語句の断章(17) 似合う

「どう、このドレス、似合ってる?」「ああ、とてもよく似合ってるよ」などというやりとりの場面は昔の映画やドラマでよく見かけた。現実の若い二人はユニクロの試着室のあたりでこんなやりとりをしているのだろうか。もしそうなら、ほとんどの場合、女子が聞き男子が褒めているに違いない。

ところで、「似合ってる?」と聞かれて「似合ってるよ」と答えるのが不思議でならない。無責任と言ってもいいほどだ。

「このドレス、似合ってる」を文法にのっとって書き換えると、「このドレスは私に似合っている」になる。ぼくたちは高頻度のことばほどぞんざいに取り扱う。この「似合う」も例にもれない。似合うとは「釣り合いがとれている」という意味だが、話は洋服と本人だけで片付かない。「赤は私に似合う」と自信満々になられて困るのは、時間・場所・状況というTPOを踏まえていないからである。似合うには「ふさわしい」という意味もある。葬式にふさわしくない赤は、実は本人にも似合っていないのだ。

「和服がよくお似合いのあなた」を「あなた」を主語にして動詞表現を加えたら、「あなたは和服によく似合っている」となるか。ならない。モノが人に従属するのであって、人がモノに似合うのではない。「あなたはそのTシャツにぴったり合っています」と言えば嫌味に聞こえる。さらに、「お前はその安物のTシャツに似合っているんだよ!」と下品に書けば、この構文自体が侮蔑を含んでいることが明らかになるだろう。

似合うからどうってことはない。よくよく考えれば、「そのネクタイ、似合っているよ」は必ずしも褒めているわけではない。分相応という意味もある。「きみにはその程度かな」というニュアンスなきにしもあらず。ちなみに、英語では“You look nice in red.”のように言う。これは明快である。「赤を着ると映えるね」。似合うということは、そのモノによってよく見えなければならないのだ。

苦情の語調

十日前に焼鳥屋の日替りランチを食べた。ランチの話題はふつう味云々ということになるのだろうが、そうではない。もう一度書くが、食べたのは日替りランチである。カラアゲ定食ではない。ぼくと知人男性の二人で行った。知人はカラアゲが好物である。その日替りランチを注文した。鶏のカラアゲ、豚肉とオクラの炒めもの(スパゲッティ添え)、コロッケの三品がワンプレート。これに小鉢一品。もちろん、ご飯と味噌汁とお新香もついている。以上がプロット。

ぼくたちの23分後に入店してきた男性3人が隣のテーブルにつき、同じ日替りを注文した。しかし、ランチは彼らに先に配膳された。時間差なくサーブされる可能性があるので、まあいい。これくらいのことで文句は言わない。言わないでよかった、ほどなくして日替りが来たから。しかし、持って来たのは一人前のみ。ぼくの前に置いた。同じものを頼んだのだから、当然すぐに来ると思い、「じゃあ、お先」とゆっくり食べ始めた。

だが、待つこと数分、あと一人分が来ない。「よし、ここで一言しておくか」と思ったちょうどその時に来た。女性店員は知人の前にランチを置いてそそくさと去る。その盛り付けを見て呆れた。キャベツの上にカラアゲが寂しそうにポツンと1個ではないか。ぼくのは3個だ。メニューの日替りランチの内訳の一つ目にカラアゲと書いてある。味噌汁の多少ならともかく、カラアゲの個数を人によって変えてはいけないだろう。これで三度目、店員を呼びつけようとしたら、知人がぼくの殺気を感じたのか、「あ、自分で言います」とつぶやいたので、任せた。


後ろを通りかかった別の店員を呼び止め、人のいい知人はまだ手をつけていないカラアゲ1個を指差して、「すみません、これちょっと少ないんですけど……」と言った。とても上品だが、こんな文句の言い方では話にならない。間髪を入れずに、「同じランチを注文して、こっちがカラアゲ3個で、今来たのが1個というのはおかしいだろ!?」とぼくが追い打ちをかけた。店員の顔に「しまった」と「どうしよう」が錯綜した表情が浮かんでいる。

結論から言うと、厨房の男性が小皿にカラアゲ2個を持って来て詫びた。「なんでこんなことになるんでしょうね?」と知人は怒る様子もなく、ぼくにつぶやく。「店ぐるみの準確信犯だよ、これは」とぼく。「その時間ごとにおかずの増減が起こるから、グループが違えばおかずの量を調整する。カラアゲが足りなくなって1個にした。その穴埋めのつもりで、きみの豚肉とオクラの量を多めにしたんだろう」。

同じグループだが、何かの拍子に厨房への注文が別扱いになった。運んできた店員は一人客だと思っていたが、二人連れで、しかも先に一人前がサーブされているのに気づいた。だが、カラアゲ1個はやばいと思いながらも、そのまま置いていったに違いない……というようなことを知人に話したら、「ただの凡ミスではないですかね?」と鷹揚である。物分りがよすぎるのも困ったものである。

店員の顔には、「カラアゲ1個はまずいが、ええい、ままよ! 何か言われたらその時はその時」という表情が明らかに浮かんでいた。「きみね、クレームのつけ方が穏やかすぎる。化け物のようなクレーマーになってはいけないが、毅然とした語気の強さを欠いてはいけない」とぼくは知人に言った。「これちょっと少ないんですけど……」はない。学校給食と違うんだから。店を出る頃、店の対応よりも知人の対応にぼくは苛立っていた。

時には見て見ぬふり

バッグが落ちた。「堕ちぶれたバッグ」ではなく、文字通りの「落ちたバッグ」。しかも、他人のバッグ。特急列車に乗ると、膝の前あたり――つまり前席の背面――に網袋がある。上部の口がゴムになっているから、ペットボトルや雑誌をはさんでも落ちてこない。弁当をタテにしてはさむこともある。最近の弁当箱は細かく仕切りられているので、おかずの位置はあまり乱れない。

たいていの特急は通路をはさんで左右が二席ずつ。進行方向に向かって、左から窓側A、通路側B、通路側C、窓側D。その日座ったのはD席だった。しばらくして、二十代前半らしき女性三人組が乗ってきた。二人が通路向こうのA席とB席、そしてもう一人がぼくの隣のC席に座った。最初の数分間、彼女らは通路をはさんで楽しそうに話していたが、通路向こうのどちらかが「私、寝ようっと」と言ってからは静かになった。

ぼくは読書に集中していた。隣の女性(仮にC嬢)はしばらく携帯でメールをしていた。別に携帯ディスプレイを覗き見したわけではない。否応無しにぼくの視界に入ってくる。なにしろ、本の左ページの端とC嬢の右手の距離はほんの30センチほどしかない。突然、C嬢は携帯を閉じて膝の上に置いていたバッグに入れた。そんな動作すらわかってしまう。バッグはマチのない柔らかそうな皮製で、おそらく40×50センチくらいの大きさだ。もう一度書くが、ぼくは何一つ細かく観察などしていない。隣人の動作が勝手に視界に入ってきたのである。


C嬢は前方の網袋に、絶対入り切りそうもないそのバッグを挟んだ。挟んだだけなので、全体の8割ほどがゴムの口の上方にはみ出ている。バッグをそんな状態にしたまま、C嬢はトイレに立った。列車は揺れる。案の定、ほんの10秒も経たないうちにバッグが床に落ちた。ぼくは通路向こうのA嬢とB嬢のほうに目をやったが、二人ともすでに安眠態勢に入っていて、気づくはずもない。

自分の前を歩く人が財布を落としたら、その財布を拾って歩み寄り「落ちていましたよ」と言える。しかし、この場合、バッグは落ちたが本人がそこにいない。隣の見知らぬ男がそのバッグを拾い上げて、座席に置くとしよう。戻ってきたC嬢は本を読み耽っているように見えるぼくを怪しむに違いない。最悪は、バッグを手にしているちょうどその時に目撃される場合だ。どんなに正当な理由をつけようとも、言い逃れはできない。

拾って座席に置いてあげても、C嬢が戻ってきたら自分から状況説明するしかない。「あなたが席を離れた後にバッグが床に落ちました。拾って座席に置いておきました」とわざわざ言うのか。ただ隣に座っているだけの、見も知らずの男のそのような言をぼくなら信用しない。要するに、本人不在のこのような状況で落ちたバッグには絶対に触れてはいけないのである。ゆえに、ぼくは見て見ぬふりをして本を読み続けていた。戻ってきたC嬢は落ちているバッグを見て、その後にぼくの横顔を睨んだに違いない。当然バッグの中を丹念にチェックしていた。やむをえない。ぼくだってそうしただろう。

あることを知りながら気づかなかったふりをするのは耐えがたい。だが、これしかすべはなかった。「見て見ぬふり」はけしからんと思っていたが、やむをえない自己防衛なのかもしれない。ぼくの中ではややすっきりしないものが残っているが、「知らなかったくせに気づいていたふりをする」よりはましかもしれない。

一番つながりの怪

車を運転しない。所有していて運転しないのではない。車を持っていないのである。もっと正確に言うと、運転免許を取得したことがないのである。別にアンチオートモービリズム(反自動車主義?)の思想家でも運動家でもない。人生において何百分の一かの偶然によって縁がなかっただけの話である。

「車がなくて困ったことはないか?」とよく聞かれてきたが、車がないこと、つまり「車の欠乏」が常態であるから困りようがない。いや、困っていることを想像することすらできない。だってそうだろう、無酸素で生きることができる人間に「酸素がなくて困ったことはないか?」と聞いているようなものではないか。但し、「車があれば……」と想像できないほどアタマは固くない。「もし手元に自由になる百万円があれば……」を仮想するのと同じ程度に「もし車があれば……」と仮想することはできる。

と言うわけで、真性の車オンチである。車オンチではあるが、広告やマーケティングのお手伝いも少々しているので、仕事柄テレビコマーシャルはよく見るし、その中に自動車も含まれる。だが、傾向としては、他商品に比べると淡白な見方になっているのは否めない。メーカー名も車種も覚える気がないので、コマーシャルの構成やプロットも流すようにしか見ていない。だから、狂言師の野村萬斎がいい声でホンダのフィットを持ち上げているのを耳にしても、「ふ~ん」という無関心ぶりであった。


ところが、先日、数度にわたってじっくり見てしまったのである。そして、見てしまった結果、「これはダメでしょう、ホンダさん!?」とつぶやいたのである。「たとえばケーキだと、一番売れてるケーキがやっぱり一番おいしいはず」という命題はどうにもいただけない(広告コピーに命題とはなんと大げさなと言うなかれ。英語では“selling proposition”、「売りの命題」と言う)。

販売至上主義やナンバーワンがどうのこうのと道徳論を持ち出すつもりなどない。一番は二番よりもいいことくらいわかっている。言いたいのは、「一番売れてるケーキ」が何を意味しているか不明であること。ケーキの種類なのか、特定パティシエが創作するケーキなのか、お店やベーカリーを暗示しているのか、さっぱりわからない。仮にイチゴショートが一番売れているのなら、それが一番うまいということになる。そして、秋には栗たっぷりのモンブランにおいしさ一位の座を奪われるというわけだ。

次に問題なのは、あることの一番が自動的に別のことの一番になるという、無茶苦茶な論法である。一番売れてる◯◯は一番流通上手、一番宣伝上手、一番安い……など何とでも言えるではないか。ケーキだから「おいしい」がぴったり嵌っているように見えるが、「一番売れてる本」なら「一番何」と言うのだろうか。一番売れてる本がやっぱり一番おもしろいはず? 一番ためになるはず? 一番話題性があるはず? 一番読みやすいはず? どれでもオーケー、自由に選べる。命題はまったく証明されていない。たかがコマーシャルだけれど、そう言って終われない後味の悪さがある。

「一番売れるケーキが一番おいしいはず」という仮説を持ち出した手前、この広告は「日本で一番売れているフィットが10周年。これまたおいしそう」で締めくくらざるをえなくなった。いや、ケーキを持ち出したのだから、「一番おいしいつながり」以外に終わりようがない。おいしいケーキは想像がつくが、おいしい車にぼくの味覚は反応しない。狂言が好きだし、従妹もホンダアメリカにいるので大目に見たいが、わざわざケーキをモチーフに使った意味が響いてこない。ケーキと車がどうにもフィットしないのである。

語句の断章(16) 自由

仕事柄出張が多く、新幹線や特急に乗車する際は必ず事前に席を取る。ここ数年はインターネットで予約している。同業の友人にはいつも行き当たりばったりという猛者もさがいる。指定がいっぱいなら自由車輌に乗るらしい。現地に行ってこれから講演するという時に、1時間も2時間も立つ勇気と体力はぼくにはない。

ところで、かねがね不思議に思っていたのが自由席と指定席ということばである。ふだんぼくたちは自由を求めている。「何が欲しい?」と聞けば「自由が欲しい」と言うこともある。逆に、指定されるのは窮屈だと思う。だが、自由席に乗ろうと思えば早くから並ばなくてはならず、ある意味でこれは自由ではない。自由席を確保するためには競争も覚悟せねばならない。これも自由ではない。競争に敗れてずっと立ち続けるのは、どう考えても不自由である。英語の“non reserved”は「無予約」だからよくわかる。わが日本語はなぜ「自由」と呼んでいるのだろうか。

翻って、たくさんある席からたった一つ、そこに座ることを強制されるのが「指定」である。指定席を求めたのは確かにこのぼくではあるが、実際、その一席を指定したのはJRだ。条件の付けられた指定席にもかかわらず、こちらのほうが気分は自由になれる。

柳父章の『翻訳語成立事情』に自由という語の厄介さが紹介されている。明治時代になって、英語で言えば“liberty”“freedom”に「自由」という二文字を当てた。もちろん造語ではなく、それまでも知識階級では自由ということばが二種類の意味で使われていた。ふつうは「勝手気ままに振る舞うこと」を自由と呼んだ。決して好ましいニュアンスではない。他方、仏教では、「自らにる」と読めるように、独立自存ないしは自律的、ひいては「とらわれない境地」をも意味した。こちらには好ましい語意が備わっている。

翻訳語としての自由は権利と結びついて独自の意味を醸し出すようになった。但し、独自と言いながらも、たかだか百年ちょっとの歴史しか担っていないから、ぼくたちはまだ十分に使いこなしていないようなのだ。先の書物の著者は「(自由ということばの)意味があまりよく分っていないのである。そして、意味がよく分らないことばだからこそ、好んで口にされ、流行するのである」と述べている。

広辞苑では「自由」に、手元の英語の辞書では“free (-dom)”という単語にスペースを割き、多義性を象徴するような解説を延々と連ねている。辞書編纂者の苦労が読み取れる。自由席とはどうやら「特別料金の負担のない」という意味のようである。「わたし、自由になりたい」はどうやら「わがまま三昧」のようである。身近な語句でありながら、未だに用いる人の間に語感のズレのある自由。さて、あなたの求める自由とは何か、あなたはほんとうに自由になりたいのか? “Free(暇)な折りに一度考えてみる価値がありそうだ。

比喩や類比の使いどころ

メタフォーやアナロジーなど、カタカナの魅力にほだされて、ことばの表現は修辞にあると錯覚したことがあった。弁論術や説得術を学んだ人たちにもよく似た経験があるに違いない。比喩は楽しいし、見事にはまれば効果的である。比喩は直喩や換喩や隠喩などに分類されるが、とりわけ隠喩の芸が細かい。この隠喩がメタフォーと呼ばれるものだ。

「うちには手足がいないんだよねえ」とこぼす経営者は隠喩を使っている。経営者が語るから手足は社員のことである(自分は「頭」のつもり)。社員は社員でも、おそらく機動力ないしは実働部隊を意味しているのだろう。なるほど、比喩はわかりやすさを目指すが、テーマとは別の〈参照の枠組み〉を使うので、意図に誤差が生じる場合も当然ありうる。隠喩と似ているのが、類比アナロジーである。類比は〈ABCD〉という構造を持つ。「サル:木=弘法:筆」という具合だ。「サルも木から落ちる」と「弘法も筆の誤り」が類比されている。

「可愛いお子さん」と言いにくいときに「元気なお子さん」、「美人」と言いがたいときに「気立てのよい娘さん」と言うのも、ある種の比喩である。あまりにも使い古されたので、婉曲のつもりで「気立てがよい」と言ってしまうと、「不細工」が暗示されてしまう。気をつけなければいけない。比喩や類比を総称して弁論の世界や文学では〈修辞法レトリック〉と呼ぶ。古代ギリシアから受け継がれてきた伝統的な言論技法である。効果的だが適材適所の技もいる。つい最近、新総理がいきなり「比喩のデパート」と形容したくなるほど三連発したので、正直驚いた。


まずは「ノーサイドにしましょう、もう」から始まった。ラグビーをよく知らないぼくでも一応わかる。しかし、「もう終わりにして握手をしましょう」という表現に比べて、どれほどわかりやすくなったのか、疑問が残る。「ノーサイド」という語感に何となくスマートさを覚えた知り合いもいるが、これがラグビーの試合終了のことであり、試合が終了した時点で敵味方は関係ないという知識を持ち合わせている老若男女は多くない。仮に意味がわかるにしても、党内に敵味方を想定しての比喩を国民に聞かせるべきではない。

この比喩に続いて登場したのが「泥臭いドジョウが金魚のまねをしてもしょうがないじゃん」である。相田みつをにそれらしい一文があると本人が言った。相田みつをの作意は知らないが、これも自身とドジョウの類比に惚れ込んだ結果の勇み足と言わざるをえない(勇み足は相撲の比喩)。ドジョウは泥の中に棲んでいるが別に泥臭くはないし、金魚を食糧にする気はないがドジョウなら食ってもいい。

ドジョウが金魚よりも下位もしくは劣等という意味で使っているようだが、それなら金魚が誰なのか、どんな存在なのかを明らかにしないと、比喩は完結しない。つまり、金魚を特定しないのならわざわざ金魚を引き合いに出す必要はなかったわけで、単に「私はドジョウのように泥にまみれるつもりで政治に責任を取っていく」という、直喩一本で十分だった。

最後に繰り出した比喩が「党幹事ミッドフィルダー論」である。ノーサイドを使ったのだから、ずっとラグビーで押し通せばいいのに、今度はサッカーだ。攻守兼備のミッドフィルダーにたとえていてほんとうにいいのだろうか。「局所ばかりでなく全体を見渡せる政治手腕を発揮してもらいたい」とストレートに表現すればすむ。野球の監督が「土俵際でうっちゃりました」と相撲用語を使うのに違和感があるように、政治家がラグビーだの、ドジョウだの、サッカーだのとたとえるのは場違いだ。もしかすると、党内にラグビー好き、ドジョウ鍋好き、サッカー好きがいたため、党内融和のためにバランスよく比喩を使ったのかもしれない。

新総理はレトリック過剰な弁論術を学んだのだろう。だが、政治は比喩の前に現実であることを強調しておこう。なお、本ブログは政治論ではない。あくまでもレトリックの適材適所の話である。念のため。

ことばの毒性

ぼくたちは自分が発することばの威力と無力に関して勘違いすることが多い。

軽口を叩いたつもりが、軽妙な話として受け取ってもらえず、わざわいになることがある。舌禍の震源はたいてい悪口や中傷誹謗である。悪意はなかったものの歯に衣着せぬ物言いのために招く舌禍もあるし、無知ゆえについ口を滑らせてしまう場合もある。

二十歳の頃から論争術に染まってきたし、外国人とも激論を交わしてきたから、ことばの毒性については重々承知している。かと言って、この毒性を怖がっていると言語による説得が成り立たなくなるのも事実だ。ことばにはハイリスク・ハイリターンの要素がある。毒性という威力に怯えて甘いことばばかりささやけば、今度はことばが無力化することになる。どうでもいい話を交わしたり関係を潤滑させようとするだけの、無機的なメディアに堕してしまうのだ。ノーリスクだがノーリターン。

さりげないことばのつもりが相手を傷つけ、意気込んで伝えようとしたことばが相手に響かない。メッセージは誤解され、あるいは異様に増幅され、あるいは過小に評価される。舌禍を招く人々には毒舌・極論・断言傾向が強い。

「地位が高くなるほど足元が滑りやすくなる」

つい忘れがちなタキトゥスの名言だが、誰かが転んだ直後に要人たちは口を慎むようになる。骨抜きされた論争に妙味はない。


荀子に「人とともに言を善くするは布帛ふはくよりも暖かに、人を傷つけるの言は矛戟ぼうげきよりも深し」ということばがある。荀子と言えば性悪説で有名だが、ここではそんな先入観なしに素朴に読んでおきたい。ことばはきちんと用いれば衣服となって身体を温めてくれるが、ことばが引き金になる傷はほこよりも深くなる、ということだ。

こんな比喩もある。「コトバは、美しくみごとに心の想いを彫刻するペンテリコン大理石であると同時に、『ピストル』でもある」(向坂寛『対話のレトリック』)。このピストルの比喩は、サルトルの「ことばは充填されたピストルだ」を踏まえている。さて、功罪はことばから派生するのか。いや、ことばを使う者によって大理石かピストルに分岐する。

本音でズバズバとものを言うことと、驕り昂ぶって失言するのは同じではない。激論を交わすことと、相手の人格を否定するのは同じではない。節度とルールをわきまえれば、ことばが矛やピストルになるのを防ぐことはできる。舌禍はよろしくない。しかし、過敏症もいただけない。揚げ足を取られないようにと慎重に表現を選び、やや寡黙気味に差し障りのないことばかりを語るようになるからだ。

重要な意思決定の場面でことばをぼかし意見をぼかす人たちが増えてきた気がする。異種意見間で交流しようとすれば、小さな棘が刺さることくらい覚悟すべきだろう。