「見当をつける」という知の働き

「さっぱり見当がつかないので、やってみるしかない」という決意を耳にする。一か八かのようでもあり、決死の覚悟のようでもある。負け戦になってもやむなしという諦めも前提にありそうだ。見当がつかないことを「イメージが湧かない」と言い換えることができる。状況不明、方位方角不明、どんな結末になるかもわからない。「どう転ぶかわからないが、できるだけ頑張ろう」という、一見頼もしそうな心理に危うさを感じる。時間に急かされてやむをえずそうなってしまったのか、状況判断のしようがないのでやるしかなくなってしまったのか。いずれにしても、あまり歓迎したくない切迫感が張り詰める。

見当とはいろんな材料によっておおよその方向性や好ましい結果に向けての判断をおこなうことだ。ここで重要なのは、いろんな材料をわざわざ集めるのではなく、日頃から身につけてきた知識を生かすという点である。そうでなければ「見当をつける」ことにならない。テーマが与えられてから情報を収集し分析して、しかるべき結果やソリューションを導くことを見当をつけるとは言わない。その作業は見当がつかなかった者が選ばざるをえない苦肉の次善策にほかならない。

ありとあらゆる材料を集めて、それらの総和によって正解への方向性が見えてくるのではない。たとえば、「急いては事を仕損じる」という諺を命題に見立ててみるとき、手に入るだけの証拠を集め考えうるかぎりの論拠を編み出して真偽や是非を論じても答が浮かび上がってこない。むしろ、おびただしい証拠と論拠によって真偽・是非が拮抗して判断がつかなくなり、茫然と立ちつくしてしまう結果となる。状況の把握ができなくなる、こういう事態は「見当識失調」と呼ばれる。ちなみに「急いては事を仕損じる」という命題に対するぼくの見当は「非」である。下手な遅疑よりは何かにつけてまず急いでみることが寛容だと思っている。この見当の次に、現実的な是非の吟味をおこなうことになる。


微妙な表現遣いで恐縮だが、「見当がつく」と「見当をつける」は違う。見当がつくときは、あらかじめ仕事や命題そのものに判断材料が備わっている。その場合は、誰にとっても見当がつくわけで、特別な誰かを必要とするわけではない。つまり、「次の一手」は自明である。ところが、見当をつけるほうは、自分の知とイメージを進んで働かせるという意味だ。人によって次の一手が変わる。それゆえに、たとえば将棋のプロはぼくのようなアマチュアよりも状況の読みが深く、かつ蓄えてきた手筋や定跡の知と想定イメージが質量ともに膨大だから、高い確率で最善の手の見当をつけることができるのだ。

情報が簡単に集まるようになった現在、ぼくたちは能率のよい時代に生きている。しかし、この能率性が曲者だ。いつでも材料が集まるとなれば、ふだんの品定めがおろそかになるし目配りや取り込みの真剣みが甘くなる。実際、企画の指導をしていると、テーマの見当をまったくつけることなく、テーマに関連する情報をやみくもに集めることを作業の出発点にしてしまう人たちばかりである。絵具と筆とスケッチ帳を用意しても、主題の見当をつけなければ絵は描けない。筆に随って文章を書くことを随筆と言うが、筆のおもむくまま小文を綴ることなど不可能で、実際は体験や見聞の題材の見当をつけてから書き始めるものだ。

見当をつけることを別の言い方をすれば、予想する、推測する、想像するなどになる。さらに軽く言えば、大体の方向性の察しをつけるということだ。この知の働きなくしては、どんなに質のいい情報をどれだけ多く手元に置いても、仕事は遅々として進展しない。情報の選別や分析をしたり組み合わせたりして答が見つかるのではなく、答らしきものの見当をつけておかねばどうにもならない。もちろん、見当をつけた方向性に答が見つかる保証はないが、そうする者はそうしない者よりも直観やひらめきのトレーニングを積んでいることになる。 

できる人の想像力

まだ一ヵ月ほど先の仕事だが、二部構成の講演がある。第一部と第二部の講師は別、というのが通常だが、どちらもぼくが担当する。第一部がプロフェッショナル論で、第二部がマーケティング論。同一講師が別のテーマを語るケースは少ないが、これがぼくの馴染んだ欲張りパターンだ。聞く方も話す方も一テーマ4時間よりは二つのテーマを各2時間のほうが集中しやすい。別にテーマ領域の広さを自慢しているわけではない。一見異なった二つのテーマには共通のコンセプトや考え方が横たわっているものである。同日ゆえ学習の相乗効果も高い。何よりも、同額報酬で二本立てだからお得だ。

第一部のプロフェッショナル論については、ここ数年、仕事の作法やプロの仕事術、あるいは発想の達人などの名称で講演と研修をしてきた。動機はいたって素朴だ。その道の専門家はどのようにして一人前になっていくのか、ひいてはどのように学べばそのようになれるのか、その学び方にぼくごときが少しでも関与して自己訓練を手伝えないかという思いがある。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見て感心することが多いが、特に番組に大きく影響を受けた結果ではない。

当然のことながら、仕事ごとにプロフェッショナルの極意や流儀は異なる。これまでに同番組が取り上げた専門家で言えば、たとえばマグロの仲買人と遭難救援隊員とでは技も道も精神も大いに違っている。おそらく一人前になるのに要する歳月も長短あるだろう。にもかかわらず、プロフェッショナルの誰もが等しく達している境地を窺い知ることはできる。共通の感覚や精神や頭脳の働きなどが一つの型として浮かび上がってくるのだ。いろんなプロフェッショナルと出会い観察し雑多に本も読んだ。そして未だ行く手に険しい道があることを自覚しつつも、少しずつ成長している自分自身の体験をもなぞっているうちに、数年前から「鍵を握っているのは想像力だ」という確信を得るようになった。


「いやいや、年季や経験や場数こそがものを言うのではないのか」という異論が立つかもしれない。しかし、よく考えてみれば、その類が高度な専門性の証になるとはかぎらない。天与の才を論うとキリがないから、同等の能力でその道に入った二人を仮定しよう。同年数で同経験を重ね同じ場数を踏んだとしても、そこにプロフェッショナル度の差が出るのはなぜか。固有の経験は、確実な積み重ねであるだけに基礎固めに力を貸すが、他方、偏ることもあるし融通性を欠くこともある。経験が未知の領域で応用力を発揮するためには、基礎的な技術が想像力と出合わねばならないだろう。

ここまでかたくなに難しく考えなくてもいい。ぼくたちは、その人のキャリアによって専門家や名人を感じることは少ないのだ。いたずらにキャリアだけを積みながら、プロフェッショナルからは程遠い凡俗はいくらでもいる。協力会社の新人が何度もミスを重ねるので一言、二言意見したら、「今後は御社にはベテランを起用しますのでご容赦ください」と謝罪されたとしよう。それであなたは諸手を挙げて小躍りするか。否である。そのベテランが「できる人」という信憑性は、年季と経験によるだけでは確約されない。

ぼくの知るプロフェッショナルたちは、決して経験に安住しないし、技量そのものにもこだわらない。彼らはほぼ共通して機転が働く。みんなよく先を読んでいる。先を読むが、ありとあらゆるシミュレーションを立てるわけではない。そんなムダをするのはアマチュアだ。プロフェッショナルは暗黙知によって要所だけを読む。結果の両極を読み、その間に起りうる状況をつぶさに想定せずとも、ものの見事に対応してみせる。それこそ想像力の手並みなのだ。プロフェッショナルはつねに期待される以上の成果を生み出す。その能力の拠り所を信念や使命感ととらえてもいいが、もっとも具体的でぼくたちが自己研鑽できそうなのが想像力だと思うのである。 

“アイディケーション”という方法

一週間ほど前のブログで対話について少し嘆いてみた。セピア色した弁論スピーチやアジテーションはあるが、対話がない。お気軽なチャットはあるが、対話がない。一方的な報告・連絡は絶えないが、意見を交わす対話がない。会議での議論? ファシリテーターの努力も空しく、だんまりを決めこむ出席者。あるいは、喋れば喋るで喧嘩腰になり、一触即発の人格攻撃の応酬のみ華々しくて、そこに冷静で穏やかでウィットのきいた対話はない。対談集を読んでも、波長合わせの同調中心で、挑発的な知的論争を楽しめる書物にめったに出くわさない。

対話がないと嘆きはするが、日々の隅々の時間を対話三昧で埋め尽くしたいと願っているのではない。少しは対話のシーンがないものだろうかとねだっている次第である。「こんな理不尽なことがあって、とてもけしからん」とか「誰々がこんな話をしたので、おかしいと思った」とか。この類を意見と呼ぶわけにはいかない。事実や経験を左から右へと流して文句を言っているにすぎないのだ。だから、こんな連中の話を聞くたびに、ぼくはちょっぴり意地悪くこうたずねる、「で、あなたの考えは?」と。

ほとんど返答がなく無言である。考えに近い意見を聞けたとしても、「で、なぜそう思うのか?」とさらに理由を問うと、たいていは沈黙するかお茶を濁すようなつぶやきで終わってしまう。良識ある人々はコミュニケーションの重要性をつねに説くが、いったい彼らの言うコミュニケーションとは何だろうか。空理空言をいくら大量に交わしても何事も共有などできない。ラテン語の起源をひも解けば、コミュニケーションには「交通可能性」という意味があり、ひいては意味の共有を目指すもの。”communication“の”com”はラテン語では「公共の」「共通の」「一緒の」などを示す接頭辞。共同体コミュニティや会社・仲間カンパニーなどの英単語も”com-“で始まり、そうしたニュアンスを内包している。


お互いが触発されアイデアを交わす対話を〈アイディケーション(idecation)〉と名付けてみた。アイデアを創成するという意味の〈アイディエーション(ideation)〉と〈コミュニケーション(communication)〉の合成語である。「アイディケーションしようか」と持ち掛ければ、それは単なるお喋りではなく、また儀礼的な辻褄合わせの会話でもなく、事実も意見も論拠も示し、しかもとっておきのアイデアで互いの発想をも誘発していく対話を試みようということになる。

先週久しぶりにプラトンの『プロタゴラス』を再読した。一方的な弁論を巧みにおこなうプロタゴラスに対して、お互いの言い分や問いを短く区切って対話をしようではないかと異議を申し立てたのがソクラテスだ。二千数百年前の古代ギリシアで弁論術の指導を生業としていたプロタゴラスは、将来国家の要人となるべく勉学に励む若者たちにとってはカリスマ的ソフィストであった。同書の前段を読むと、彼がいかにマイペースの弁論術を心得ていたかが手に取るように伝わってくる。

しかし、その彼にあっても、ソクラテスに執拗に一問一答的に質問をたたみかけられるとたじろいでいくのである。そう、誰も口を挟まず、また誰も「ちょっと待った、聞きたいことがある」と問わない状況にあれば、いくらでも弁論に磨きをかけることはできる。一人のカリスマが大衆や取り巻きのファンを酔いしれさせて説得するくらい朝飯前なのである。だが、他者からの問いや意見が加わる対話という方法に置き換わった瞬間、論説の基軸が揺さぶられる。弁論術で飯を食う人間には死活問題になるが、ぼくたちにとってはそれが「気付かざるを考える格好の機会」になってくれるだろう。狭い料簡で反論に腐っている場合ではない。

スイッチが入ったような書き方になってしまった。アイディケーションのような方法は古臭くて面倒なのだろうか。もっと軽やかな、ささやくようなツイッターのほうが時代にマッチしているのだろうか。

「休まない」という生き方

もしかすると近い将来に中国人が食べ尽くしてしまうかもしれないと危惧されるマグロ。中国での日本食ブームが火を付ける格好になり、日本人の専売特許であった海の食材の「蜜の味」を彼らが覚えてしまった。今後も需要が膨らみ続けると見込まれる。苦節三十余年の養殖技術が実り、養殖の可能性が高まってきたとはいえ、孵化してから40日間生存するのは千匹に一匹という。ビジネスベースに乗るにはまだ何年もかかるのだろう。マグロを好物とする人たちにとって深刻な事態であるに違いない。

マグロの通には耐え難いことかもしれないが、マグロが食べられなくなると困るか? と問われれば、ぼくの場合は別段困らない。ちょっと残念ではあるけれど、しかたがないと諦めて代わりの食材へと触手を伸ばせばいいと思う。ちなみに、捕鯨に関しても論争に値するテーマではあると認識しているが、ことぼくに関して言えば、別に食べなくてもいい。鯨のベーコンやハリハリ鍋をずいぶん食したが、なければないでかまわないし、かれこれ5、6年口にしていないから常食からは程遠い。繰り返すが、わが国の調査捕鯨の是非や鯨肉文化の話は、また別の問題である。

話をマグロに戻す。天然マグロの平均寿命は40年らしい。広い世界の海のどこかで、人間のアラフォーよりも年上のマグロが泳いでいるのである。卵や稚魚の時期にほとんど死ぬので、正しく平均寿命を計算すれば40年になるはずはない。無事に成魚になって人間にも捕獲されなければという仮定での平均寿命だろう。この40年という数字に驚いたが、もっと驚いたのが「マグロは一生休まない」という事実である。なんとマグロは生涯ずっと泳ぎ続けるのである。口を閉じると窒息するので、口を開けておくためにはただひたすら泳ぎ続けるしかないのだそうだ。


世間には一年365日働き続ける人がいる。マグロのように不眠不休という意味ではなく、敢えて言えば「少眠無休」のような生き方。ぼくの周囲にはいない。夜更かしをして朝遅くまで熟睡し、平日の勤務時間に接待と称してゴルフに明け暮れる人は何人かいる。毎日が日曜日のように見えなくもないが、マグロ的生き方とは正反対だ。思うに、まったく休まないのも休みすぎるのも難しい。創業時の一、二年間、ぼくも休日をほとんど返上してよく働いたが、その時期を勤勉の日々だったとは思わない。得意先とのパイプも太くなり仕事も増えていくばくかの蓄財もできたが、失ったものも多かった。

マグロに生まれなくてよかったと安堵しても、マグロであったら「休みたい」などとは思わないだろう。一生懸命に口を開けて猟師の魔手から逃れるべく泳ぎ続けるに違いない。こう考えると、環境と生物の生き様には運命的なものを感じざるをえない。ぼくたち人間も、厳密に言えば、マグロのように行動と生命が直結する生態系に置かれているはずである。しかし、そこに「絶対に口を閉じてはいけない」というような単純な定めはない。ある程度、仕事に関しても休みに関してもぼくたち自身の裁量に委ねることができる。そうならない時、過労死や欝や自殺の問題が出てくる。

サラリーマン時代、休み明けの月曜日はとても重苦しかった。〈月曜日の憂鬱マンデーブルー〉が世界の労働者共通の心理的記号のように思えた。土曜日や日曜日にしっかり休めるようにと、当該週はがむしゃらに働く。金曜日などいつも終電という人たちが未だに大勢いる。彼らにハッピーマンデーが授けられ、大手企業のサラリーマンや行政職員は年に4回、連続3日間休暇を取れるようになった。しかし、気がつけば「火曜日の憂鬱」が待っていた。休みとは不思議なもので、どこかで労働を悪と位置づけないと成り立たないような気がしてくる。

「休まないという生き方」を批判するためには、「休むという生き方」の理論武装が必要だ。肉体か精神かはわからないが、ぼくたちは何のために休むのかをもう一度考えてみるべきだろう。「休ま・ない」には意志があって愚痴がなく、「休め・ない」には愚痴があって意志がない。身体と精神の両方を緩めながらも、仕事への視線は休まないという生き方が最近やっとできるようになってきた。ちょっと遅きに失したか。  

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

取ることと捨てること

取り上げて用い、捨ててしまって用いない。今さらながらというテーマなのだが、これがなかなか奥深い。「取捨」は選択や択一という表現を随えて四字熟語にもなる。情報編集や企画の仕事にはきまってつきまとう作業である。取るか捨てるかのどちらに頭を悩ますかは人それぞれ。適当に取り適当に捨てるならば、取るのも捨てるのも気楽である。だが、最終段階で何かを取り別の何かを捨てるとなると、取捨の対象を絞る勇断が要求され、この作業は途端にきつくなる。

だいぶニュアンスは違ってくるが、捨てるを“give”の変形だと考えると、取捨は(順番を変えると)“give and take”に通じなくもない。徳の教えによるとギブのほうがむずかしいようである。これまたニュアンスは変わるが、取捨を「保存と処分」としてみれば、大掃除や引っ越しの際の処分へのためらいを思い起こす。取捨選択をしているつもりが、気がつけば何も捨てられなくなっている自分に気づく。捨てようと思ったら、精細な選別などしていてはいけないのかもしれない。

ぼくの場合も同様だ。「2日研修のカリキュラムを1日用にアレンジしてほしい」という要望が時折りある。2日が1日になるから当然報酬は半分になる。依頼する側も2日間のネタを半分に削るのだから朝飯前だと思っている。どっこいそうはいかないのだ。1日研修を2日研修に「希釈したり間延びさせたり」するほうがうんと楽なのである。いや、ぼくが水増しをするということではないが、一般論としてダウンサイズ化は高度な技量と大きなエネルギーを要する。ちょうど真空管からトランジスタ、トランジスタからIC、ICからLSIへとハイテクが進んだように。


ぼく自身にまつわるエピソードをもう一つ紹介しておく。これは2日を1日ではなく、1日内の時間短縮。実施していたのは1日7時間の研修で、この報酬の指数を10としておく。翌年、同じ内容のテーマでタイムテーブルを午後からの3時間半に設定したいとの申し出があった。そして、報酬も半額でお願いしたいと言うのである。ぼくだって講師歴30年以上のプロの端くれ。時給ベースだけで評価されては困る。なにしろ新幹線を使わねばならない遠方なのである。しかも、講義を計算づくめで縮減するには少なくとも一両日はかかる。捨てる編集は単純引き算などではない。行き帰りも含めて一日を要するという意味では、報酬は7でも8でもなく10に値する。「知の売人」に成り下がらないための必死の抵抗と言えば、ちょっと構え過ぎるか。 

学ぶ側からの話。「取る」を「学習」になぞらえると、「捨てる」のほうは「離学」または「脱学」と呼べるだろう。実際、ぼくは何十年も前から脱学という造語を使ってきた。もっとも簡単なのが「不学」。まったく学ばないことである。無学とは少し違う。無学は不学の結果、陥ってしまった状態だ。これに比べれば学習は辛抱を要する。「勉学」という用語などはそれを如実に表している。しかし、である。学びには何がしかの偏見が含まれているもので、組み合わせによっては性悪な固定観念につながる。だから時々「異型性知識」を切除するメンテナンスが必要なのだ。これが脱学で、一番むずかしい。

ちなみに、学習は知識の習得を目指す。習得とは固定化のことなので、すべての学習はある種の固定観念形成であるとも言える。なお、脱学だからと言って、完全忘却するのではない。いったん記憶域に刷り込まれた知識を完全消去することなどできない。脱学とは、固定観念化してにっちもさっちもいかない知から離脱して新しい知へ向かう、学びの再編だ。言うまでもなく、新しい知は未来だけにあるのではなく、遠い過去にもある。それを温故知新と呼ぶ。 

拠り所は出典不詳の知識

出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は20人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが……」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。


もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1,300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない。ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない。

出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、〈創造性=思考×情報〉という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている。但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては〈思考≒1/情報〉が成り立ってしまう。

「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになる。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

風土と食を考えるきっかけ

食への関心がきわめて旺盛なほうである。グルメや貪欲という意味の旺盛ではない。また近代栄養学的な視点からのマニアックな健康志向でもない。きわめて素朴においしいものをゆっくり楽しく食べたいと熱望するのであり、旬という季節感や土地柄という風土への意識が底辺にある。今ではまったく後遺症のかけらもないが、五歳のときに事故で腎臓を患い、その後の一年間、無味な食事生活を強いられた。塩分、糖分、脂肪分がほとんどなく、超薄めに味つけされた野菜とご飯ばかりを食べていた。「余分三兄弟」のない食生活であった。今の食への思い入れは、その反動のせいかもしれない。

世間で言う「飯食い」ではないが、米食民族の一人としての自覚はある。ぼくにとって、ご飯は必要欠くべからざる主食である。玄米や五穀米もいただくが、白飯が多い。但し、風土に忠実なので、本ブログでしばらく紹介していたイタリア紀行の折りには、“Quando siete a Roma, fate come i romani.”を実践する。「郷に入っては郷に従う(ローマではローマ人のように振舞う)」だ。だからパンとパスタとトマトと肉食中心の2週間でもまったく平気である。ミラノ名物リゾット頼みしてまで米を求めない。体調不良を来すこともない。

塾生の一人に米問屋の経営者Tさんがいる。給食業、弁当屋さん、飲食店向けに「おいしい炊飯」の啓発をおこなっている。米を買ってもらうための販売促進の一環ではあるが、情熱家はどこかで「損得抜き」の発想をするもの。彼のプレゼンテーションをお手伝いすることになった。彼いわく「炊飯技術が向上して家庭でのご飯が小量炊飯でも飛躍的においしくなった。米は大量に炊くほうがおいしいという通念があったが、業務炊飯はうかうかしておれない」。正直言って、おかずがおいしいけれど、ご飯が粘ってうまくないという店があって、がっかりする。これなら自宅の炊きたてのほうがうんとうまいと思ったりしていた。先週からこの仕事をきっかけに風土と食をあらためて考察している。


二十歳前後からの愛読書、和辻哲郎の『風土』に次のような一節がある。

食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。

ぼく流に言い換えれば、主義主張で食材や調理を考えるな、ということになる。過食やバランスの悪い食事は「知識」によるものである。知識がバーチャルグルメを生み出して、わざわざ食べなくてもいいもの、さほどおいしくもないものに向かわせるのである。もう少し切実かつ禁欲的に語れば、その時期に手軽に手に入る食材の恵みに依存するということだろう。ちなみに食材には保存のきくものと鮮度勝負のものがある。米や小麦やイモなどは前者だから年中口に入る。ゆえに主食になりえているに違いない。

今日の話に特別なオチはない。以上でおしまいだが、昨日飛び込んできたキリンとサントリーの企業統合決裂のニュースは、めでたしめでたしである。食品製造業の企業がメガ化する必要などどこにもない。ましてや食と風土を持ち出すならば、キリンにもサントリーにも「飲食と企業風土」の固有の独自性があるだろう。もし統合が実現していれば世界一の規模だが、おもしろくも何ともない巨大企業に映っただろうに違いない。ヴィトンとシャネルが一つになると文化崩壊が想像できるように、食産業にあってももっとも重要な文化性がどちらの企業からも消えてしまうことになっていただろう。   

無策ゆえに精神主義

これまで多種多様な企画を手掛けてきて、自分なりにある種の確信を抱くようになった。目的・願望と手段・方策の関係には、人間の弱さからくる法則があるようなのだ。この法則は仕事だけに限らず、人生全般にも通じるように思われる。

一つのゴールに対して手段が多いとき、人は数ある選択肢を前に決断に悩む。将棋の専門棋士が語っていたが、手が多く、しかもどの手を指しても良さそうな時ほど迷うらしい。アイデアが浮かびすぎて困るというケースが実際にはありうるのだ。これとよく似た経験がぼくにもある。ディベートで相手の論点が脆弱であったりゆゆしき矛盾を抱えている時、「どんな切り口でも論法でも容易に論破できそうだ」と直観する。ところが、豊富な選択肢は最上級思考へと流れて、結果的に決断を遅らせることになってしまう。AかBかの二者択一なら、比較級思考するしかないからそれほど逡巡しない。

もっといいのは、一つの目的に一つの手段、一つの願望に一つの手立てだろう。できるできないはともかく、方法が明確な一つの場合、ぼくたちはそこに集中することができる。但し、一つの小さくて具体的な目的・願望が条件である。小さくて具体的だから、講じるべき手段も取るべき行動も明確になって功を奏しやすくなるのだ。「立派な人間になる」とか「幸せになる」などの、茫洋として掴みどころのない願いが、一つの具体的な策で叶うはずもない。


いいのか悪いのかよくわからないが、ぼくたちはおおむね大小様々な目的を定めたがる。あれもこれもしたいという願いはどんどん膨らむ。試みに、これまでしようと思ってできなかったこと、これからやってみたいと思うことをリストアップしてみればいい。あっという間に一枚の紙が埋まってしまうだろう。大はマイホームから小はランチで食べたいものまで、枚挙に暇がないはずだ。同時に、目的や願望を威勢よく掲げるわりには、日々の努力が足りず、先送りしている自分に気づくに違いない。

仮に十ほどの目的や願望を列挙したとして、それぞれに「対症療法」がありうるならば、時間はかかるかもしれないが、早晩達成や実現に近づいていける可能性はある。しかし、そもそも「うわべだけしたつもりやその気になるだけの対症療法」であってみれば、成果はたかが知れている。それに、十の対症療法を小器用に使いこなして日々施していくほどの根気が続くかと問えば、大いに疑問である。

そう、願望が大きくなったり増えたりするのに比べて、それらを叶えていく手段や方策を思いつかないのが人間というものなのだ。「したいけれど怠けてしまう」あるいは「したかったけれど熱が冷めた」という万人共通の性分。言い換えれば、願望にアイデアがついていかないのである。したがって、理想と現実の埋まりそうもない乖離を一気に何とかしようとして、「為せば成る!」と叫んだり「何が何でも頑張るぞ!」と精神主義に走ってしまう。具体策があれば確実に実行する。無策だから実行のしようがない。ゆえに精神主義でごまかす。何ともならないのは、やる気の欠如よりも具体的方策の不在に負うところが大きい。

人それぞれのテーマ

休みの朝だが、少し調べたいことがあって本を読み、ついでに関連項目をネットで拾っていた。電源オフの直前、知り合いのブログをいくつか覗いた。更新頻度はいろいろあるが、みんな頑張って書いている。ぼくはと言えば、ブログを始めてから今年の6月で丸2年になる。ほとんどの読者はぼくを知っている人たちだと思われる。そんな読者のうち、数人の知人もしくは塾生は驚きを示す。驚きは、「感心する」と「呆れる」の二つの意味を含む。

感心してくれる人は褒めてくれている。表現はいろいろだが、おおむね「よくもまあ難しいテーマについて週に4日5日も書けるものですね」に集約される。呆れる人は必ずしも貶しているわけではないのだが、なぜもっと小さな記事にしたり写真を入れたりしてフレンドリーにしないのかという意味を込めて、「よくもまあ難しいテーマについて週に4日も5日も書けるものですね」と評するのである。そう、いずれの人たちもコメントの内容は変わらない。

ぼくの筆頭読者はぼく自身なのである。まず自分のアタマを整理するために文章化している。文章化の第一義は、あくまでも考えを明快にして筋道を通すためであり、それをメッセージにして第三者に伝えるのはその次の段階だ。「よくもまあ難しいテーマ」と言われるが、難易の感じ方は人それぞれである。また、ぼく自身小さなノートにメモしている事柄を発展させた話が中心なので、自分ではまったく難解なテーマだとは思っていないし、よそ行きにアレンジしているわけでもない。


問い返したい、「よくもまあ、自分のことや身の回りのことなど、どこにでもありそうな話を毎日毎日書けるものですね」と。昨日は誰々と飲食し、会社では何々をして、自宅で子どもや犬と遊んで、風呂に入って寝た、明日から旅行だ、楽しいな……このような体験と感想の羅列だけなら、ぼくなどもう何も書けなくなってしまう。ほとんど毎日がきわめて日常的な褻ケの連続で、非日常的な晴れハレなどめったにないから、たちまちネタ切れを起こしてしまうに違いない。

辛辣なアイロニーのつもりはない。若い頃何度も日記に挑戦したが、日々の出来事や思いを徒然なるままには書けなかったのだ。明治の文豪たちの筆致、たとえば「檜屋にて山本と飯を食らふ。日高くして酒を一合ばかり煽あおる。ほろ酔い気分の儘まま、外気に触れるや否や小便を催すなり」のような文章が、精細に丹念に筆書きされたのを羨ましく眺めたものである。平凡な日常を観察する習性を持ち合わせてはいるが、そこまで接写的に感想を連ねるのは苦手だった。やむなく、気づいたり考えたり想像したりすることを書くようになったのである。

作家の阿刀田高も講演で同じようなことをユーモラスに語っていた。正確には再生できないが、「自分はミステリーなどの創作ばかりを手掛けている。創作は大変だろうと同情されるが、そんなことはない。自分からすれば私小説なるものを書く人間のほうがずっと大変だと思う」という話があった。まったく同感なのである。「私」の視点から日々のおこないや小さな事件や思いつきを真面目に書き綴ることはぼくにはできない。

自分のこと、身の回りのことを諄々と書く私小説家には、マンネリズムにびくともしない逞しさを感じてしまう。「朝六時半に起きた。寒い朝だ。トイレに立って小便をする。洗面で髭を剃り顔を洗い髪をセットして着替え、妻とトーストを食べた。昨日はイチゴジャム、今朝は黒ゴマペーストであった」。仮に一度こう書いたら、別のページで二度と同じことを書けない。また、この程度のことを文飾豊かに言い換えようとも思わない。ゆえに、ぼくは体験や知識から触発された考えや意見を主として書く。それならいくらでも書けるからだ。決して偉ぶっているのでもなければ、私の日々を徒然記す作者を馬鹿にしているわけでもない。「テーマは人それぞれだ」と思いなしている次第である。