食事処に物申す

酒はだいたいどこの店にも同じものが置いてあるが、料理にはそこにしかない品もしくは味という前提がある。たとえ他店と大差のない料理であっても、「うちにしかないうまいものを出す」という気迫が漲らねばならぬ。「この店は味自慢」と認めるからこそ、こちらも料理を決めてからそれに合う酒を選ぶ。
以上のようなことを、あくまでも個人的な意見として、「何を食べるかも決めていないのに、はじめに酒の注文を聞くべからず」と前回のブログに書いた。今日はその続編である。お品書きもしくはメニューについての話。

以前、3,500円、5,000円、7,000円のコース料理を出すビストロがあった。将来顧客になるかもしれない団体の代表者と公認会計士とぼくの3人での会食だ。ぼくが場所と食事を決めてご馳走するという設定だった。店に入って席に就くなり、店員が「本日はご予約ありがとうございます。5,000円のコースで承っております」と言ってくれたのだ。バカな確認をするものである。
コースとアラカルトは注文のしかたが違う。アラカルトならメニューを全員に配るから、接待であれ割り勘であれ、値段は全員に知られる。それはそれでよい。しかし、コース料理の場合で誰かが他のメンバーを接待している時に、コース名と値段を明かしてはいけない。
割烹に「おまかせ料理」を予約して行った。カウンターに座ったら「本日はおまかせ料理ですね」と確認された。よく見ると、壁に「おまかせ料理2,980円」と貼紙がしてあった。がっかりである。
イタリア料理店でワインリストからワインを選び、「これをお願いします」と指差ししたら、「こちらの2,800円の赤ですね」とご丁寧にも金額を言ってくれた。
ご馳走されるほうは、ワインリストを渡されてもなかなか選びづらい。ざっと視線を走らせても、たいてい「お任せします」と言う。しかし、店によっては値段の安いものから高いものへと「秩序正しく」ワインを掲載しているところがあるから、指の差す位置によってどの程度のものを注文したかがすぐにわかってしまう。
以上のようなデリカシー違反の店は一流にはなりえないだろう。それはともかく、接待する側でも接待される側でも疲れる手続きなので、この頃は気のおけない人としか食事に行かないようにしている。メニューの値段もオープン、店も明朗会計というのがいい。
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英語とイタリア語が併記されているレストランのメニュー(イタリア・オルヴィエート)。

注文の順序――食事か酒か

どう見ても居酒屋とは呼べない、ある程度の格のある割烹。あるいは少々値の張る寿司屋。こんな店で席に着くなり、「まず飲み物のご注文からおうかがいします」と促される。

庶民的居酒屋で多人数ということになれば、それもやむをえない。年配者が和を乱すこともないだろうと、一応妥協する。しかし、実のところ、「とりあえずビール」など論外だ。集まりの冒頭の乾杯で足並みを揃える必要などまったくない。これは単に幹事と店側の都合にすぎない。二十代に入って酒を飲み始めた頃から異様に思っていた。

酒を飲むことよりも食べることを優先しているからかもしれないが、「飲みに行かないか?」に未だになじめない。「食べに行かないか?」でなければならない。「飲みに行かないかには食も含まれているんだよ」と言い含められても、納得しづらい。野暮を承知で言う、ぼくは食べに行くのであり、食べたいものに合わせて飲み物を決める。ゆえに、最初にドリンクを注文しない。する時は、何を食べるかがわかっているときである。


先月、吉田類の『酒場放浪記』で「(焼きとりの)白レバーを頬張り、生ビールで胃に流し込む」というナレーションを耳にした。不快であった。「とりあえずビール」で始め、その後お店がお薦めする一品の白レバーを注文した場面である。

胃に流し込まれる白レバーにも流し込む生ビールにも失礼である。早食い大食いコンテストでもあるまいし。じっくりと味わい、食と酒の相性を味わうべきではないか。自称グルメには咀嚼時間の短い輩がとても多い。三口ほど噛んで酒を流し込むくせに、食通ぶってはいけない。

場末の居酒屋とは一線を画すると自負する飲食店なら、洋の東西を問わず、食べ物の注文が先である。メニューを眺めて「ああでもない、こうでもない」と考慮する時間から食事が始まっている。よく来る店で注文するものもだいたい決まっていても、時間をかける。しかるべき後に、好みの酒を選ぶか薦めてもらう。

もちろん例外もある。高級な焼酎を一本もらったりワインの店で薦められて買ったりする時は、「はじめに酒ありき」だ。また、料理と連動させなくてもよい食前酒や食後酒もありうる。しかしながら、何を食べるかに迷い、その料理に合いそうな酒を選ぶという時間を楽しみたい。おそらく、「飲み放題付き宴会コース」なるものが、選択の自由と時間を奪うようになったのだろう。

時刻表からの自由

あらかじめ時刻を決めることによって、どれだけ助かっていることか。予定通りに日々の仕事がはかどるし約束も守れる。

特急や飛行機が定刻から1時間も2時間も遅れるようでは困る。いや、もっと困るのは、予定の時刻よりも早く出発されることだ。これでは間に合いようがない。

しかし、敢えて限定的に異論を唱えてみたい。日常的な小さな時刻の決まりごとにはもっと鷹揚であってもいいではないか。いや、1時間に5分から15分の頻度で発着するような公共交通機関に時刻表などいらないのではないか。時間は重要である。しかし、時間を細かく刻んだ「時刻」はスローライフを遠ざけ、心の平安を奪いかねない。


いつぞや「カフェと舗道と地下鉄メトロがパリ名物」という話を書いた。パリのメトロはとても便利である。なにしろ、数百メートルに一駅あって、網の目のように走り、慣れてしまえば乗り継ぎがとても簡単だからだ。駅のホームはパターン化されておらず、タイルもデザインもすべて違う。これまた慣れてしまえば、駅名の表示を見なくても、ここが何駅だと言い当てられるようになる。

パリのメトロに時刻表はない。「あと何分で電車が来る」という表示は出る。それで十分である。さらに、バスにも時刻表がない。バス停でも「あと何分で到着」という表示が出る。ぼくの経験ではよく待っても最長10分前後である。実を言うと、ぼくは国内外を問わず、バスが気に入っている。地下鉄以上にである。なぜなら、バスなら街の光景が見えるからだ。観光客はバスに乗るほうがいい。

日本では、地下鉄のダイヤを分刻みにした代償として、バスの運行が都会でも1時間に12本というルートが増えた。残念なことである。時刻表などいらないから、せめて15分に1本ほど同じ路線をぐるぐる走らせてもらえればありがたい。

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パリのメトロの入口。
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バスの始発の停留所。

読んだふり

会読会を3年前から主宰している。ずいぶんごぶさただと薄々気づいていたが、調べてみたら昨年6月以来集まっていない。そのことを反省するものの、メンバーの誰からもプッシュも問い合わせもないのも不思議な話だ。なければないで済むのならいっそやめようか。いや、むしろ逆で、無用の用と割り切って意地でも続けたくなる。 来月あたりに再開するつもり。

どんどんページを捲って楽しめる本もあれば、宿題として強制でもされないと読めない本もある。ましてや、読んだ本について仲間に語るとなると、単に読むだけではない、読解咀嚼力を試されるプレッシャーもかかる。しかし、ここに「読んだふり」という方法がある。これをテーマにした二冊の本を紹介する。 


一冊は『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著)。目次に目を通しただけで、ろくに本文を読みもせずに薀蓄できる方法を指南する。但し、タイトルに似つかわしくなく、まったく胡散臭い本ではない。ちなみに、一部の本について、ぼくはかねてからろくに読まずに「類推読み」をしてきた。たとえば一章のみ、いや、場合によっては一頁だけ読んで本について語ろうと思えばできないことではない。

もう一冊は読んだふり(河谷史夫著)。著者の書評を集めた本だ。読みもしていないのに読んだふりして書評を書くようなニュアンスがあるが、これも別に怪しい本ではない。むしろ、この本は前著とはまったく逆のコンセプトで題名を付けている。

「あなたのあの書評はいいですねぇ。相当深く読み込んでおられますねぇ」と褒められた時に、「いえいえ、ろくに読んでいませんよ。ただ読んだふりしてるだけです」と答えるのだ。実は、ものすごい読み方をしているにもかかわらず。こちらは、よく読んでいるくせに齧っただけのふりをする、読書ダンディズム。

古典も新刊書も読みたい、しかも熟読も多読もしたいと欲張るのなら、これら二冊が象徴する読書法を取り入れざるをえないだろう。ところで、ここで紹介した二冊をぼくがどの程度読んだのか。それは想像にお任せする。ある本について語る時、読んだのか読んでいないのかは案外見破られないものである。