タブー命題を封印してはいけない

誰から教わったのか覚えていないが、青年期から「政治と宗教」の話はタブーだと心得てきた。けれども、親しい友人となら平気でテーマにするので、いつでもどこでも絶対禁忌きんきと見なされているわけではない。政治や宗教とは無関係な、いろんな人々が集まる場や会合では、話題にしたり言及したりしないほうがいい、暗黙のうちにそうなっているのだから……というわけだ。議論やお喋り好きにとっては、舌に軽はずみをさせぬよう言い聞かせておくべき「禁じられたテーマ」ではある。

つまり、政治と宗教の両方に関わらない人たちにとって、「何かの席上」で論じることがタブーとされている。ところが、議員が政治と無関係の人たちに「政治」を語ることはタブーではなく、また僧侶が宗教と無関係の人たちに「宗教」を語ることもタブーではない。政治家にとっては「宗教問題」だけがタブー、また宗教家にとっては「政治問題」だけがタブーになっている。なぜぼくたちは、いずれのテーマもタブーとして封印しなければならないのか。


十数年前、ディベートの論題を決める際に上記のことが問題になった。政治や宗教の論題はやめるほうがいいというのが多数であった。多数意見を前にすると俄然ノーを突きつけたくなるぼくだ。強く主張した。

「ディベートは『論争のシミュレーション』、誤解を恐れずに言えば、ある意味で『議論ごっこ』なのだから、目の色変えて本気になってもらっては困る。アメリカでは『堕胎の是非』や『黒人生徒への学校の開放』のようなテーマも取り上げていた。極論すれば、どんなテーマでもよいはずだ。」

誰に睨まれようと、今もこの考えに変わりはない。タブー性の高い命題を互いに了解したうえで、議論好きの親しい人間どうしが集まり、たとえ口論寸前の過激なムードになっても咎められることはないはず。それがオープンなディベート勉強会という形になって、何かの拍子で第三者や報道関係者に公開されることになったとしても、ぼくは「見えざる世論」に遠慮することはないと思っている。

政治と宗教のみならず、タブーとしていったん「禁」のラベルで封印されると、どんな話題も公然と論議のマナイタに載せにくい。腫れ物に触らぬよう扱われているうちに、やがて社会的良識から乖離して「治外法権」へと逃げていく。もとより論議という関与しかできないぼくたちにとって、治外法権という温床に鎮座する禁忌命題はまったく手に負えなくなってしまう。そしてよりも深刻なのは、健康、病気、身体的特徴などタブー命題コレクションがますます増えつつあるという事実なのだ。クールに凝視して取り上げ、時には怒りながら、時にはわらいながら、論うことを忘れてはいけない。


油断していると、タブーは日常茶飯事の領域にまで忍び寄ってくる。タブーを侮ってはいけない。人間はタブー発言を耳にすると結束する習性を備えているのだ。「マスクなんてしなくてもいい」とか「マスク求めてドラッグストアに並ぶ連中の気が知れない」とか「インフルエンザにかかったら罹ったでしかたがない」とか、ゆめゆめ公言してはならない。世論が一斉にある方向に向かっている時は流れに逆らわないのが賢明なのだ。そして、やがてこんな弱腰が「異様なほど生真面目でおもしろくない社会」をせっせと築いていくことになる。世界から「ニッポンの常識は世界の非常識」とまたまた揶揄される。ついさっき、ある英文ニュースで「日本は戦争中だ。敵は新型インフルエンザ」というのがあった。案の定だ。

オイルショック当時、トイレットペーパーを買い漁る連中をバカにしたら何十倍もの非難を浴びせられた。後年、誰が愚かであったか、いずれに理があったかが自明になった。「言うべきこと」と「言うべきでないこと」を現在進行形の渦中で判断するのはむずかしい。しかし、結果がどうであれ、何でも言っておくことがマイナスになるとは思えないのだが、この考えは危険なのだろうか。