人それぞれの難易度感覚

Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もある」と片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。

仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。

英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。


哲学に「他者問題」や「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか……などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかり何がわからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。

妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかないのである。

難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。  

ロジカルの程度

論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。

上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。

かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「10」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」と言えなければ、「この文章はとても論理的である」とも言えない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。


ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。

ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。

繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。

型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか――あるいは大きく逸れるか――が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。


以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事になったが、気を取り直してもう少し考えてみることにする。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い〈型を破る型はあるか、ないか?〉の答えになっていないのを承知している。

本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。

大半の問題は良識で解決する

ぼくの習慣に倣って二年ほど前から気づくこと、見聞きしたことをノートに記録し始めたKさん。二冊目に突入した二、三ヵ月前、「気持が切れないようにするために、何か書いてほしい」と言ってきた(一冊目のときもそうだった)。そして、表紙を開けて最初のページを指差し、「ここにお願いします」。頼まれて揮毫などする立場でもないが、ありがたいことに彼はぼくを師と慕ってくれているようである。最近造語したばかりの四字熟語があったのでためらわずに油性ボールペンで書き、これまた求められるまま日付を入れて署名した。

「善識賢慮」というのがそれである。「良識」と書くつもりだったが、「良」という文字よりも「善」のほうがバランスが良さそうなので咄嗟に変えた。バランス以外に他意はない。格別なニュアンスの違いがあるのかもしれないが、善識と書いたものの意図は良識のつもり。これは、フランス語の「ボンサンス(bon sens)」の訳語であり、英語の「コモンセンス(common sense)」から訳された常識とは違う。意味に重なりはあるものの、良識は主として判断力にかかわる理性的な感覚である。先天的な普通の感覚ではない。これに対して、常識は健全な人なら誰もが持っている知識とされる。常識は、時と場合によっては、好ましくない強迫観念や固定観念の意味を込めて使われることがある。

ちなみに賢慮はアリストテレスのフロネーシスから「すぐれた思考」。四字熟語を書いた時点では、以上のような理解であった。その後何度か、人前で話す機会があり、良識と問題解決の関係についてぼくの考えていることを伝えたりした。「生活や仕事で知恵を発揮するのに天才である必要はない」という話である。アイデアの大部分が良識の範囲から生まれてくるものだ。そう、良識である。これは良識であって、常識ではない。常識はアイデアの邪魔をすることがある。ゆえに、「常識に振り回されるな、たいせつなのは良識だ」というひろさちやの主張に通じる(氏の『日本人の良識』は立ち読みしかしていない、悪しからず)。


良識を発揮すれば、日常生活上や仕事上のほとんどの問題は解決できる。簡単にというわけではないが、現象としての問題に気づき、その原因に見当がつくのであれば、極上のひらめきや理性でなくても、まずまず明晰な判断力を用いれば何とかなる。但し、最上のソリューションを期待してはいけない。昨日が50点なら、ひとまず60点を目指すようなベター発想がいい。その時々の小まめな判断と解答を迅速にこなしていけば、アイデアがひらめくものだ。

こうして今日得たアイデアはベストな普遍法則などではないから、明日は役立たないかもしれない。しかし、別の課題に対してはそのつど日々更新していけばいい。小さな課題を小さく解いているうちに臨機応変のアイデアが増えてくるし、ひらめきの回路も鍛えられてくる。生活や仕事、ひいては人間関係や社会とのつながりをつねに動態的にとらえることができるようにもなる。天才を要する至高命題さえ棚上げすれば、良識は「よりよい価値創造」に働いてくれるのだ。少なくとも、ともすれば陥りがちな知的怠惰を未然に防ぎ、状況に応じた「機転のきく知恵」を授けてくれるだろう。

Kさんに四字熟語を贈ってから、おそらく三度目になると思うが、中村雄二郎の『共通感覚論』を読んでみた。良識についてこの本ほどよく考察された書物を他に知らない。ぼくの良識観がこの本の影響を強く受けていることが手に取るようにわかる。何ページにもわたって引用して紹介したいが、今日のところは、ことば足らずを承知で都合よくまとめておく。

「良識という感覚は、ぼくたちと人との関係をつかさどる。細部のすべてがわからないまま全体を把握せねばならないときに、困難を打開してくれるのが良識。良識は葛藤する事実と理性の間で選択を促す。たえず更新される真理をめざす知的活動の源であり、生の意味を問いつつ思考と行動とを結びつける(公正の精神にもとづく)社会的判断力である」。 

流されてしまう時代

意思をたくましくして事に処していても、人間一人が外圧にあらがう力はたかが知れている。外圧などという物騒なことばを使ったが、別に外から圧力がかかるまでもない。ごく自然に集団や雑踏の中に佇んでいても、意思とは無関係な「自己不在感」に襲われたときには、すでに流れに棹差すままの身になっている。

メディアに取り巻かれて流され、日々の生活が文化的なトレンドに流され、そして、今いるその場で人は流されてしまう。具体的には、テレビ・新聞・インターネット・書物に向き合って自主的に情報に接しているつもりが、気がつけば、相当ぶれない人でも河童の川流れ状態に陥っている。街を歩けば、グルメにファッション、立ち並ぶ店のディスプレイに取り込まれ、固有の嗜好だと思っているものさえ、実はサブリミナルに刷り込まれていたもの。会議や集いや居酒屋でも、全体を包む雰囲気に流される。流されていることに気づくうちはまだいい。しかし、流れの中にずっといると、流れているのは岸のほうで、自分は決して流されてなどいないと錯誤する。

個性ある人間として主体的に生きようと意識している、なおかつ強い意思によって世間を知ろう、また当世の文化にも親しもう、しかも空気に左右されぬよう場に参加しようとしている。そのはずなのに、ぼくたちはいとも簡単に流されてしまっている。あ、この一週間は早かったなあ……まだ自分の仕事はほとんどできていないのに、雑用ばかりでもうこんな時間か……貴重な時間は空虚に流れ去り、印象に残っているのはやるせないゴミ時間の記憶ばかり。


流されないようにするための処方箋が「さらに意思を強くすること」しかないのであれば、もはや絶望的である。しかし、何も悲愴な面持ちで嘆き続けるだけが能ではない。無茶を承知で言うのなら、外界に向かって鎖国的に生きるか、あるいは世間やメディアから隔絶されたところに隠遁すればいいのである。そうすれば、少なくとも流されずには済むだろう。

だが、それでは社会的生活が成り立たなくなってしまう。ぼくたちは必要最小限の時事的情報を知らねばならず、さもなければ、人と交わり共同で何らかの仕事をこなしていくことはできない。たとえ鎖国・隠遁が可能だとしても、その生き方は引きこもりっぱなしのオタクと同じである。彼らが流されていないという痕跡は見当たらない。いや、実のところ、彼らの大半はゲームやインターネットや趣味の世界の中で流されてしまっている。

誰にでも効く処方箋を持ち合わせているわけではないが、ぼくはまったく悲観的ではない。抗しがたい急流にあって有用の時間のみを追わず、岸辺に上がって無用の時間に興ずればいいのではないか(無用の時間はゴミ時間ではない)。現実の情報・文化・公共の場などの意味体系から離脱して「引きこもり」、せめて一日に一時間でもいい、沈思黙考する時間を自分にプレゼントする。その一時間は外部環境の変化に一喜一憂しない時間である。世の中にわざと乗り遅れる一時間である。そういう時間を持つようになってまだ数年とは情けないが、じわじわと効いてきた気がする。ただのプラシーボ効果なのかもしれないが、かけがえのない至福の時間になりつつある。

エピソード学入門

エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物、物事、現象に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。

雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。〈エピソード学〉という造語が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。

「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識……エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。


情報を知ってハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。

ある時、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。

同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。

次はアメリカ人のエピソード。

「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。

偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。

熟成一年のノート

少数ながら、本ブログをフォローしてくれている研修受講生がいる。ほとんどの人とは一期一会だが、縁をきっかけにしてぼくの小さなテーマを何かの足しにしてもらえるのはありがたい。書き綴る内容は「思いつき」がほとんどだ。それでも、行き当たりばったりではない。思いついて考えたことをノートに書いているから、ほんのわずかな時間でも熟成はさせている。その日のことを取り上げても、紙のノート経由でこのオカノノートに至っている。

気まぐれに過去のノートをペラペラとめくる。現在取り組んでいる研修や私塾での話のネタ探しである。自分が書いたノートだから、詳細はともかく、ほとんど覚えている。なにしろ短時間でも熟成させてから読み直しているからだ。しかし、思いついてすぐに書きとめ、そのままにしておいて一年でも過ぎてしまうと、「こんなことを書いたかな?」という事態が発生する。一年という熟成期間のうちに、味がまったく変わってしまっている場合もある。


ほとんど記憶外であったが、昨年の85日に「みんなの党」について書いている(この日付の以前にも「みんな」という党名について難癖をつけたのだが、いつ頃どのノートに書いたのかはわからない)。今般の参院選挙で大躍進した党だ、その党についての何をメモしていたのだろうかと少々わくわくしながら読んでみた。次のように書いてある(原文のまま)。

みんなの党。政党にこのネーミングがありえるのだから、何にでも「みんな」を付ければいい。みんなの会社(という社名)、みんなの広場(という広場の名称)、みんなの電車(という各駅停車)……。「みんなのみんな」などは哲学的な響きさえする。最大多数の最大幸福? 一人残らず「みんな」? 万人を前提にしているからと言って正解でもないだろう。マーケティングでは不特定多数を対象にする戦略はだいたい失敗に終わる。しかし、もしかすると、ぼんやりとした、サークル活動のようなこの名称によって、民主や自民のいずれにもない、「何となく感が漂う不思議な魅力」を無党派層にアピールすることになるかもしれない。ことばは力である。サークルの名称のようだからこそ、大それた動機でなくても集まりやすいということがありうる。

先日の結果はこの通りとなった。別に己の洞察力を自慢しているわけではない。この程度の推論なら、昨今のリーダーシップ不在、信の不在を凝視したら、容易に導くことはできるだろう。そして、おもしろいことに、比例代表に関しては、有権者はみんなの党の候補者みんなに投じたのである。なんと個人名得票の10倍もの政党名得票を達成したのだ。これは、ほとんど共産党の比率に等しい。これが何を意味するか、今日のところはアナロジーを急ぐことはないだろう。

政党名を書くのと個人名を書くのは、同じ党を支持するにしても、有権者の動機なり党主導の戦略なりは異なっている。民主党は政党名が個人名の3倍強、自民党もほぼ3倍。ところが公明党は政党名得票が個人名得票を下回っている。有権者の裁量任せならこうはならないから、党戦略が支持者に広く浸透した結果に違いない。

政治の話がテーマではなかった。一年の熟成期間を経たノートの話である。A地点とB地点に立てば異なった眺望が得られる。情報Aと情報Bを同時に見れば何らかの複合価値に気づくかもしれない。同じテーマでも時期Aと時期Bのような時間差があれば、少しでも線的思考が可能になる。やっぱり書いたノートは読み返さなくてはならない。それは記憶の底に沈殿してしまった気づきや考えを攪拌することでもある。

何も聴かない、何も読まない

有名な酒造メーカーの高級ブランドウィスキーの広告に「何も足さない、何も引かない」というのがある。ご存知の方も多いだろう。「純」であることを訴えるのに純粋という陳腐な言い回しをしないのがいい。足しも引きもしないという表現からぼくたちは自然をイメージしてしまう。なかなか秀逸なコピーだと感心したものである。

けしからぬミート加工業者が数年前に摘発されたとき、ぼくはこのコピーを本歌にして「何でも足す、何でも挽く」なるパロディーを創作した。表示された食肉以外の肉を足し、何でもかんでもミンチ状に挽いたありさまを諷刺してみたのである。それをきっかけにもう一丁とばかりにひねったのが「何も聴かない、何も読まない」である。音楽も聴かなければ本も読まないという見たままの文意ではない。実は、もう少し意味深長のつもりである。

作意を披露する前に、もったいぶって伏線を張っておこう。先日、書店で平積みしてある『日本人へ リーダー篇』と題された本を手にした。著者は、全三十数巻の大作『ローマ人の物語』の塩野七生。平積みの最新刊を求めることはめったにないが、携行した本を出張先で読み切った時には、その種の本を買うことがある。いきなり「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」というユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)のことばが紹介される。著者はこのことばが気に入っているようで、『ルネサンスとは何であったのか』の中でも使っている。そこでは、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」というマキアヴェッリの賞賛も添えている。


ここで注目すべきは「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」という後段である。見たいという行為だけにとどまらず、「したいことしかしない」や「考えたいことしか考えない」や「欲しい情報しか求めない」などへ敷衍することができる。これらの性向を説明してくれるのが、〈認知的不協和理論〉だ。人は自分の考えに合っていることや自分の都合によくなる情報だけを使い、都合の悪いことから目線を逸らす。すなわち、人は欲求するところを中心に推論する癖を持つのである。

さて、「何も聴かない、何も読まない」に話を戻そう。これは、聴いているようで実は何も聴いておらず、読んでいるようで実は何も読んでいないという意味なのである。「聴きたいことだけを聴き、読みたいことだけを読む」のならまだしも、多くの人は、聞き覚えのあることや読み覚えのあることにはあまり集中しようとはしない。いや、わざわざ意識して集中しなくても、聞き流し読み流すだけで十分とタカをくくっているのである。困ったことに、すでに知っていることに対してはきわめて御座なりに済ませてしまうのだ。

では、聴いても読んでも難解な事柄に対してはどんな態度をとるのか。今度は、聞き飛ばし読み飛ばす。要するに、わかっていることにはいい加減に相槌を打ち、わからないことには聞かざる見ざるを決め込むのだ。こうして、「何も聴かない、何も読まない人間」が出来上がってしまう。事柄が既知であろうと未知であろうと、聴く・読むという認知は集中を要する。集中を怠れば、聴ける範囲内で聴き、読める範囲内で読むという惰性に流れる。聴けたり読めたりするはずの事柄すらうわの空という状態だ。好きなものばかり食べていたら、やがてその好物の味そのものがわからなくなるのである。

学び上手と伝え上手

無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることだった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。

教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。

高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。

ちなみに、「知る」は“know”、その名詞形が“knowledge”(知識)。他方、「伝える」は“inform”、その名詞形が“information”(情報)。動詞“inform”は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。


情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。

記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。

プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結するのである。