。新しい乗客を乗せて運転するのだから清掃していたわけだろう。だいいち、その列車が博多から新大阪にやって来て、しばしのクールダウンと清掃の後に博多へ折り返していくという情報を乗客に伝えることに何の意味もない。これは駅員どうしの確認で済ますべき話だ。このアナウンスと同時にホームにやって来た乗客には、「折り返し運転のための」と聞いて、何事かあったのかと怪訝に思う人がいるかもしれない。


この種のメッセージをぼくは「目的内蔵型報告文」と勝手に名づけている。要するに目的部分は自分に言い聞かせる確認情報なのである。「腹を満たすためのランチに行く」と同様に、「折り返し運転のための清掃が終わりました」も冗長である。「書くための水性ボールペンを貸してください」も「頭を鍛えるための脳トレーニング」も目的部の情報は不要である。

「まわりのお客さまの迷惑となりますので、携帯電話はマナーモードに設定したうえ、通話はデッキでお願いします」などを字句通りに外国語に翻訳できないことはない。だが、ほとんどの国ではそんな言わずもがなのことを言わないのだ。「通話はデッキで」くらいは言ってもいいかもしれない。だが、座っている席で通話すると他人の迷惑になるというのは、余計なお節介、いや「オトナの幼児的扱い」にほかならない。

よきマナーへの注意を呼びかけるアナウンスにも、最低限のマナーが求められる。必要な情報を選択してきっちりと伝えきるマナーだ。最近、アナウンスが流れない4号車両「サイレンスカー」が消えたらしい。アナウンスがないために不安になる乗客が多く不評だったのか。こうなると、鉄道会社の饒舌な情報発信を一方的に咎めることもできない。責任の一端は乗客の情報依存症にあるようだ。