目新しいものやアイデアは、ある日突然、「無」のうちから出てきたりはしない。たいていは外部からの刺激や情報に突き動かされている。もし外部ではなくて、内なる触発であるとしても、脳がそれまでに絡め取ってきたことばや経験の知がきっかけになっている。
月: 2012年5月
売り込まない方法
ほとんどすべての命題は二律背反的に論議することができる。時々の情報に左右されるテーマならなおさらだ。たとえば、「調査から始めよ」と「調査から始めるな」は一般的にはつねに拮抗している。ぼくの場合は、もはやどんな企画も調査から始めることはないが……。
ある日曜日の半日
久々に日曜日の「磁場」が動いたような気がした。午前10時から午後3時頃までの半日外出しただけで、ともすれば無為に過ぎてしまう休日が有意義な――しかし即興的な――時間割で彩られた。
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バラ園を後にして、腹ごしらえに入ったレストランで落ち着くことにした。何度か来ているが、ここは危険な店である。なにしろ自家製の数種類のパンが食べ放題なのである。手を挙げて所望するまでもなく、頻繁に巡回してくる。これが過食を促す。しばしダイエットの身であることを忘れてしまった。
さて、ここからいつもの古書店まではほんの15分。ぶらぶらと歩いていけば、とある家の前でご主人がカメの水槽を大掃除していた。その間、青いバケツで待機させられている。カメラを向けると、これがまた非常に人懐こく、背伸びをしてくるのである。ご主人いわく、「もう相当歳を取ってますよ」。
「説明」ということ
写真はパリの地下鉄の行先案内表示である。この下に立つぼくの前には上りの階段があるのみ。階下への階段もエスカレーターもない。階下がないからである。
ここで、問題を提起する。「わかっていることなら説明できるのか?」 イエスは楽観的に過ぎるし、ノーは悲観的に過ぎる。
二十代の頃、友人が「たこ焼き」を見聞きしたことのないアメリカ人に説明するのを傍で聞いていたことがある。英語力のある男だったが、そんなことはあまり関係ない。見たことのないもの、知らないことについて相手に理解させるのは、説明者だけの力でどうにかなるものではない。「それ」について輪郭のディテールまでわかるかどうかは、その説明を受ける張本人の知的連想力によるところが大である。
他方、ろくにわからないからこそ説明できるということがある。専門家がこだわって一部始終語らねば気が済まないことを、ちょっとだけ齧ったアマチュアがかいつまんで説明できることがある。専門家のかたくなな説明手順を嘲笑うかのように、飛び石伝いに喋って理解させてしまうのだ。自身わかっていることを専門家が説明できず、非専門家があまりわかっていないのに説明できたりする。
説明の技術は、知識の豊かさや専門性と無関係ではないが、決して比例もしない。知っていても説明できないことがあり、さほど知らなくても説明できることがある。そして、説明がうまくいくためには、説明者だけの技術だけでは不十分で、説明を受ける者の背伸びという協力が欠かせない。説明の上手な人とは、相手をよく理解して、何を説明し何を説明しないかを判断できる人と言えるだろう。