二項対立と二律背反

一見酷似しているが、類義語関係にない二つの術語がある。誰かが混同して使っているのに気づいても、話を追っているときは少々の表現の粗っぽさには目をつぶってやり過ごすので、その場で指摘することはない。つい最近では、〈二項対立〉と〈二律背反〉を混同する場面があった。この二つの用語は似ているようだが、はっきりと違う。

二律背反とは、テーゼとアンチテーゼが拮抗している状態と覚えておくのがいい。たとえばディベートの論題を考えるときに、論題を肯定する者と否定する者の立場に有利不利があってはならない。現実的にはどちらかが議論しやすいのだろうが、ほぼ同等になるように論題を決め記述するという意図がある。「ABである」に納得でき、「ABでない」にもうなずけるとき、両命題が同等の妥当性で主張されうると考える。

これに対して、二項対立は、本来いろんな要素を含んでいるはずの一つの大きな概念を、たった二つの下位概念に分けてしまうことである。人間には様々な多項目分類がありうるにもかかわらず、たとえば「男と女」や「大人と子ども」のように極端な二項に分ける(老若男女とした瞬間、もはや二項ではなくなる)。方角は東西南北と四項だが、世界は「西洋と東洋」あるいは「北半球と南半球」と二項でとらえられることが多い。「先進国と発展途上国」でも二項が対立している。


なお、二項対立と二律背反には共通点が一つある。それは、多様性に満ちているはずの主張や議論や世界や対象を、強引に二極に単純化して考えることだ。明快になる一方で、二つの概念がせりあがって鋭く反発し合い、穏やかならぬ構図になってしまう。とはいえ、二項対立の二つの概念は対立・矛盾関係にあるものの、もともと一つの対象を無理やり二つに分けたのであるから、支え合う関係にもなっている。「職場と家庭」や「売り手と買い手」には、二項対立と相互補完の両方が見えている。

金川欣二著『脳がほぐれる言語学』では、「ステーキと胡椒」も二項対立扱いされている。「おいしい焼肉」の極端な二項化と言えるが、少しコジツケっぽい。傑作だったのは、「美川とコロッケ」。両者が属する上位概念も対立もうかがえないが、相互に補完し合っているのは確かである(美川憲一が一方的に得をしているという説もあるが……)。

二項対立は、ある視点からのものの見方であり定義なのである(だから、人それぞれの二項があってよい)。また、いずれか一方でなければ必ず他方になるような概念化が条件である。たとえば、「日本と外国」において、「日本で生まれていない」が必然的に「外国で生まれている」になるように。ところで、知人からのメルマガに「情緒と論理」という話があった。日本人は情緒的でロジックに弱いという主張である。日本人は同時に情緒的にも論理的にもなりえるから、両概念は二項対立していない。同様に、「感性と知性」や「言語とイメージ」なども、つねに併存または一体統合しているので、二項対立と呼ぶのはふさわしくない。

以上の説明で、二項対立と二律背反を混同することはなくなるだろう。但し、これで一安心はできない。難儀なことに、二項対立は「対義語」と区別がつきにくいのである。この話はまた別の機会に拾うことにする。

つかみのセンス

劈頭と掉尾という難解語がある。それぞれ「へきとう」、「ちょうび」と読む。始まりと終わりでもいいのだが、なかなか強い語感を備えている。他に、導入と結論、冒頭と末尾などもある。文章なら文頭と文末、お笑いならつかみとオチ。と、ここまで書いて思い出した。玄関と奥座敷というのもある。二年半前にそのことについて書いている。

極力儀礼的に話に入らないようにするなど、つかみの研究には熱心なほうだが、まだまだ芸が浅い。うまくいく時もあるが、初見参の場に臨んで傾向と対策が不十分ゆえ、無難に話に入ってしまう。少数のうるさ型への気兼ねもある。こんなことでは、つかみの焦点がボケる。つかみは何よりも印象的でなければならない。お笑い芸人ではないのだから、必ずしも笑わせるネタでなくてもよい。しかし、印象的とは、ある意味で普通と違うことである。普通と違う出だしには、奇異や緊張という要素もある。


「分析を好む人間とは、どんな人間なのだろう。これ自体、なかなか分析しづらいことである。発揮された結果としてしか目に見えない。この才能が抜群であるとしたら、分析の作業は楽しくて仕方ないだろう。(……)」
(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』)

 本題に入るまでに、こんな理屈が4ページにわたって述べられる。

「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。もっとも、事態をすぐに飲み込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。」
(安部公房『無関係な死』)

常態ではなく、行き場のないこの気分が最後まで続くが、この書き出しだけで完全につかまれてしまっている。

「その小男はいかにもくたびれていた。彼はのろのろと人ごみを縫いながら、駅の構内を横切ると、出札口へとやってきた。そこで行列に並んで、じっと順番を待っていたが、肩を落とした格好には疲れがにじみ出ており、茶色の背広もかなりくたびれていた。」
(フィリップ・K・ディック『地図にない町』)

数年前までずっと電車通勤していたから、ぼくには見慣れた光景が描写されているにすぎない。だが、その慣れの向こうから異様な匂いが漂ってくる。

「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。(……)」
(カフカ『変身』)

あまりにも有名な冒頭である。あまりにもあっけらんかんと書かれているので、クールに真実として受け止めようとしてしまう。

以上掲げた例は若い頃に読んだ小説であり、すべてが不可解のつかみ、不条理のつかみ、不自然なつかみのいずれかから作品を始めている。この類は人前での話向きではないが、凝視させ次を待たせるにはどうすればいいかを示すお手本になってくれる。


大工のサクランボ親方が、子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれと、どんなふうに出会ったか、その一部始終。

むかしむかし、あるところに……
「王様だ!」 小さい読者のみんなは、すぐにそういうだろうね。
残念ながら、そうではないんだ。むかし、あるところに一本の棒っきれがあった。(……)

これはよくご存知の『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)の冒頭だ。このパターンは軽快でほほえましい。一工夫すればさらにユーモラスに、あるいは一転してシニカルにも応用できる。なお、つかみばかり読んでいてもつかみのセンスは身につかない。すべて読むからこそ劈頭の効果がわかるのである。

人を象徴するもの

ここ二、三年、目線がリテラシー、思考、言語に向いている。仕事上の場数のお陰で、ずいぶんいろんな人たちと付き合ってきて、ようやく他人の発想メカニズムが見えるようになってきた。少し話せば、ものの見方や考え方の特徴がある程度わかる。もうしばらく付き合えば、頭の使い方の上手・下手までも診断して処方してあげられる。さらに、その人の長所を減殺している固着観念が何であるかもだいたいわかる。

別に予言者であるかのように自分を持ち上げているのではない。よく他人を観察することの意味、他人のどこを見るかというコツがつかめれば、将来の予言は無理だとしても、「おそらくこんな人だろう」と言い当てることくらいは誰だってできるようになる。占いの専門家には悪いが、人間というものは、手のひらや水晶やトランプや生年月日や星座にではなく、ことばの使い方や仕事ぶりや日々の暮らし方により強く象徴されると思う。

「あの人は背が高く、ハンサムであり、金回りがいい」などというのも、その人の形容である。いろいろある特徴から目ぼしいものを引き出したという意味で、この表現は彼を「抽象」したものと言える。しかし、こんな特徴はまったく個性的ではない。希少なようで案外そうではなく、「背が低く、不細工であり、金がない」と象徴される人たちと同数かそれ以上いるような気がする。身長や美醜や貧富ごときで人を知ろうとするのは甘い。この意味で、雑誌によく掲載されている心理テストの類も胡散臭い。


人間は「言語的動物」という表現によって象徴される。鳥類が「飛翔的動物」であり、魚類が「泳流的動物」であるように。ぼくたちはことばで羽ばたき、ことばで泳いでいる。どこを? 人間関係が複雑に入り組んだ社会環境を。ことばをよく用いないということは、鳥が羽ばたくことをやめ魚が泳ぐことをやめることに等しい。ことばを鍛錬することは環境適応のための必須要件なのである。

言語は思考に先立つ。このことをリテラシー能力でつまずいている人たちに何度も伝えている。外部環境から遮断された状況で、書きも語りもせずに、沈思黙考することなど不可能なのである。沈思黙考という四字熟語はお気に入りの一つではあるが、これは多分にイメージ的であって、現実的に考えることとは違う。むしろ脱言語的世界に没入して、「思索よりは詩作」するような感じではないか。

その人が何を考えているか。一つの質問に対する答え方でわかる。その人の書くこと、語ること、意見を交わすこと以外のどこに、その人の思考の痕跡を見い出すことができるのか。どこにもない。人間が言語的動物であるかぎり、言語のありようを見れば人がわかる。

「きみ、よく考えているか?」
「はい」
「じゃあ、その考えていることを、一つぼくに聞かせてくれないか?」
「できません」
「なぜ?」
「うまく表現できないのです」
「……」。

これを、考えているがうまく話せない状態と勘違いしてはいけない。「考えていないから話せない」のであり、「話さないから考えられない」のである。思考の活性度は言語の活性化によって高まる。大江健三郎に『「話して考える」と「書いて考える」』という本があるが、言語と思考の関係をとらえて言い得て妙である。

付箋紙メモの行き先

いろいろと自問していることがおびただしい。問われていることも多数、ここに依頼されているテーマが上乗せされて、少々収拾がつかなくなっている。かと言って、忙しくなったり慌ただしくなったり気が急いたりしているわけではない。ただ、何と言うか、散漫としていて焦点を絞り切れない感覚に陥っている。こういう感じを「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」とぼくは呼んでいる。

「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」に良いも悪いもない。その状態は価値判断と無縁の現象にすぎない。もし無理にでも意味を見い出そうとするなら、どちらかと言えば好ましくないことが一点だけある。それは、ここまで書いてきてもなお、頭の中は一行メモの付箋紙で溢れ返っていて、何を書こうとしているのか未だに定まっていないことだ。カオスの中からカオスをなだめる術は生まれてこない。カオスの状態は外部からの強い刺激か、あるいは外部に対する執拗な働きかけによってのみ秩序へと向かう。

考えたい・深めたい・広げたいテーマが山ほどあって、思考・深耕・展開への意欲も指向性も強いのだが、何から手をつけて何と何を関連づけていくかがよく見えない。誰もが身に覚えがあるはず。抱えているすべてのテーマについて、浅瀬で逍遥している時間が延々と続くのだ。繰り返すが、それでもここに良し悪しなどない。なぜなら、一寸先は闇かもしれないが、視界の開けた眺望点かもしれないからである。


秩序へ向かう一つの方法は、一枚の付箋紙だけを偶発的に取り上げて、他を見えないところに格納してしまうことである。今日のところ、こうして手元に残ったのが「事業の目的、顧客の創造」というメモである。ピーター・ドラッカーのあまりにも有名な次の箇所が、この付箋紙メモの発端になっている。

If we want to know what a business is we have to start with its purpose. And its purpose must lie outside of the business itself. In fact, it must be in society since a business enterprise is an organ of society. There is only one valid definition of business purpose: to create a customer. (……)
「事業とは何かを知ろうとすれば、まず事業目的が出発点になる。しかも、事業目的は事業それ自体の外部に見出さねばならない。実際、企業は社会の一器官であるから、事業目的は社会にあってしかるべきだ。唯一妥当な事業目的の定義は顧客の創造である」(拙訳)

事業目的が顧客の創造であり、それがすべてで最終目的であるという議論を、いろんな機会に耳にしてきた。しかし、目的と手段がある時、なぜ目的のほうが手段よりも重要なのかを説明できた人はいない。このドラッカーの説を引く人たちは、事業目的が顧客の創造にあるのだから「それが一番重要だ」と、あまりにも短絡的なのである。人生の最高善であり最終目的を「幸福」だとする時、その幸福に近づく行程や手段を重要度で下位に見立ててよいのか。ノーである。上記の文章から三、四段落後に書かれている次の文章と併せて考えてみる必要がある。

Because it is its purpose to create a customer, any business enterprise has two――and only two――basic functions: marketing and innovation.
「事業の目的は顧客の創造であるから、いかなる企業も二つの、たった二つの基本的な機能を持つことになる。すなわち、マーケティングとイノベーションである」(拙訳)

マーケティングとイノベーションという機能によって顧客の創造へと向かう……これが事業なのだというわけである。一点注目せねばならないのは、顧客の創造の「顧客」が原文では“a customer”と「一顧客」になっている点である。決して集合名詞ではない。ドラッカーに与するかそうでないかの前に、きちんと解釈だけはしておきたいものだ。この先いくら書いても一晩で答えが出るわけでもないのでここでピリオド。続きはいずれ取り上げるが、ビジネスマンなら暇な折りに一考する価値があると思う。


脳内が収拾不能になったら、とりあえず上記のように書いてみることである。何もしないよりもきっと少しは見晴らしがよくなるはずだから。

イタリア料理とワインと・・・

『イタリア紀行』と題して雑文エッセイを54回にわたって書いた時期がある。本ブログに長く付き合っていただいた読者なら記憶に残っていると思う。先ほど調べたら、最終回は2009年の9月だった。つまり、1年と4ヵ月経ったことになる。ヨーロッパに最後に旅したのが2008年の2月~3月。まもなく3年になろうとしている。

めっきりイタリア離れをしている今日この頃だが、年が開けてから集中的にNHKハイビジョンのイタリア特集を観る機会があった。毎日、複数の番組が数時間から十時間くらいにわたって放映された。すべてイタリアにちなむものだ。再放送もいくらかあったものの、初めての番組も楽しむことができた。こんなきっかけからイタリア語の本を開けたり久々に音読したり。会話をしてみたら、おそらくだいぶなまっているに違いない。

無性にイタリア料理を食べたくなった。よく食べてはいるが、ランチでパスタばかり。ディナーとしてゆっくり食べてみたくなったのだ。国内のイタリア料理店はどこも本場水準、いや、むしろ凌ぐレベルに達してきたから、近場でも十分に堪能できる。だが、午後8時に予約を取り、午後7時に仕事を終えて大阪から芦屋まで出掛けた。もう何年も前からその店のことを聞いていたのだが、なかなか縁がなかった。遠戚がオーナーシェフをしている、夜しか営業していないトラットリア(trattoria)。小ぢんまりとして肩肘張らない料理店のことをそう呼ぶ。


少々遠出になるとは言え、寒さや歳にかこつけて邪魔臭がってはいけない。もっと早くこの店に来るべきだったと反省させられたのだ。良質の味と良心的サービスにはまずまずの知覚を持ち合わせているつもり。だが、上には上があるものである。この店は元バールだったが、常連客に薦められて本格的料理を手掛けるようになったらしい。

数種類のおかずを盛り合わせた前菜、ボローニャ風ラグーソースのタリアテッレ(平打ち生パスタ)、それにボリュームたっぷりのオッソブーコ(骨髄の入った仔牛の骨付き脛肉の煮込み)。これにエスプレッソが付いて、さあいくら? とクイズに出したくなるほど、とにかく旨くてリーズナブルなのである。ワインは好きだがたくさんは飲めない。それでもお気に入りの赤ワイン、モンテプルチアーノ・ダブルッツォをグラスになみなみ3杯。

仕事の絡みもあって、風土から見たヨーロッパの小麦・牧畜と日本の稲作・漁業について再学習している。和辻哲郎の『風土』にこうある。

「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定せられているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。」

ちなみに、小麦と米の選択にも同じことが言える。

この説に大きくうなずく。そして、はるか遠くのイタリア風土が育んだパスタと肉を頬張った翌日に、米と魚を融合した食文化の最たる寿司を堪能しようとする日本人の貪欲を思う。ぼくたちの食習慣から風土の固有性が失われて久しい。地産地消的に言えば、これほどルール違反をしている民族も珍しい。それでも、その節操の無さは異文化受容の柔軟性とつながっている。日本人は間違いなく世界一の美食家であり食性が広いのである。願わくば、スローフード発祥のイタリアに見習って、もう少しだけ食事に時間をかけてみたい。

モノクロ映画と陶芸

《五感な街・アート・スローライフ》のカテゴリに関連するテーマを三ヵ月近く取り上げていない。必ずしもアートに無縁の日々ばかりではないが、これまでそうしてきたように、このカテゴリではできれば写真を入れたいと思う。ところが、掲載したくても写真がない。カメラが壊れたわけではない。秋が深まってからは手ぶらで出掛けていることに気づいた。光景や体験をカメラに収める余裕がなくなったのか、それともしっかり即時的にマインドで取り込めるようになったのか。後者であってほしいが、単に持ち運びが億劫になっただけかもしれない。

年に四回のハッピーマンデー。正月が明けて三日ほど働いたら、いきなり最初の三連休がやってくる。新年早々にこんなに心身を緩めていいのかと一抹の不安を覚える。少なすぎると愚痴をこぼすが、大型連休や三日働いて三日休みなどというのはご褒美過剰ではないか。若い頃はきつい職場にいたので休みを歓迎した口だったが、今では休日にも少々仕事を入れる。そのほうが「衰脳化防止」には効くような気がしている。とか何とか言いながら、新年最初のせっかくのハッピーマンデーだ、遠慮なく活用することにした。現金なものである。


ドイツ映画(2009年)『白いリボン』を観た。ドイツ・オーストリア・フランス・イタリアの合作である。モノクロ映像のせいか、あるいは時代考証がよくできているせいか、20世紀初頭の、第一次世界大戦前夜のドイツの小村の空気や人間関係、階級社会の生活がよく描かれていた。生真面目だが陰湿、虚勢や強がりに生きつつも徐々に心のどこかが疲弊していく。悪しき、そして捨てがたき封建制度。禁欲的日々には誇りと鬱憤が重なり合う。随所に〈二項対立〉を見て取った。二項対立なのに、どこかで妙に折り合っているような不思議な共同体の姿……この頃からドイツの歯車が狂い始めていった。映画評論は苦手なので、これ以上立ち入らないでおこう。

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翌日、大阪市立東洋陶磁美術館に赴いて『ルーシー・リー陶芸展』を見た。中央公会堂のすぐそば、ぼくのお気に入り散歩コースの途上にある。自宅から歩いて半時間、少々寒い昼前だったが、会場を後にする時には気分がとても浄化されて、逆に温まって帰ってきた。

単独展になると世界に散らばっている陶芸品を一堂に集める。そんな機会はめったにあるものではない。どちらかと言うと、陶芸は疎いジャンルなのだが、とてもわかりやすい作品群であった。上品であり形状も色も清廉なセンスなのである。写真は図録の表紙。日本商工会議所会頭賞を受賞しているらしく、とてもいい出来映えのカタログだ。

妙なもので、いい器を見た直後の一週間は食事処の食器にも目が向くものである。アートは居心地の良し悪しがはっきりするものだが、遠ざけ気味の名作を時折り鑑賞しておくことは、日々の感受性に少しは役に立つものである。もちろん、仕事の仕上げにあたってもう少し凝ってみようと意識が働いてくる。さて、週末はどんなアートスポットに出掛けるか、文章を書いているうちに少々愉しみになってきた。

寡黙から失語へ

「ことばの実感」。少し奇異な表現だけれど、どんなものだろうか。ことばを使っているという実感。「読む・聴く」は認知系なので受け身のように思われるが、獲物を追うように読んだり聴いたりすることもある。そんな時は、こちらからもことばの矢を放ちことばの網を張っている。反応的ではあるが、かぎりなく「ことばを使っている」という状態に近い。とは言え、その状態が可能になるのは、「書く・話す」という主体的・能動的言語活用があってのことだ。

少々背筋が寒くなる話だが、丸々一ヵ月間一人で暮らし、まったく言語を使わない状況を想像してみる。実際にやってみてもいいのだが、おぞましい人体実験になるような予感がする。新聞や本を読んでもいいし、テレビを観たりラジオを聴いたりしてもいい。しかし、ことばを書いたり発したりする行為は一切禁じられる。誰かと話すというのもダメである。この時、わずか一ヵ月ではあるが、ぼくたちにどんな変化が起こるだろうか。実は、パソコンに向かう日々はかぎりなくこれに近い。

文字を読んだり音声を聴いたりしているので、完璧に非言語的環境に隔離されるわけではない。しかし、日記やメモを書いたり独り言を喋ったりすることができないのである。つまり、読んだり聴いたりすることに対してリアクションが許されない。ただ読みっぱなし、聴きっぱなしである。こんな状況で、ぼくたちはことばの実感を持ち続けることができるのだろうか。「考えるという行為にはことばの使用実感がある」と思いたいが、残念ながら、ことばを使用するからこそ思考実感が起こるのである。ことばを書き話すことが制限された状況で、はたして考えることができるのだろうか。


直前の段落で「~だろうか」と二度問いはしたが、答えが「できない」であることくらいはわかっている。一人だったら、人はことばを使わなくなる。使わないからことばが磨かれることもない。デリケートな意味合いも徐々に失われていくだろう。読んだり聴いたりするだけでは、自分に向かってくる道の意味は形成されるが、こちらから世界に出て行く道の意味は生まれてこない。ことばは、インプットとアウトプットという頻繁な出入り、自他間の活発な意味の往復運動によって鍛えられる。そうして、やがて思考も強靭になっていく。

寡黙が美談だったのも今は昔。そんなことでは、情報化社会を生き抜けるはずがない。いや、いつの時代も、人間関係の第一要件は「おしゃべり」だったのだ。言語と思考の不可分な一体性を思えば、語ることをおろそかにしてはならないのである。空理空論に雄弁であっても、日々のコミュニケーションに手を抜いてダンマリを決めこんでいては行動が伴わない。日々の寡黙は失語を招く。ちょうど、毎日歩かないとやがて歩けなくなるように。

話さない者は話せなくなる。現実の世界を無批判的に生き、疑念の一つも抱くことなく、時間を流し時間に流されて生きていく。こうしてことばの実感が失われていく。ことばの実感とは自己の実感である。自己が感じられなくなれば、いっさいの可能性も消失する。いや、可能性が残るとしても、その有無を誰かと論争する必要があるだろうか。昨日と同じ今日、今日と同じ明日でいいのなら、言語は影に隠れ、やがて不在となる。そして、言語に不要のラベルを貼った瞬間、もはや思考は起動しなくなる。

人が話さなくなるきっかけはいろいろある。成人の場合は、都合が悪くなったりジレンマを抱えたりしてうろたえ、やがて口を閉ざすようになっていく。遅疑逡巡するとことばの出番が少なくなるのである。

類似性への気づき

論理思考の研修経験は豊富であるものの、何もかも承知しているわけではない。ある程度詳しい分野もあるが、きっちりと誰かに説明する段になると話は別である。他者に説明できないのは十分にわかっていないからなのだと自覚している。だいたい論理学で扱われる、〈演繹〉や〈帰納〉などの用語につきもののペダンティック臭が気になる。と書いて、この「ペダンティック」などということばがその最たるものだと気づく。これは衒学的という意味。やれやれ、日本語で説明してもやっぱり鼻につく。「オレは知識があるぞと、ひけらかすこと」である。

未だによくわかっていると胸を張れないのが、最重要語である〈論理)、そしてその形容詞である〈論理的ロジカル〉の意味である。論理学で扱う論理という用語になじむ前に、「あの人(またはあの人の話)は論理的ではない」というように日常的な使い方を身につけてしまっている。ここから、論理が「筋の通っていること」、ひいては話の中身にまで立ち入って「矛盾していない、理路整然としている、明快である、わかりやすい」などと理解する癖が身についてしまっている。これはこれで必ずしも都合が悪いわけではないが、論理学では論理という用語をもっと素っ気なくとらえてしまう傾向がある。

ついこの間も、〈推論〉と〈類推〉の違いについて聞かれた。専門用語辞典のほうが精度が高いのはわかっているが、この質問を誰かにしなければならない人が辞典を読んで細密な定義の相違を理解できるはずがないのである。論理学者が耳にしたら怒るかもしれないけれども、手ほどきというものはおおむね大づかみなものなのだ。「推論は一つまたは複数の前提から結論を導くこと。類推は、この前提のうちに別の確証性の高い何かとの類似を見い出して結論を導くこと」と説明した。

そして、「論理というのは、中身のことではなく、推論の型のこと。前提を認めたら結論を認めざるをえないような型ならば論理的と言える」と一言付け加えた。これが余計なお世話で、質問者を混乱させてしまったかもしれない。わかりやすく解説しているつもりだったが、やっぱり「ペダンティックで衒学的で内包的定義」に過ぎる。ほんとうに嫌になってしまう。隙間なく規定された体系というものは、用語を精密部品のように操ることを強制するのである。


Xという前提からYを導く推論」を論理学で学ぶときはたいてい答がわかっている。「生卵を硬い床に落とすと(X)、割れてしまう(Y)」という具合だ。この推論は、Xという原因からYという結果が生まれるという因果関係を扱っている。論理の前に経験でわかってしまう。ところが、現実世界ではこうはいかない。「この広告を掲載すれば(X)、売上倍増になるだろう(Y)」のように、XYという結果をもたらすには、X以外にどんな前提が必要かという点まで考え抜かねばならないのである。

差異がわかっているから類似に気づき、類似がわかっているから差異に気づく。類似と差異はワンセットだ。AというパンとBというパンの味がよく似ている。Aに使用している小麦の産地がCなので、Bのパンもそうかもしれない――これが類似による類推(あるいは類比アナロジー)である。推論の蓋然性、つまり、「ありそうなこと」は定まらない。

「いま確かなことは三つだけである。一つ目は顧客の価値観が多様化していること。二つ目は顧客の願望が高度化していること。そして、三つ目は、この二つ以外に確かなことは何一つないということだ」。

これはフィリップ・コトラーのことばだが、要するに、確かなことは二つしかないということをデフォルメしたものである。ところで、ポンペイの遺跡で有名なヴェスヴィオ火山の噴火で亡くなったプリニウス1世(紀元23年-79年)に「唯一の確かなことは、確かなものなどないということだ」というのがある。コトラーはこのことばをもじったのか。それとも偶然の類似性か。いずれにしても、類似性に気づくためには、ある事柄を既に知っている別の事柄と照らし合わさねばならない。差異も同様である。気づくとはそういうことなのである。

二つの問題と知の分母

問題発生や問題解決などの四字熟語は、問題が歓迎されるものではないことを明示している。「問題が起こりました!」はいい知らせではなく、「問題が解決しました!」はいい報告である。「発生すると困り、消え失せるとうれしくなるもの、なあ~に?」というなぞなぞに「問題」と答えれば正解になる。もっと具体的に、シロアリの巣または借金またはシミ・ソバカスなどと答えてもよい。と言うよりも、{シロアリの巣、借金、シミ・ソバカス、クレーム、犯罪、凡ミス、etc.}を外延的要素として束ねる集合を〈問題〉と呼んでいるのである。

しかし、ここで少し冷静に考える必要がありそうだ。問題は頭を抱えるような困りごとばかりなのだろうか。いつも煩わしい事態を招くものばかりなのだろうか。実は、問題とぼくらが呼んでいるものは、正確には二つの種に大別できる。一つは〈プロブラム(problem)〉で、排除したり解決したりすべき原因を含むもの。そしてもう一つは〈クエスチョン(question)〉で、わからぬことを疑ったり新たな方法を問うたりすることである。便宜上、前者を〈P問題〉、後者を〈Q問題〉と呼ぶことにする。

「胃が痛い状態」はP問題である。P問題ではあるが、素人である本人には原因不明であることが多い。そこで専門家である内科医がその原因を診断し、原因を取り除くべく胃薬を処方したり養生の方法を指南する。P問題で困っているなら、問題の原因を排除する。それによって問題が解決する。原因を究明できれば問題は解決するが、原因が一つであることはほとんどなく、たいていの場合複数因が存在する。


Q問題がP問題とまったく異質であるわけではない。「胃が痛い」と感知した時点ですぐさま医院に駆けつければ、問題はP問題に留まる。「なぜ胃がしくしく痛むのだろう? 昨日食べた何かがよくなかったのか? それともここ最近の暴飲暴食のせいか? いやいや、仕事のストレスで胃が衰弱しているのか? これから胃腸を強くするにはどうすればいいのだろうか?」などと問うことによってはじめてQ問題へと発展し、少しでも推理したり振り返ったりする動機が生まれる。問いを発したからといって答えが見つかるわけではないが、問うことは答えに向けて考えるきっかけを誘発してくれる。

以上のように、Q問題はP問題の原因のありかと関わることがあるが、注意は、原因とは無関係な発見や創造に向けられる。そして、発見や創造への展望は、Q問題に入ることから開き始める。「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)という至言を本ブログでも何度か紹介しているが、太字のように断言できるかどうかはさておき、問うことなくして答えが見つかることは到底ありえない。

混沌や無知蒙昧の中から問い(=Q問題)は生まれない。それどころか、P問題にすら気づかない。問題が問題であることに気づくためには、〈非問題〉に関する膨大な知のデータベースが前提になるのである。非問題の知識とは、平常の秩序的・共通感覚的なパターンのライブラリーだ。〈参照の枠組みフレーム・オブ・リファレンス〉としての知の分母と言い換えてもいい。問題意識はここから顕在化してくる。たとえ外部からやってくるトラブルであっても、それがトラブルであることを頭と照合しなければならないのだ。無知にあっては、PであろうとQであろうと、問題が生まれる余地などないのである。ゆえに問題を抱え問い続けているのは、知が健全に働いていることの証左と言える。悩むには及ばない。

短時間と行数制限の負荷

リテラシー能力や思考力を鍛えるために様々な方法があることを知っている。そして、どんな方法にも必ず大量と集中が関わっているのを体験してきた。「ただひたすら」の境地、只管三昧の世界に通じる方法論である。最近社会人を対象とした講義を受け持つ准教授の話を聞く機会があったが、大学院においてさえ徹底的に大量に読ませ、「なぜ」を考え抜かせ、議論を尽くさせることが必須トレーニングであるという趣旨であった。

その昔、日本とアメリカの国語の教科書を比較して何よりも驚いたのは、内容編集などではなく、分厚さの違いであった。アメリカの国語(つまり米語)の教科書のボリュームを見れば、大量インプットが学習コンセプトであることが一目瞭然。学習と言うものの、まさに「習うより慣れろ」なのだ。つべこべ屁理屈をこねずに、何度も何度も繰り返してパターン認識せよ、というわけである。これは、読み・書き・聴く・話すという言語四技能の”オートマチック化”にほかならない。これに対して、ぼくが義務教育であてがわれた国語の教科書のページ数は貧弱であった。名作の数ページを抜いてきて精細に吟味させ、人それぞれの鑑賞であってもいいはずの文学作品の解釈に「しかるべき模範解答」を発見させようとしたのである。

膨大なルーチンワークの積み重ねの末に運よく〈偶察〉があるというのはよく知られた話だ。もちろんルーチンワークの中身は決して穏やかな取り組みの連続ではない。混沌あり失敗あり絶望あり、なのである。天才を除外すれば、発明や発見における競争優位の原理は明らかに分母の量だろう。分母の膨大な量が分子の一粒の実をらせれさせる。しかし、大量集中の鍛錬に耐えることができるのは若い脳ゆえである。残念ながら、齢を重ねるごとにこうした鍛錬はきつくなっていく。


だが、絶望することはない。幸いなことに、大量集中の代替トレーニング法があるのだ。それは、量の代わりに質へ、集中の代わりに分散へと対極にシフトすることではない。大量に伴うのは長時間であるから、それを短時間に変えればいいのである。短時間に変え、しかも難度を上げるのである。これによって集中密度も高まる。長い時間をかけてルーチンをこなす代わりに、短時間で難度の高いトレーニングを積むのだ。

言いたいことが山ほどある時、到底こなせない時間内で要点を説明しようと試みる。取捨選択にともなう負荷は大きい。また、10010にするというのは、抜き出しだけで事足りるものでもないし、単なる要約で片付く話でもない。たとえば、メッセージの本質を簡潔な概念で――しかも30分ではなく――わずか3分以内で言い表わすのである(なお、ここで言う概念の説明としては、中島義道著『観念的生活』の「言語によって捉えられたものであり、概念的把握とは言語によって捉える把握の仕方である」という一文が適切である)。

書くことにおいても同様である。『企画書は一行』というような本があるが、さすがに極論だとしても、原稿用紙30枚を5枚にしてみるような急進的な削ぎ落としを試みるのもハードルを上げる効果がある。本ブログの行数が長いという意見をいただくが、ぼくにすれば本来200行くらい書きたいところを340行に制限しているのである。安直に書いているようだが、短時間でそれなりにプレッシャーをかけているつもりだ。ともあれ、中熟年世代には、時間と行数の縮減によって難度の高いテーマを語り書くことをお薦めする。