ものは言いようか?

大学生の頃、英語のスピーチの指南役と言えば、デール・カーネギーだった。カーネギーを知る前は、スピーチの価値は中身にあると硬派に信じていたから、いつも何を話すかばかり考えていた。ある時、“It’s not what you say, but how you say it.”というカーネギーの一文に出合う。「(重要なのは)何を話すかではなく、それをどのように言い表わすかである」。どんなにいい話であっても、下手に喋ったらダメ、ものは言いようだぞ、表現次第なのだぞ、ということだ。

だが、「ものは言いよう」に代表される〈修辞法レトリック〉が万能でないことは専門家なら誰しも知っている。洋の東西を問わず、体躯をろくに鍛えずに、貧弱を隠蔽するために着飾る傾向への批判はつねにあったし、近年も風当たりが弱まってはいない。古代ギリシア時代のソフィストらの詭弁も表現優先の修辞法によるものであった。ところが、詭弁術とは異なる〈説得立証〉と〈言論配列〉という修辞法も鍛錬メニューとして存在していた。説得立証は「説得のための証拠・論拠立ての方法」であり、言論配列は「序言・陳述・証拠・証明・蓋然性・概括」などの組み立て方を扱う。

ここで言論配列に注目したい。これはスピーチの効果的な構成に関わる技術である。起承転結に近いが、起承転結は漢詩の詩作――または物語の構成――の基本概念であるのに対し、言論配列は弁論術の一つを成すものだ。アリストテレスは2400年前にこのことを説いていた。時代を下って17世紀、パスカルも『パンセ』の中で、「わたしが何も新しいことを言わなかったなどと言わないでほしい。内容の配置が新しいのである」と言っている。

長年、ぼくは企画業と講師業の二足のわらじを履いてきた。前者では立案と企画書作成をおこない、後者では毎年数種類の研修テキストを執筆する。何百という企画書とテキストをこれまで書いてきたが、書く作業よりもコンテンツの選択のほうが大変なのを実感している。さらに、コンテンツの選択よりも「構成」により多くの時間と労力を費やさねばならない。「ものは言いようや書きよう」を否定はしないが、「ものは並べよう」により注力すべきなのである。

風船.jpg情報化社会になって、目新しい情報を追いかけ情報量の多さを競うようになった。この結果どうなっているか。情報を集めて足し算するばかり、構成にしてもあたかも任意抽出して適当に並べているようなフシがある。発信者側はそれでもいいだろうが、受信者側にとってはえらく迷惑な話である。大量の情報を読まされたものの、何も残らない、ピンと来ないということが頻繁に起こる。

情報を欲張る前にやっておくべきことがある。それが配列だ。たとえば、3つの情報を〈A→B→C〉と並べる。同じ情報は〈A→C→B〉〈B→A→C〉〈B→C→A〉〈C→A→B〉〈C→B→A)と変化させることができ、全部で6種類の配列が可能になる。新たにDEを加える前に、手持ちの情報の順列・組み合わせをしてみるのだ。仕事のスピード化につながることを請け合ってもいい。ものを並べ換えるという、ごく初歩的な作業価値を見直す。追補や加筆は並べ換えの一工夫の後でもできるのである。

何が本質なのか?

古代ギリシアの哲学者にヘラクレイトスがいる。万物流転で名を馳せた紀元前56世紀の人である。万物流転の中心が「火」であると言ったが、何から何まで変化すると主張したわけではない。「魂には自己を増大させるロゴスが備わっている」あるいは「思慮の健全さこそ最大の能力であり知恵である」などとも語り、ロゴスの変わらざる本性へもきちんと目配りしている。

ヘラクレイトスに、「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。なぜなら、流れはつねに変わっているから」という、あまりにも有名なことばがある。たとえば、ぼくのオフィスのすぐ近くに「大川」という川がある。天神祭の舞台となる川だ。決して清らかな水ではないので、足を浸す気にはなれないが、もし、ある日この川に足を踏み入れたとしよう。翌日同じ場所に行って足を踏み入れても、もうそれは昨日の川ではないのである。
大川という固有名詞の川に何度も足を踏み入れることはできるじゃないかと思ってしまう。だが、川の本質は大川という名前ではない。「川の流れのように」と言うように、川の本質は流れである。流れであるならば、たしかに昨日足を浸けたあの流れは、今日ここにはない。青年大川太郎は生まれた時から大川太郎だが、何度も生まれ変わった細胞に目を付けると、赤ん坊の時の大川太郎はもはや存在していない。

ぼくたちは昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。しかし、それはぼくたちが変わらない本質を見据えているからにからにほかならない。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間、少なくともぼくは戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかと思い知る。
「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」
「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を二回、柄を三回ばかり交換したそうな。だから、丈夫なことは請け合いますよ」
さて、この斧はジョージ・ワシントンが悪さをした斧なのだろうか、それとも別物なのだろうか。何度もリフォームした法隆寺は建立された当時の法隆寺なのか、それとも法隆寺的なものなのか。平成の大修理中の姫路城大天守は、ビフォーもアフターも同じものであるのか。ものの本質を考えるとき、必然、名と実の関係に思考が及ぶ。名を以て本質とするのか、実を以て本質とするのか……悩ましいが興味深いテーマである。