私家版食性論(中)―「広食」か「狭食」か

ジャガー.jpgのサムネール画像「腹を空かしているときに、この中に入るとやられてしまいます」。ある動物園の飼育員が冗談抜きの表情で語った。この中とは檻であり、腹を空かしているのはジャガーである。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与える。赤ん坊のときから何年も飼育してきたのに、腹ペコ状態のジャガーの檻には入れない。念のために書くが、ジャガーとは猛獣のジャガーであって、女子プロレスのジャガー横田ではない。

エサをもらっている姿を見るかぎり、ジャガーは飼育員になついているように見える。だが、「なついているようでも、いつでも私を狙っています」と飼育員。ジャガーにとって動く哺乳動物はすべて標的。世話をしてくれる飼育員さえもジャガーの食性内の獲物にすぎない。ジャガーにとってみれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない健気けなげさや親しみや信頼性などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめて首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、ぼくたちは残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまうが、ジャガーは食材を調達して食事をしているにすぎない。自然界に棲息するジャガーと違って、動物園の片割れは調達などしないが、それでも自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員はいつでも狙われているのである。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の《食う・食われるの関係》においては、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこには損得観念などはない。自然の摂理はめったなことではバランスを崩すことはないのである。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生のまま草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。「広食」の最右翼が人間であり、日本人はそのリーダー的存在だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はパスタ、夜はサムギョプサル、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば、明日の昼はタイ風カレー、夜は酢豚に餃子……まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておく。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などとしつけるはずもない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

 〈続く〉

私家版食性論(上)―何を食べるのか

食材を浪費し調理されたものを廃棄するなどもってのほか。注文したものを食べ残し、注文されもしないものを作り置きすることにはやむをえない事情もあるだろう。だが、できれば避けるべき、恥ずべき行為だと自覚しておきたい。そもそも賛否を問うようなテーマではない。

さて、食べるということに関して、ぼくは両極の間でつねに揺れ動いてきた。一方で、つべこべ言わずに何でも食べるべしと考え、他方、旬のものだけを食べていればよしとも思っている。このような二律背反に直面するたびに〈食性〉ということばがアタマをよぎる。食性とは、人間および動物全般に見られる食べ物の性向のことである。食材を広げるのか狭めるのか……どちらを選ぶかによって何を食べるのかが決まるが、文明以前の人類にとっては選択の余地などあるはずもなかった。生き延びるために環境適応を最優先した。環境要件のうち食風土が第一決定因であり、まさに「foodフードこそ風土」だったのである。

ところが、文明の萌芽とともに地域どうしの交流が始まると、目新しい食材で胃袋を満たすようになり、かつて固有の風土によって制限されていた食性が広がるようになった。たとえばローマ時代の富裕層の食卓は、わざわざ食す必要もない珍奇なゲテモノで彩られた。現代に生きるぼくたちも、固有種以外の食材や料理を日々堪能し、本来の食性を大きく変えている。さて今日は何を食べようかと、のべつまくなしに箸やフォークが迷っている。


炭火焼きウルテ.jpg写真は、炭火で「ウルテ」を焼いているシーンだ。焼肉店でこれを注文する人はぼくの回りに多くはいないが、好きな人はこの一品を欠かさない。ウルテとは牛の喉の軟骨。鶏の軟骨よりも硬いから、あらかじめ細かく包丁を入れてある。切れ目はタテ・ヨコに入っており、片面に焦げ目が付いた頃にひっくり返すと網に軟骨の粒がくっつく。漬けていたタレが切れ目に浸み込み香ばしく、独特の歯ごたえがある。もちろん、こんなものを食べなくても人は生きていける。わざわざ好んで食べることもない。ロースばかり食べる人もいれば、ホルモンにこだわる人もいる。牛の部位に限っても、人には人の食性があるのだ。

「動物の世界に目を移してみると、モグラは昆虫を食べ、ウシやヒツジは草を食べ、オオカミやライオンは肉を食べる。食べるものの種類は極めて少ないわけだが、これらの動物を偏食だという人はいない。どの動物も、”ある一定の食物を食べる性質”があるのだ。それを”食性”という。それぞれの動物によって食性が異なるように、人間もまたさまざまだ」(『粗食のすすめ』)。

著者の幕内秀夫はこう言って、それぞれの民族が偏食していると結論する。もっとも、偏食は偏食でも風土という自然に則したもので、単なる好き嫌いなどではない。

おおむね玄米と味噌と少しの野菜と近海の魚で生命を維持してきた日本人は、文明開化以降、望めば世界中の食材を手に入れられるようになった。何を食べるかという選択肢は間違いなく増えた。けれども、選択肢に比例して何でも食べるぼくのような広食性人間もいれば、かたくなに食性を限定的に維持している狭食性人間もいる。ぼくが広食性なのは単純な理由で、食べ物にあまりエゴイズムを持ち込みたくないということに尽きる。

一つだけ確実に言えることがある。旬を中心とした摂理ある食性は、好き嫌いによって形成された食性とはまったく別物だということだ。 

〈続く〉

ネタバレと学習

Okano Note.jpg本ブログ〈Okano Noteオカノノート〉を始めてまもなく5年になる。およそ750本ほど書いてきただろうか。「あれを読んでいると、きみの意識の視線の先が何となく見えてくるよ」と知人がつぶやいたが、それはそうだろう。意識が乏しいテーマを取り上げるはずもないのだから。

ぼくは28歳の頃から、気になる事柄や術語を気の向くまま小さなノートに書き込み、自分なりの考えをしたためてきた。企画や講演という仕事柄、なるべく特定ジャンルに縛られることなく、広く浅くセンサーを多方面に向けてきたつもりである。小さなノートはぼくにとっての「ネタ帳」であり、そこに書き込んできたおびただしいテーマを企画や講演に生かし、このブログも書いてきた、という次第である。
同業界にはネタを小出しにする人もいるし、ぼくのように出し惜しみせずに自らネタを割ってみる者もいる。出し惜しみしないことを威張っているわけではない。ただ、秘伝のタレを守るような、一つの価値観に執着する生き方がどうも性に合わない。手持ちのネタや出所を公開することによって、ぼくは新ネタを仕込まねばならぬ。これはとてもきついことなのだが、そうすることによって無知化しかねない自分を叱咤激励できているような気がする。

映画好きだが、最近はあまり映画を観ていない男がいる。さほど映画好きでもないが、最近ちょくちょく映画を観るのがぼくだ。二人でランチしている時に、週末にぼくが観た映画のことを話したら、「どんな感じでした?」と興味を示したので、高速であらすじを喋り始めた。さわりに差し掛かったところで、突然彼は「ああっ~、ネタバレ~」と叫び、勢いよく両手で耳を覆った。ちなみにネタバレというのは、彼のような未鑑賞者の楽しみを奪うことに用いられる。「きみが聞きたそうだったから、話しただけじゃないか」と言って、ぼくはシナリオの顛末直前で話すのをやめた。
人というのは不思議な学習者である。興味のあることは聞きたい知りたい、しかしすべてを明かされるのは嫌で、ここぞというところは自分で見つけて感動したいのである。ところが、さほど興味のないことについては、その全体のことごとくを他人から教わって平然としている。いや、むしろ、やむなく学ばねばならないことなら、自分で知る楽しみも放棄してネタバレを大歓迎してしまうのである。
そもそも学習とは人や本によるネタバレにほかならない。ぼくたちの知識の大半はネタがそっくりバラされて形成されたものだろう。小説・映画と研究論文などのネタバレ感覚が違うことは認めるが、どちらにせよ、鑑賞したり学習したりするのはネタがバレていく過程なのである。ネタは欲しいがおいしいところはバラさないでくれと言うのなら、独学に限る。たとえば一冊の本を読んでネタを仕入れたら、究極の歓びを自らの想像で仕留めればよい。
なお、ネタとは「種タネ」を逆さ読みした隠語である。アイデアのネタ(情報)、鮨ネタ(素材)、手品のネタ(仕掛け)など、ある究極形を生み出すための鍵にほかならない。ぼくもネタを仕入れ仕掛ける。それを公開しても何も困らない。なぜなら、同じネタを用いても究極形が違うからである。

論理的思考を再考する

論理の指導をする身ではあるが、ひいきをしているわけではない。それでも、論理的思考ロジカルシンキングは物事を明快にしてくれるし問題解決にかなり役立つ。「論理以前」の幼稚な思考だけで、あるいは、当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで物事を受け流してきた者には学ぶところが多いはず。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどは、論理能力の不在によって生じることが少なくない。

 

論理的思考や論理学の初歩になじみたいという入門者に、写真の『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹著)を薦める。一読した彼らはぼくに文句を言う。「やさしいと思ったら、めったやたらに難しいじゃないですか!?」 ぼくは返す、「文章はわかりやすいが、内容がやさしいなんて一言も言っていない。論理や思考がやさしいものなら、ぼくたちは苦労などしない。慣れないことはすべて難しいんだ」。

この分野に心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学を学びたいのではない。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な〈明証・分析・綜合・枚挙〉に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも成果は上がる。


しかし、日々の自分を省察してみよう。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。いま論理的思考をしているぞという自覚があるだろうか。おそらく確信できないはずだ。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、知っていることの確認作業の域を出ない。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の〈蓋然性〉を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。蓋然性とは「ありそうなこと」を意味する。

論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのである。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多いのだ。それゆえ、どんなタイトルがついていようと、ぼくは「ロジカルコミュニケーション」を念頭に置いて指導するようにしている。

論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが、一人で悶々とする論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきだろう。

(本文は2010年6月3日の記事に加筆修正したもの)

超人的なものの人間味

血生臭い事件が報道されバカらしい芸能ニュースばかりが流れる今日この頃。本来腰を据えて考えるべきことがおろそかになり、まったくどうでもいいことが取りざたされる。自分の日々の熟慮や行動を棚上げしているかもしれないが、この国のインテリジェンスの劣化を嘆く。
スペースシャトル.jpg
今週ぼくの関心を引き、考察の機会を与えてくれたのがエンデバーだ。ご存じ、ロサンゼルス市街地から展示場へ陸路輸送された話である。
彼は超人さながらあっという間に大気圏の外に出て宇宙に達する。まさにスーパーマンという形容にふさわしい。その彼がロサンゼルス空港からカリフォルニア科学センターに到着するのに、滑稽なほど手間取った。わずか19キロメートルの道のりを毎時3.2キロメートルという、ぼくよりも遅い歩み。しかも、曲がり角で悪戦苦闘しつつ、二日半近くかかってやっとのことで「任務」を完了した。

 いくつもの難題をいとも簡単に克服してきた超人が、舞台を変えてまるで亀のように見えた。宇宙を意のままにした雄姿の微塵もそこにはなく、もがき立ち往生した。ほほう、超人も四苦八苦するのか、所詮超人も「人」だったのかと、泥臭い人間味を感じてしまったのである。
論理の飛躍を恐れずに書くことにしよう。勝手知らない宇宙で何事かを成す前に、やらねばならぬこと、考えねばならぬことがこの地球上にあることを思い知る。究極の問題解決力は地球上でこそ、いや、自分にもっとも近い所でまずは発揮されねばならないのだろう。

もっと能力を伸ばそう、未知なるものにチャレンジしようという意気軒昂に水を差すつもりはない。だが、どうやら問題解決によって実現しようとする幸福のありかは己自身もしくは己のすぐそばにありそうだ。深慮遠謀して時間をかけた結果、巧遅こうち、俗に「ウマオソ」であっては旬を逃す。むしろ、少々ぎこちなくても、身近で小さな問題を人間らしくコツコツと解いていくべきなのではないか。しかも、地上のエンデバーと違って急がねばならない。拙速せっそくという泥臭さにぼくはとても魅力を感じている。これは別名「ヘタハヤ」である。

「暗黙の前提」という曲者

毎日新聞 見出しの誤読.jpgディベートやロジカルシンキングを指導してきた手前、論理もしくは論理学のことは多少なりともわかっているつもりだ。よくご存じの三段論法などもこのジャンルの話である。

推論の末、ある結論が導かれる。たとえば「南海トラフ地震が発生すると……という結果が予測される」という具合。結論を到着点とするなら、出発点は何か。それを「前提」と呼ぶ。導いた結論に妥当性を持たせたければ、前提が満たされる必要がある。
わかりやすい例を挙げると、「生卵は割れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という二つの前提から、「コンクリート床の上に生卵を落とすと割れるだろう」という結論が導かれる。反証できないことはないが、おおむねこれでいいだろう。結論は前提からのみ導出される。ある日突然気ままに発生するわけではない。

多くのメッセージは、受け手側の知識を前提として発信される。「うちのポチはお手をしないのよねぇ」と唐突に発せられたメッセージは、「ポチとは犬であること」を聞き手が理解しているものと見なしている。だから、もし「ポチという名の亭主」のことだったら、話は通じない。このように、前提が明示されない場合でも、経験を多少なりとも積んできた成人が共有している共通感覚や常識を見込んでいる。
写真は十日前の新聞の一面である。「35市町 庁舎浸水」の大見出し。ぼくが初級日本語学習途上の外国人なら現実として読むだろう。もっと言えば、「南海トラフ地震」が自分の知らぬ間に起こったと思うかもしれない。そこには「想定」や「シミュレーション」という文字が見当たらない。余談になるが、動詞で書くべきところを体言止めで代替すると、読者の行間読解の負担が大きくなる。
かと言って、前提のことごとくを書き出していたらキリがない。生卵が割れやすいことをいちいち書いてから証明して結論を導いてはいられないだろう。だから前提を省く。だが、それは「みんなわかっているはずだ」という同質的社会の甘えにほかならない。異質的社会ではコンテンツをことごとく列挙する傾向が強いのである。
前提をくどいほど確認せずとも「ツーカー」でやりとりできれば楽である。しかし、そんな楽に慣れてしまうから、論理的コミュニケーションが上達しないのだ。前提を語り尽くさぬ美学に惹かれる一方で、前提を暗黙の内に封じ込める独りよがりを戒める必要もあるだろう。

幼稚な反撥

問いの立て方を見れば、その人間の問題意識がある程度までわかるものである。

たとえば「お出掛けですか?」などは、疑問文の形になっているが、決して尋ねてなどいない。時代を経て何度も何度も繰り返されて共有化され慣習化された結果、問いの機能を失ってしまったのである。

A お出掛けですか?
B ええ。
A どちらまで?
B ちょっとそこまで。
A よろしいですなあ。

人間関係のための潤滑油効果を持つやりとりである。愛想の問いに神妙に答えてはならない。問い相応の応答でよいのである。
ところで、答え方を見ても、当然その人間の問題意識や真剣度をうかがい知ることができる。大蔵大臣時代だったと記憶しているが、宮沢喜一は「仮に……になれば、どうなるでしょうか?」という記者の問いに、「仮の質問には答えられない」とぬけぬけと言い放った。この種の物言いをしゃれた切り返しと勘違いしている輩がいるが、単なる幼稚な反撥にほかならない。

「リンゴかバナナか?」や「米かパンか?」などの究極の選択は、「もしこの世界でたった一つしか選べないとしたら……」という仮言を前提にしている。条件のついたお遊びと言ってもいい。「仮に」や「もし」は、ともすれば行き詰まりがちな話を進めるための契機であって、決して本意を聞き出そうとしているわけではない。問う者も答える者もそこのところがわかっているから、スムーズなやりとりができるのである。
詭弁家は「選択肢はそれら二つだけではない。他にもある」などと言い放ってかっこいいと思っている。あるいは、問いそのものを否定して「そんな悩みは無用である。現実世界では米もパンも食えるのだから」などと言う。とてもバカげている。いずれも問いに答えていないのである。答え方を見れば、人が素直かひねくれ者かがすぐわかる。相手の問いの形式にケチをつけてはいけないのだ。問いにはいさぎよく答える。ただそれだけ。
なお、「米かパンか?」という問いは仮言的であるばかりでなく、レストランでも現実によく聞かれることがある。以前、インド料理店で「ナンかライスか」と二者択一で尋ねられた。迷った挙句、「両方食べたいなあ」と言ったら、あっさり「わかりました」。たまに問いに逆らってみるのも悪くない。もっとも相手が成熟の共感をしてくれて成り立つ話ではあるが……。
Make your point web.jpg
中学生用に編まれた英国のディベートの演習本。30の討論テーマのすべてが二者択一形式、つまり肯定か否定かになっている。

真贋を見分ける

ロダンにあまりにも有名な『考える人』という作品がある。昨年11月にパリのロダン美術館の庭で「真作」をじっくりと鑑賞してきた。
いま、「真作」と書いた。「本物」でもよい。しかし、粘土で原型を作り、そこにブロンズを流し込む、いわゆる鋳造された作品であるから、世界に28体あると言われている。では、どれがオリジナルでどれがレプリカなのか。実は、28体のブロンズ像すべてがオリジナルであり真作なのである。
彫刻作品は一つでなければならない。たとえば、ぼくがフィレンツェのシニョリーア広場で見つめたミケランジェロ作ダビデ像はレプリカである。本物はアカデミア美術館にある。また、絵画もオリジナルは一つだ。だからこそ、真贋問題がよく持ち上がる。リトグラフや版画は原型が同じであれば、刷られたものはすべて真作ということになる。紙幣や貨幣も大量に製造されるが、国家という信頼性にも支えられて、すべてが本物とされる。
唯一絶対で真似ることもできないものを、本物や真作とは呼ばない。富士山に本物という形容は成されない。本物のヴェルサイユ宮殿などという言い方もない。どこかのコピー大好きな国でそっくり再現しようとしても、真贋などという概念を持ち出すまでもなく、偽物だと見破れる。簡単に贋作だとわかるのであれば、オリジナルをわざわざ本物と呼ぶ必要はないのである。
本物か偽物か……つまり、真作か贋作かが問いになること自体、真贋の識別が難しいことを示している。贋作だと判断するためには、それが真作でないという証明のテコが必要なのである。真作を見たこともなく真作に触れたこともなければ、贋作を見分けることはできない。真作あっての贋作だからである。
ローマ時代に使われたとされるコインを持っている。ローマはコロシアム内の土産物ギャラリーで買ったものだ。あいにく本物を見たこともなく本物に触れたこともないので、ぼくの自宅に置いてある2つのコインの真贋を即断することはできない。ただ、2個で500円くらいだったと思うので、鑑定してもらうには及ばない。おそらくレプリカのコピーの、そのまたコピーに違いない。

何が本質なのか?

古代ギリシアの哲学者にヘラクレイトスがいる。万物流転で名を馳せた紀元前5~6世紀の人だ。万物流転の中心が「火」であると言ったが、何から何まで変化すると主張したわけではない。「魂には自己を増大させるロゴスが備わっている」あるいは「思慮の健全さこそ最大の能力であり知恵である」などとも語り、ロゴスの変わらざる本性へも目配りしている。

そのヘラクレイトスは「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。なぜなら、流れはつねに変わっているから」という、あまりにも有名なことばを遺した。たとえば、ぼくのオフィスのすぐ近くに「大川」という川がある。天神祭の舞台となる川だ。決して清らかな水ではないので、足を浸す気にはなれないが、もし、ある日この川に足を踏み入れたとしよう。翌日同じ場所に行って足を踏み入れても、もうそれは昨日の川ではない。
大川という固有名詞の川に何度も足を踏み入れることはできるじゃないかと思ってしまう。だが、川の本質は大川という名前ではない。「川の流れのように」と言うように、川の本質は流れである。流れであるならば、たしかに昨日足を浸けたあの流れは、今日ここにはない。青年大川太郎は生まれた時から大川太郎だが、何度も生まれ変わった細胞に目を付けると、赤ん坊の時の大川太郎はもはや存在していない。

ぼくたちは昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。しかし、それは変わらない本質を見据えているからにからにほかならない。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間、少なくとも戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかと思い知る。
「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」
「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を二回、柄を三回ばかり交換したそうな。だから、丈夫なことは請け合いますよ」
さて、この斧はジョージ・ワシントンが悪さをした斧なのだろうか、それとも別物なのだろうか。何度もリフォームした法隆寺は建立された当時の法隆寺なのか、それとも法隆寺的なものなのか。平成の大修理中の姫路城大天守は、ビフォーもアフターも同じものであるのか。ものの本質を考えるとき、必然、名と実の関係に思考が及ぶ。名を以て本質とするのか、実を以て本質とするのか……悩ましいが興味深いテーマである。

「おかしい」と言うなかれ

携帯電話会社のテレビコマーシャルに「おかしいことをおかしいと言う勇気」というのがある。「そうだ、その通り!」と膝を打ちたくなるか……。まったくならない。「勇気」などと頼もしげに言われても、「ふ~ん」と反応するしかない。いや、正確に言うと、少々苛立ちさえ覚える。

おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。ただそう言えばいいだけの話だ。美しい花を美しいと言い、汚い店を汚いと言い、バカな者をバカと言うのと同じである。この国では未だに「自分が感じることをそのまま言に出してはいけない、もし出そうと思えば勇気を振り絞る必要がある」という暗黙の前提があるのか。
おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。だからと言って、好きなように言えばいいと主張しているのでもない。これは〈同語反復トートロジー〉の一つになっている。「ダメなものはダメ」と言って話題になった女性政治家がいたが、こういうものの言い方をしているかぎり、論議が前に進む余地はない。ただ堂々巡りするしかない。ちなみに、「売れるものを作れ」というのも類語反復である。

くどいが繰り返す。おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。いや、おかしいことをおかしいと言ってはいけないのである。誰かの意見に異議を唱えるとき「おかしい」という表現などありえないのだ。「おかしい? 何がおかしいのか言ってもらおうじゃないか!」「おかしいものはおかしい!」「おかしいとしか言えないお前のほうがおかしい!」……となって、傍で聞いていると昔の漫才師のボケとツッコミようである。
「おかしい」と感じるのは主観である。その主観を「おかしい」と主観的に表現しているかぎり議論は成立しない。こういう批判は口先だけの、根拠なき反駁であり、人格否定につながってしまう。議論が口論になり果てる。わが国の一流論客と評される人物でも、だいたいこのレベルに止まっている。
「おかしい」と評してはいけないのである。もし「おかしい」と言ってしまったら、理由を述べるべきである。他に、ナンセンス、馬鹿げている、話にならない、矛盾している、意味不明だ、わけがわからん……なども議論におけるタブー表現である。もっと言えば、こうした表現によってコメントしたり批判したりするのは、勇気ではなく、むしろ臆病の表れであり、ほとんどの場合、議論が苦戦に陥っていることの証である。