「見当をつける」という知の働き

「さっぱり見当がつかないので、やってみるしかない」という決意を耳にする。一か八かのようでもあり、決死の覚悟のようでもある。負け戦になってもやむなしという諦めも前提にありそうだ。見当がつかないことを「イメージが湧かない」と言い換えることができる。状況不明、方位方角不明、どんな結末になるかもわからない。「どう転ぶかわからないが、できるだけ頑張ろう」という、一見頼もしそうな心理に危うさを感じる。時間に急かされてやむをえずそうなってしまったのか、状況判断のしようがないのでやるしかなくなってしまったのか。いずれにしても、あまり歓迎したくない切迫感が張り詰める。

見当とはいろんな材料によっておおよその方向性や好ましい結果に向けての判断をおこなうことだ。ここで重要なのは、いろんな材料をわざわざ集めるのではなく、日頃から身につけてきた知識を生かすという点である。そうでなければ「見当をつける」ことにならない。テーマが与えられてから情報を収集し分析して、しかるべき結果やソリューションを導くことを見当をつけるとは言わない。その作業は見当がつかなかった者が選ばざるをえない苦肉の次善策にほかならない。

ありとあらゆる材料を集めて、それらの総和によって正解への方向性が見えてくるのではない。たとえば、「急いては事を仕損じる」という諺を命題に見立ててみるとき、手に入るだけの証拠を集め考えうるかぎりの論拠を編み出して真偽や是非を論じても答が浮かび上がってこない。むしろ、おびただしい証拠と論拠によって真偽・是非が拮抗して判断がつかなくなり、茫然と立ちつくしてしまう結果となる。状況の把握ができなくなる、こういう事態は「見当識失調」と呼ばれる。ちなみに「急いては事を仕損じる」という命題に対するぼくの見当は「非」である。下手な遅疑よりは何かにつけてまず急いでみることが寛容だと思っている。この見当の次に、現実的な是非の吟味をおこなうことになる。


微妙な表現遣いで恐縮だが、「見当がつく」と「見当をつける」は違う。見当がつくときは、あらかじめ仕事や命題そのものに判断材料が備わっている。その場合は、誰にとっても見当がつくわけで、特別な誰かを必要とするわけではない。つまり、「次の一手」は自明である。ところが、見当をつけるほうは、自分の知とイメージを進んで働かせるという意味だ。人によって次の一手が変わる。それゆえに、たとえば将棋のプロはぼくのようなアマチュアよりも状況の読みが深く、かつ蓄えてきた手筋や定跡の知と想定イメージが質量ともに膨大だから、高い確率で最善の手の見当をつけることができるのだ。

情報が簡単に集まるようになった現在、ぼくたちは能率のよい時代に生きている。しかし、この能率性が曲者だ。いつでも材料が集まるとなれば、ふだんの品定めがおろそかになるし目配りや取り込みの真剣みが甘くなる。実際、企画の指導をしていると、テーマの見当をまったくつけることなく、テーマに関連する情報をやみくもに集めることを作業の出発点にしてしまう人たちばかりである。絵具と筆とスケッチ帳を用意しても、主題の見当をつけなければ絵は描けない。筆に随って文章を書くことを随筆と言うが、筆のおもむくまま小文を綴ることなど不可能で、実際は体験や見聞の題材の見当をつけてから書き始めるものだ。

見当をつけることを別の言い方をすれば、予想する、推測する、想像するなどになる。さらに軽く言えば、大体の方向性の察しをつけるということだ。この知の働きなくしては、どんなに質のいい情報をどれだけ多く手元に置いても、仕事は遅々として進展しない。情報の選別や分析をしたり組み合わせたりして答が見つかるのではなく、答らしきものの見当をつけておかねばどうにもならない。もちろん、見当をつけた方向性に答が見つかる保証はないが、そうする者はそうしない者よりも直観やひらめきのトレーニングを積んでいることになる。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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