結果としての表現の平凡と陳腐に対する失望など大したことはない。もっと大きい失望感は明けても暮れても平凡と陳腐の表現で場を繕う人たちに催される。
新しい表現の可能性があり、自分もまた新しい変化に船出できそうなのに、おざなりに平凡と陳腐で済ましてしまうのは不幸である。注意すべきは、このことと「普通」であることは違うという点。普通は当然の成り行きとしてそうなる場合があり、また意識的にそうなることもある。平凡や陳腐が他との差異化によってすぐれて見えることはまずないが、普通には際立ったものや新しいものに負けない優位性が生まれることがある。
複写機が“PPC”と表現されるようになった1970年代、それまで主流だったケミカル特殊紙に代わって普通紙が使えるようになった。その機械は“Plain Paper Copier(PPC)”、「普通紙複写機」と呼ばれた。乾いた紙に印刷されるのは画期的であった。当時、複写機を重宝する職場にいたぼくには普通が輝いて見えたものである。
百貨店、大衆食堂などはハードとしても名称としてもずいぶん色褪せた。一世を風靡した事物や概念のさだめであり、一過性の流行に棹差した商品とその名称も同じような運命を辿る。しかし、歴史的に使い込まれたにもかかわらず、ほとんど陳腐化せずに生き残ってきたことばがある。暮らしや街、避暑、旅、風景などがそうだ。これらのことばはイメージと意味を豊かに関連づけてくれる。
毎日飲むコーヒーもその一つ。珈琲という古めかしい表記にも新鮮味を覚えることがある。毎日手にして読む本も例外ではない。暮らしぶりや旅は日々、さらには年々更新される。コーヒーと本を不可分な関係として愛しむぼくにとって、本を読みながらコーヒーを飲むという日常茶飯事は日々圧倒的に新しく、一杯として一冊として同じ体験は決して繰り返されない。
ごくあたりまえの普通が、人間と社会に対して揺るがない〈普遍〉を形づくってくれるのである。