音声か、文字か?


部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」
部長「いつわかったんだ?」
部下「昨日の夕方です」
部長「なぜもっと早く言わないんだ⁉」
部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです

上記のやりとりはジョークだ。しかし、文字面を見るだけではジョークだとわからない。文字ではこのおもしろさを仕込めないのである。

「なぜもっと早く言わないんだ⁉」と注意された部下は、「早く」を話すスピードと勘違いし、最初に告げた「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」を、今度は早口で繰り返した。文字では下線部のせりふを早口で言ったことまで表現できない。

「ほら、やっぱりね。文字で表わせることには限界があるんだ。ぼくたちは生まれた時から、ことばをまず音声として聞き、そして音声を真似て発話する。文字はもっと先になってから学習する。つまり、音声あっての文字なんだ。落語を文字で読んでもおかしくも何ともない」……こんなことを言う人もいる。

なるほど……と思わないわけではないが、音声が文字よりも優位ということにはならない。昔の回覧板も今の電子メールも、メッセージは文字で伝えられる。留守電というのもあるが、聞きづらいし聞き間違いもよくある。音声だと「今週と今秋」の違いが出せない。精度を期するなら文字なのだ。

やっぱり文字を優先すべきなのか。いやいや、そうではない。タイトルを「音声か、文字か?」という二者択一で書いたが、ことばの伝達精度を高めようとすれば、「音声も文字も」と欲張らねばならない(もし可能なら、ここに絵や写真も加えたい)。

音声と文字で伝えてもらって腑に落ちる。但し、声に出しても文字で読んでも仕掛けがすっとわかるとはかぎらないこともある。仕掛けがわかっておもしろいと感じたものの不思議な異化感覚に包まれることもある。次の「段駄羅だんだら遊び」などはその典型である。