効果を見極める

一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快になるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。

ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようと頭に鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因があり、遠因と近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが混ざり合って一つの結果が生まれているわけではなく、結果も複合的であることがほとんどだ。因と果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。

医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。


一度でもお試しサプリメントを注文すると、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。「足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりする時に思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。

テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなくなってきた」と言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。

サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。

二つの問題と知の分母

問題発生や問題解決などの四字熟語は、問題が歓迎されるものではないことを明示している。「問題が起こりました!」はいい知らせではなく、「問題が解決しました!」はいい報告である。「発生すると困り、消え失せるとうれしくなるもの、なあ~に?」というなぞなぞに「問題」と答えれば正解になる。もっと具体的に、シロアリの巣または借金またはシミ・ソバカスなどと答えてもよい。と言うよりも、{シロアリの巣、借金、シミ・ソバカス、クレーム、犯罪、凡ミス、etc.}を外延的要素として束ねる集合を〈問題〉と呼んでいるのである。

しかし、ここで少し冷静に考える必要がありそうだ。問題は頭を抱えるような困りごとばかりなのだろうか。いつも煩わしい事態を招くものばかりなのだろうか。実は、問題とぼくらが呼んでいるものは、正確には二つの種に大別できる。一つは〈プロブラム(problem)〉で、排除したり解決したりすべき原因を含むもの。そしてもう一つは〈クエスチョン(question)〉で、わからぬことを疑ったり新たな方法を問うたりすることである。便宜上、前者を〈P問題〉、後者を〈Q問題〉と呼ぶことにする。

「胃が痛い状態」はP問題である。P問題ではあるが、素人である本人には原因不明であることが多い。そこで専門家である内科医がその原因を診断し、原因を取り除くべく胃薬を処方したり養生の方法を指南する。P問題で困っているなら、問題の原因を排除する。それによって問題が解決する。原因を究明できれば問題は解決するが、原因が一つであることはほとんどなく、たいていの場合複数因が存在する。


Q問題がP問題とまったく異質であるわけではない。「胃が痛い」と感知した時点ですぐさま医院に駆けつければ、問題はP問題に留まる。「なぜ胃がしくしく痛むのだろう? 昨日食べた何かがよくなかったのか? それともここ最近の暴飲暴食のせいか? いやいや、仕事のストレスで胃が衰弱しているのか? これから胃腸を強くするにはどうすればいいのだろうか?」などと問うことによってはじめてQ問題へと発展し、少しでも推理したり振り返ったりする動機が生まれる。問いを発したからといって答えが見つかるわけではないが、問うことは答えに向けて考えるきっかけを誘発してくれる。

以上のように、Q問題はP問題の原因のありかと関わることがあるが、注意は、原因とは無関係な発見や創造に向けられる。そして、発見や創造への展望は、Q問題に入ることから開き始める。「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)という至言を本ブログでも何度か紹介しているが、太字のように断言できるかどうかはさておき、問うことなくして答えが見つかることは到底ありえない。

混沌や無知蒙昧の中から問い(=Q問題)は生まれない。それどころか、P問題にすら気づかない。問題が問題であることに気づくためには、〈非問題〉に関する膨大な知のデータベースが前提になるのである。非問題の知識とは、平常の秩序的・共通感覚的なパターンのライブラリーだ。〈参照の枠組みフレーム・オブ・リファレンス〉としての知の分母と言い換えてもいい。問題意識はここから顕在化してくる。たとえ外部からやってくるトラブルであっても、それがトラブルであることを頭と照合しなければならないのだ。無知にあっては、PであろうとQであろうと、問題が生まれる余地などないのである。ゆえに問題を抱え問い続けているのは、知が健全に働いていることの証左と言える。悩むには及ばない。