翻訳という「書き換え」

言語Aの文章が言語Bで見事に言い表されニュアンスまで汲み取っていればよい翻訳である。ところが、言い換える際の解釈間違いや大胆な超訳で意味不明の事態が頻繁に生じる。たった一つのことばの違いでも文の訳がひるがえる。

久しぶりの英日翻訳を終えた。一部翻訳ソフトでチェックしたが、まだまだ信頼はできない。原文がフランス語で、その英訳からの翻訳作業。時間がかかるのは覚悟の上で、フランス語も参照して翻訳の精度を上げるようにした。

さて、翻訳とは「書き換え」である。日本語の文章をブラッシュアップすべく別の日本語に書き換えるが、それと同じことを二国語の間でおこなうのが翻訳だ。


先日、四川料理の店に入った。四川だから辛いのをある程度覚悟していたが、注文した56品のうち、まずまず辛かったのは前菜の干し豆腐と野菜の和え物だけだった。辛さを謳ったと思われる店のスローガン「将麻辣迸行到底」とは程遠かった。

漢字そのままである程度推測できたので、比較的わかりやすい中国語である。将(ニ)は漢文で習った、今まさに何々せんとす。「~しようとしている」「~の予定」の意。麻辣は見ての通りの、ヒリヒリと痺れる辛さ。迸行は「ほとばしる」。到底は「最後まで」、超訳すれば「とことん」か。そんな見当をつけてスマホの翻訳ソフトを使ってみた。中国語の英訳は和訳よりも精度が高い印象があるので、まずは英語から。

Spread the spicy flavor to the end.

スパイシーな香りが最後まで広がる(続く)。たぶん原文が言いたいのはこういうことなのだろう。まともである。英語訳にはバリエーションが少なく、他の翻訳案も似たり寄ったりだった。

It’s going to be a hot mess.

別案のこれには驚いた。熱い(≒辛い)混乱? めちゃカラ? うんざり? お手上げ? 良からぬ文章と判断したようだ。さて、中日翻訳はどうか。

①スパイシーな味わいを最後まで引き立たせる
②スパイシーな味わいが最後まで広がります

①と②の違いは動詞。安易にスパイシーという語に逃げるのは感心しないが、麻辣の辛さをとことん堪能する感じは出ている。困った時は直訳が無難だと思われるが、スローガンとしては調子が平凡で訴求力が足りない。

③どこまでもスパイシー
④辛さがずっと続きます
⑤スパイシーなアクションを最後までやり遂げる

③は省略し過ぎ。ニュアンスを汲むのが面倒くさかったのか。④も手抜きしている。⑤はひねり過ぎ。スパイシーなアクションと言ったら、花椒や唐辛子を鍋にぶち込んでいる調理の様子になる。アクションと訳したら「やり遂げる」で締めくくるのもやむをえない。

⑥ぴりぴりした辛さを噴き出してよく徹底的にします
⑦辛辣さを最後までほとばしる
⑧麻薬を底まで運ぶ

これら⑥⑦⑧は滑稽三部作。どれもAI翻訳以前の辞書の学習機能に問題がありそうだ。人間の学習者と同じく、だいたい滑稽な翻訳は辞書と文法の欠陥に由来する。⑥の「噴き出して」と「徹底的にします」は辞書の語彙不足。麻辣を辛辣さと訳した⑦、麻薬と訳した⑧は、そもそも元の文章が料理や味付けのことだと判断できていない。

言語A→言語Bの翻訳においては、おおむね言語Bの表現力が問題になる。中日翻訳でも英日翻訳でも、日本語表現の拙さゆえに珍訳が生まれてしまうことが多いのだ。なお、勇み足をするAI翻訳は、滑稽さにおいてすでに人間の迷訳・珍訳を超えている。