拠り所は出典不詳の知識

出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は20人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが……」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。


もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1,300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない。ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない。

出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、〈創造性=思考×情報〉という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている。但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては〈思考≒1/情報〉が成り立ってしまう。

「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになる。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

自己検証しない人々

相変わらず悪のささやきに騙される人たちが後を絶たない。手を変え品を変えての詐欺に悪徳商法。騙す側も懲りなければ、騙される側も懲りない。もしかすると、マスコミを定期的に賑わす事件はテーマは変われども同じ登場人物で繰り広げられているのではないか。オール前科数犯、オール被害数回という設定だ。道徳論的には騙すほうが悪いと言っておかねばならないが、騙される人たちの懐疑不足と検証不十分も大いに戒められるべきだろう。

ふと思う。騙されるためには、人的交流が前提となる。人付き合いしていなければ、他人に騙されることはない。「ネット上で知り合った」というのも新しい交際の形態にほかならない。ある種の「お人好し」には他人の影がちらほら見えてしまうものだ。他方、こういう人たちと対極を成す種族も今時の人間関係事情を照らし出す。直接的対人関係が希薄で、なおかつネットでの出会いも志さない人々。彼らは他人には冷ややかな視線を向けたり一言一句を懐疑したりする。まるで近世哲学のスーパースターだったデカルトの末裔のように、少しでも疑わしければ徹底的に疑う。

デカルトの演繹は、〈明らかに真以外は認めない〉〈小さく分けて考える〉〈単純から複雑へと向かう〉〈見落としがないかすべて見直す〉の四つの規則にしたがう。疑って疑って疑い続ければどうなるか。最後に一つだけが残る。「疑っている精神」である。「何から何まで疑い、すべてが偽だと考えていても、そう考えている自分だけは確かな何かだ」とデカルトは思い至り、あの哲学史上もっとも有名なスーパーキャッチ、我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム」を生み出した。


デカルト懐疑主義はよく批判に上がる。「我思う、ゆえに我あり」なら「我食べる、ゆえに我あり」でもいいではないか、と。なぜ「我思う、ゆえに『思う』あり」というように導出しないのか、と。たしかに「コギト・エルゴ・スム」という響きのラテン語は17世紀の知性の心を過度に揺さぶったかもしれない。それでもなお、デカルト自身は幼い頃から身につけてきた自分の先入観や感覚をも排除して、肉体から何から何まで懐疑した。ここには強烈な自己検証も含まれていたことを忘れてはならない。

おそらくデカルトはすべてに辛かったのであろう。ところが、当世の懐疑主義者は「他人に辛く、自分に甘い人々」なのである。他人の失態は一事が万事とばかりに目こぼしすることはなく、自分のエラーは試行錯誤よろしく大いに許容する。言い換えれば、他人の過小評価、自分の過大評価……自分大好き、バーチャル完璧主義……。自分の回りに必ず一人や二人はいるし、自分自身の中にもそういう性向が少々あることに気づくだろう。

やむをえないことなのかもしれない。今こうしてキーボードを叩きPC画面上に文字を連ねている現実理解ほど、ぼくには確かな自己認識はできてはいないだろう。外に向けた鋭い懐疑の視線は、内に向けた瞬間、矛先を鈍らせる。自己検証というものは不足気味にして甘くなりがちな作業なのだ。こういう甘い習慣が形成されるとどうなるか。学ぶことができなくなり進化が止まる。では、どうすれば自己検証できるようになるか。相互検証を通じての自己検証というほかない。立場を入れ替えての論争術であるディベートにはその機能が備わっているのだが、そういう視点でおこなわれているのか、ぼくは懐疑的である。  

風土と食を考えるきっかけ

食への関心がきわめて旺盛なほうである。グルメや貪欲という意味の旺盛ではない。また近代栄養学的な視点からのマニアックな健康志向でもない。きわめて素朴においしいものをゆっくり楽しく食べたいと熱望するのであり、旬という季節感や土地柄という風土への意識が底辺にある。今ではまったく後遺症のかけらもないが、五歳のときに事故で腎臓を患い、その後の一年間、無味な食事生活を強いられた。塩分、糖分、脂肪分がほとんどなく、超薄めに味つけされた野菜とご飯ばかりを食べていた。「余分三兄弟」のない食生活であった。今の食への思い入れは、その反動のせいかもしれない。

世間で言う「飯食い」ではないが、米食民族の一人としての自覚はある。ぼくにとって、ご飯は必要欠くべからざる主食である。玄米や五穀米もいただくが、白飯が多い。但し、風土に忠実なので、本ブログでしばらく紹介していたイタリア紀行の折りには、“Quando siete a Roma, fate come i romani.”を実践する。「郷に入っては郷に従う(ローマではローマ人のように振舞う)」だ。だからパンとパスタとトマトと肉食中心の2週間でもまったく平気である。ミラノ名物リゾット頼みしてまで米を求めない。体調不良を来すこともない。

塾生の一人に米問屋の経営者Tさんがいる。給食業、弁当屋さん、飲食店向けに「おいしい炊飯」の啓発をおこなっている。米を買ってもらうための販売促進の一環ではあるが、情熱家はどこかで「損得抜き」の発想をするもの。彼のプレゼンテーションをお手伝いすることになった。彼いわく「炊飯技術が向上して家庭でのご飯が小量炊飯でも飛躍的においしくなった。米は大量に炊くほうがおいしいという通念があったが、業務炊飯はうかうかしておれない」。正直言って、おかずがおいしいけれど、ご飯が粘ってうまくないという店があって、がっかりする。これなら自宅の炊きたてのほうがうんとうまいと思ったりしていた。先週からこの仕事をきっかけに風土と食をあらためて考察している。


二十歳前後からの愛読書、和辻哲郎の『風土』に次のような一節がある。

食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。

ぼく流に言い換えれば、主義主張で食材や調理を考えるな、ということになる。過食やバランスの悪い食事は「知識」によるものである。知識がバーチャルグルメを生み出して、わざわざ食べなくてもいいもの、さほどおいしくもないものに向かわせるのである。もう少し切実かつ禁欲的に語れば、その時期に手軽に手に入る食材の恵みに依存するということだろう。ちなみに食材には保存のきくものと鮮度勝負のものがある。米や小麦やイモなどは前者だから年中口に入る。ゆえに主食になりえているに違いない。

今日の話に特別なオチはない。以上でおしまいだが、昨日飛び込んできたキリンとサントリーの企業統合決裂のニュースは、めでたしめでたしである。食品製造業の企業がメガ化する必要などどこにもない。ましてや食と風土を持ち出すならば、キリンにもサントリーにも「飲食と企業風土」の固有の独自性があるだろう。もし統合が実現していれば世界一の規模だが、おもしろくも何ともない巨大企業に映っただろうに違いない。ヴィトンとシャネルが一つになると文化崩壊が想像できるように、食産業にあってももっとも重要な文化性がどちらの企業からも消えてしまうことになっていただろう。   

「義理チョコ」の是非

「義理チョコの是非」を本気で問うことは絶対にない。結論から言うと、是でも非でもなく、好きか嫌いかの話にすぎないと思っている。たとえ百害一利であろうと、はたまた百利一害であろうと、一人ひとりが義理チョコを贈るか贈らないか、あるいは貰うか貰わないかを、自分自身で判断するしかない。また、貰った義理チョコに対して一ヵ月後にお返しをするかしないかも男性諸君の判断に委ねるしかない。

バレンタインデーが近づいてくると、「バレンタインデーなんかいらない」という論題や「バレンタインデーの義理チョコをやめるべきである」という論題を思い出す。ディベートの議論のテーマを論題と呼ぶが、バレンタインデーとチョコレートは入門者向けの格好の価値論題になってくれる。実際、かつてぼくの2日間ディベート入門研修の初日に実施する「ミニディベート」では、バレンタインデーをネタにした論題をよく扱った(なお、ミニディベートとはぼく独自の簡易ディベートの命名で、ふつうは「マイクロディベート」と呼ばれている)。

バレンタインデーの由来にまで遡って論争するまでもないだろう。また、いつ義理チョコが始まったかを追及しても意味がない。国や地方自治体、あるいは職場で義理チョコを制度にしているわけではないから、嫌なら習慣に縛られなければいい。そう、義理チョコの是非は政策論ではないのだ。だいたいがチョコレートを贈るのに「本命」も「義理」もないだろう。ダイヤの指輪を義理でプレゼントする男性はいないだろうし、一人の愛する女性に贈るときに「本命ダイヤ」ということばが彼の脳裏をよぎることもあるまい。職場の好きな人にチョコを贈っていたが、その人だけに贈ると目立つので、カモフラージュするためにその他の男性にも配った。それを義理チョコと呼ぶようになっただけの話ではないか。お中元・お歳暮もよく似たものである。


繰り返すが、義理チョコの是非は政策論ではない。広く容認された社会的慣習やしきたりでもない。あくまでも個人の判断に委ねられる年に一回のパーソナルイベントにすぎない。ゆえに、是非を議論するのなら、価値論でなくてはならないだろう。価値論は「本来白黒のつかないことを、白黒をつけるべく相反する議論を交わす」。最終的には本人が決めればいいのだが、せっかくだから遊び心で是非の白黒をつけようじゃないか――こんなふうに構えて議論するならいい。アームチェアーに座ってのディベートならともかく、実社会では成人が真顔で義理チョコの是非を論争したり論評したりしないほうがよろしい。あまりにも幼すぎる。

新聞に次のような四十過ぎの男性の投稿があった。

「『義理チョコ』をもらった男性が甘いものが嫌いだったり、お返しとかで経済的にも精神的にも負担をかけたりする場合があるからです。(中略)バレンタインデーにチョコを贈るのは製菓会社の商戦と割り切り、商魂に踊らされた贈り物、特に『義理チョコ』の習慣はやめるべきではないでしょうか。」(傍線岡野)

反論の内容よりも、下線部の問いかけが詮無いことなのである。制度でも何でもないのだから、投稿者が何と言おうと、義理チョコの習慣をやめるかやめないかは当事者たちが決めればいいことだ。いや、この投稿者だって「やめるべき」という個人的な意見を述べたにすぎないという見方もあるだろう。それならば、「製菓会社の商戦」とか「商魂に踊らされた贈り物」などという社会的な理由にまで論点を広げなくてもいい。バレンタインデーシーズンに限らず、製菓会社はいつでも商戦を繰り広げているし、商魂に踊らされた贈り物を持ち出すのなら、ビールも海苔もハムも同じだ。そもそも企業は商戦と商魂によって商売を成立させているのである。甘いものが嫌いな男性にチョコレートを贈るように、アルコールを飲まない人にビールを贈ることだってある。それが社交や交際の常である。

義理チョコ。贈りたければ贈ればよろしい。貰いたければ黙って貰えばよろしい。経済的・精神的負担になるなら贈らねばいいし、お返しが経済的・精神的負担になるならば貰わねばよろしい。そんなことをすると職場の人間関係がギスギスするなら、つべこべ言わずに、その程度の人間関係の職場だと割り切って義理チョコを贈り贈られ続ければよろしい。なお、聞くところによると、バレンタインデーが日曜日だとほっとする人が多いそうだが、案外その点にこそ義理チョコへの本意がありそうだ。   

適者生存について

オフィスのぼくの椅子の後ろの本棚に、ジェームズ・アレンの『「思考」が運命を変える』がずいぶん以前から収まっている。最近はこの手の生き方の手引き書をあまり読むことはないが、若い頃はデール・カーネギーなどを英文でよく読んだものだ。アレンの本も二、三冊読んだ記憶がある。「思考が運命を変える」という主張に対するぼくのスタンスは賛否五分五分。思考要因もあるが、環境や風土などの構造要因もあって、思考もその枠内で決定されるはずとも考えている。

その本のまえがきには次のように書かれている。

進化論には「適者生存」という考え方があるが、思考や行動においても、よい思考や行動が環境にもっとも適した「適者」として生き残り、悪い思考や行動は滅んでいく。

人類の歴史全体で見れば適者生存してきたかもしれない。また、好ましい思考や行動をする者が適者として残ってほしいという願望もある。だが、悲しいかな、現実が必ずしもそのようになってはいない。馬鹿げた思考をしたり愚かな行動に出たりする者が案外うまく立ち回って生き残り、適者を従えて威張ったりしているではないか。アレンは「原因と結果の法則は完璧な法則」と言うが、部分的・個別に見れば、好ましくない原因が成功という結果をもたらしているケースが結構目立つのだ。


というふうに、一見アレンにイチャモンをつけたようだが、原因と結果の法則がほぼ完璧に当てはまる例がある。それは飲食業界である。「まずくてぼったくり」は不適店であり必ず淘汰され、「うまくてリーズナブル」は生き残る。顧客獲得競争にあって、前者は滅びてしまうのである。年が明けてから、出張も少ないので、プチマーケティング研究を兼ねてオフィス近くの飲食店をつぶさに観察し、実際にランチに立ち寄ってもみた。この界隈で創業してから23年目、飲食店事情には店舗側のオーナーや料理人以上に精通していると自負している。

アレンの適者生存論が見事に当てはまる。勝ち組と負け組の鮮明な構図が浮かび上がるのだ。現在は勝敗が明確になって、負け組が閉店・廃業しつつある。つまり、店舗減少期に差し掛かり、少数の勝ち組が生き残ってそれらの店に客が集中している状況だ。競合激化から寡占共存の様相を呈している、と言ってもよい。隣のビルの地下のテナントなどはこの一年で三回変わった。現在の店も風前の灯、まもなく消えそうな雰囲気だ。おそらく、しばらくは少数の勝ち組だけが客の常連化に成功し、客を奪い合うのではなく分かち合って繁栄していくのだろう。勝つ者は鬼のように勝ち続け、負ける者はあっけなく滅びてゆく。

ところで、朝青龍はどうだったのだろう。最後の一事は論外だが、ある価値観から見た好ましくない行動の数々にもかかわらず、彼は頂点に君臨してきた。そういう意味では絵に描いたような「最適者生存」の例であった。だが、意に反して相撲界引退という幕切れは、彼が結果的に適者ではなかったことを意味する。彼に同情することはないかもしれないが、記者会見を見ていて思ったのだ。世界に出て行き活躍しているわが国のアスリートたちの、いったい誰があのような場面でその国の言語で質疑応答がこなせるのか。わずかに中田がイタリア語でヒーロー会見したのを知っているだけである。

見誤ってはいけない。顔は日本人のようで同じアジア人と思ってしまうだろうが、彼は騎馬民族の末裔、大草原で生まれ育ったモンゴル人なのである。思考構造は日本人とはだいぶ違うのだ。その彼の言語能力にぼくは舌を巻く。問われているのは、彼の品格や身の振り方なのではなく、相撲界という鎖国社会の中途半端な規範主義なのではないか。国技なのか国際的格闘技か? 日本固有の古典的興行なのかオープンなスポーツなのか? 自らの適者生存の危うさに気づかねばならないのは、相撲協会のほうだろう。  

能力について考えた一週間

ブログにはコメントをいただく。「ブログ上にコメントしにくい」という人たちは、メールや口頭で意見を寄せてくれる。この一週間は、まったく偶然なのだが、人および人の能力について考察する機会が多かった。言いっ放しにしておかないで、余燼が熱いうちにアトランダムに少し振り返っておこうと思う。


昨日の、アイデア不足を精神主義でごまかす話にコメントをいただいた。企画性の高い仕事をしている人なら誰もが経験するだろうが、アイデアは出ないときにはどんなに足掻あがいても出ない。現ナマの札束を目の前に置かれようと何十発の鞭に打たれようと、どうしようもない。焦る。焦ってどうするかというと、内からの叱咤激励系のコトバの鞭、すなわち「何が何でもやるんだ! 頑張るんだ!」で身体を打つ。もちろん効果などない。精神主義とは、ある意味で玉砕的であり「自爆テロ的」であることを知っておくべきだろう。アイデアが出ない時、ぼくは着実な作業に打ち込む。精神に向かわず現実に向かう。一年前のレジュメを書き直したりパワーポイントのフォントや色をいじったり。とにかくコツコツ作業を積み重ねる。アイスブレークの最良の方法は単純作業か、散歩だと思っている。


先週の金曜日に「ぼくは決して遅れない。足りない才能を納期遵守力でカバーするタイプである」と書いたら、「そんな心にもないことを」と言われた。「足りない才能なんて思ったことはないでしょ?」という意味である。いやはや、謙遜でも何でもないから、困った。人が一度読めばわかることを二度読まねばならないし、断片的で雑多な知識はまずまず持ち合わせているが、体系的に知を組み立てるのは苦手である。「かく仕上げたい」と思う方向に文章も書けていないし、仕事も運べていない。企画をしていながら、私塾のコンセプトを伝えるのは不器用である。ぼくは理想とする才能への道未だ険しと痛感しているのである。但し、確実にできることはその日のうちにやり遂げる。その一つが「期限を守る」なのだ。あり余る才能があっても、期限を破ればすべておしまい。ゆえに期限を守る。


「あ、この人、自分がわかっていないなあ」と感じることがないだろうか。たとえば、自分のことを笑わせ上手だと信じきっている人がいる。ジョークを言ったりはしゃいでみたり、タイミングを見計らっては笑わせようとする。また、間違いなく笑わせることができると確信している。もちろん彼は自分自身をおもしろい人間だと思っているから、ナルシストよろしく自分のネタにも笑う。やむなく周囲も苦笑い。こうして、彼は「オレは笑わせ上手」を生涯疑うことがない。他者が描く像と自画像の間には認識相違パーセプションギャップがある。自分はこうだと思っているほど、他人の眼にはそう映ってはいない。よく自戒しておきたい。


いろんな会社を見てきた。いろんな経営者も見てきた。成功法則はわからない。無策でもうまくいくし、諸策万全にして潰れていく企業もある(逆も真なり)。水が方円の器に随うように、人材は組織の大小やカラーに柔軟に適合するわけではない。水も固体、液体、気体と大きく変化したり多様な顔を見せるが、人材の多様性はそれどころではない。つくづく「十人十色」とはうまく言ったものだと思う。企業システムと人材には相性がある。あるシステムにどんな人材も適応するようなら、そのシステムそのものは平凡で、十人一色的特徴を持っているのだろう。システムから入るのではなく、人から入る。ぼくは「企業は人なり」よりも「人が企業なり」に分があると思っているので、人間の勉強をする。システムの勉強には熱心ではない。

無策ゆえに精神主義

これまで多種多様な企画を手掛けてきて、自分なりにある種の確信を抱くようになった。目的・願望と手段・方策の関係には、人間の弱さからくる法則があるようなのだ。この法則は仕事だけに限らず、人生全般にも通じるように思われる。

一つのゴールに対して手段が多いとき、人は数ある選択肢を前に決断に悩む。将棋の専門棋士が語っていたが、手が多く、しかもどの手を指しても良さそうな時ほど迷うらしい。アイデアが浮かびすぎて困るというケースが実際にはありうるのだ。これとよく似た経験がぼくにもある。ディベートで相手の論点が脆弱であったりゆゆしき矛盾を抱えている時、「どんな切り口でも論法でも容易に論破できそうだ」と直観する。ところが、豊富な選択肢は最上級思考へと流れて、結果的に決断を遅らせることになってしまう。かの二者択一なら、比較級思考するしかないからそれほど逡巡しない。

もっといいのは、一つの目的に一つの手段、一つの願望に一つの手立てだろう。できるできないはともかく、方法が明確な一つの場合、ぼくたちはそこに集中することができる。但し、一つの小さくて具体的な目的・願望が条件である。小さくて具体的だから、講じるべき手段も取るべき行動も明確になって功を奏しやすくなるのだ。「立派な人間になる」とか「幸せになる」などの、茫洋として掴みどころのない願いが、一つの具体的な策で叶うはずもない。


いいのか悪いのかよくわからないが、ぼくたちはおおむね大小様々な目的を定めたがる。あれもこれもしたいという願いはどんどん膨らむ。試みに、これまでしようと思ってできなかったこと、これからやってみたいと思うことをリストアップしてみればいい。あっという間に一枚の紙が埋まってしまうだろう。大はマイホームから小はランチで食べたいものまで、枚挙に暇がないはずだ。同時に、目的や願望を威勢よく掲げるわりには、日々の努力が足りず、先送りしている自分に気づくに違いない。

仮に十ほどの目的や願望を列挙したとして、それぞれに「対症療法」がありうるならば、時間はかかるかもしれないが、早晩達成や実現に近づいていける可能性はある。しかし、そもそも「うわべだけしたつもりやその気になるだけの対症療法」であってみれば、成果はたかが知れている。それに、十の対症療法を小器用に使いこなして日々施していくほどの根気が続くかと問えば、大いに疑問である。

そう、願望が大きくなったり増えたりするのに比べて、それらを叶えていく手段や方策を思いつかないのが人間というものなのだ。「したいけれど怠けてしまう」あるいは「したかったけれど熱が冷めた」という万人共通の性分。言い換えれば、願望にアイデアがついていかないのである。したがって、理想と現実の埋まりそうもない乖離を一気に何とかしようとして、「為せば成る!」と叫んだり「何が何でも頑張るぞ!」と精神主義に走ってしまう。具体策があれば確実に実行する。無策だから実行のしようがない。ゆえに精神主義でごまかす。何ともならないのは、やる気の欠如よりも具体的方策の不在に負うところが大きい。