頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書をしてみた。そんなバカな! 余計にアタマを苦しめてしまうではないか。だが、必ずしもそうなるとはかぎらない。意外だろうが、今朝はすっきり目覚めたのである。頭痛はない。「知の疲れは別の知で癒せ」は、思いのほかしっかりとした経験法則になっている。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋と言ってもいい。
その本、自宅に置いてきたので正確に引用はできないが、ある章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマを扱っていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま町内の居酒屋で飲んでいるとしたら、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。
ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? で考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし、1点かもしれない。
不幸な状況であっても、小さな一つの出来事で幸せになれるかもしれない。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心も晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。
いみじくも、上記のテーマは今週土曜日の私塾で取り上げる一項目と一致している。その項目の見出しは「不足の発見――自分に足りない情報探し」である。
人間においては、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。企画や編集の仕事をするときも、いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるが、それでは凡人発想の域を出ることはできない。調べもの好きな人のエネルギーには感服するが、導かれるアイデアにはあまり見所がない。
いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこかから安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることだってある。
“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。
“Teachers are conspicuous by absence.”
「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。情報編集の時代、足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。
オカノノートを読むたびに、自分の知識の無さに気づかされます。ありがとうございます。これからも、たまに読ませていただきますよ。
愛読(?)いただき感謝申し上げます。面識はないですよね? たいした知識ではないですが、小さな情報や少し変わったものの見方を読んでいただいてヒントにしていただければ幸いです。