「偶察」をめぐって

 偶察ぐうさつ? 耳慣れないことばだなあ。観察と何が違うのか?

 「人々の暮らしを観察する」と言う時、客観的に見えるかどうかはさておき、観察とは、物事の状態や変化を注意深く見ることだろう。仏教では観察を「かんざつ」と読み、智慧によって対象を正しく見極めることを意味する。もっとも何が正しくて何が正しくないかはよくわからないが……。

 

これに対して、偶察とは、読んで字のごとく、「偶然に察知すること」。近年話題になっている「セレンディピティ」の超訳。偶然の産物とか、たまたま幸運を手に入れる能力とか……。観察を客観的または常識的だとすれば、偶察には常識の縛りやルールを排除する特徴がある。

 偶然頼みの観察のように聞こえるけれど、はたして確実性の低い偶然に期待していいものだろうか。

 澤泉重一が著した『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』から一節を紹介しよう。

「これまでにやったことがないからダメだ」という規制力は、自己の内部からも、他人からも、常時働いていると言ってよいが、偶然が強く作用するときには、この規制力が弱まることがある。こんなときこそ、セレンディピティが成果を上げるときであり(……)

 これまで気づかなかったことに気づく。見えなかったものが見えてくる。いや、見えざるを見ると言うべきか。透視術を身につけたわけではないのに、なぜ?

 セレンディピティは超能力ではない。いくら頑張っても見えないものはある。他方、わずかに見えているものから見えないものを見透かすこともできる。想像や仮想というのはそういう働きにほかならない。

馬の脚が4本だと知っているので、2本しか見えてなくても馬だとわかる。これも見えざるを見る。モノAとモノBを見ていて、そこにはない、これまで見たことのないモノCを発見する。これも見えざるを見る。後者が偶察で、新しい着眼につながる可能性を秘めている。

なお、未知のことを既知に照らし合わせて理解しようとする時、既存のパラダイムに縛られることになる。未知に遭遇するたびに既知の一部を自壊させるリスクを冒さないと、セレンディピティは生まれない。

 こうして聞いていると、何だか「万に一つ」のような話に思えてくる。いつでも誰にでも起こることじゃないよな。

 実を言うと、誰もが日々目新しいアイデアを生み出している。頭の中では無尽蔵に浮かんでいる。しかし、分別をわきまえた成人は、常識や不可能というフィルターをかけて「関係なさそうなもの」や「役立ちそういないもの」を無意識のうちに捨ててしまっている。セレンディピティの恩恵に浴するためには、常識的に見捨ててしかるべきことを見捨てずに残しておいて気にとめないといけないのだよ。