ゆめゆめ手を抜くことなかれ

昨日のタイトルが『もはや手に負えない』で、今日が「手を抜かない」。語呂合わせを企んだわけではない。たまたま二日続きで「手」がひょいと出ただけである。

人間を分類する基準にはいろいろある。血液型は4タイプに分けるし、干支は12タイプに分ける。男女に分けるなら2タイプ、老若男女だと4タイプ。正確を期すれば、後者は老若と男女をクロスして4タイプになる。つまり、男・老、女・老、男・若、女・若。「男」のみや「若い」のみでは、あまり分類効果は感じられない。「犯人は男」や「犯人は若い」では捜しにくいだろう。もっと項目が欲しいところだ。「犯人は若い男でメガネをかけ、黒いTシャツを着ていた」という、より細かな分類、すなわちより具体的な描写をするほうが逮捕の手掛かりになりやすい。

最近、モノローグ派とダイアローグ派に分けて人間観察している。モノローグ派とは相手を意識せずに独白するタイプで、社交ダンスのように歩調を合わせるように会話をしない人のことだ。モノローグ派二人が会話をしているのを傍らで聞いていると、片方が一方通行でひとしきり喋り、続いて相手が同じように喋る。交替に話してはいるのだが、さほど交叉することなく、フラットに流れていく。他方、対話を得意とするダイアローグ派は、たとえ話し手と聞き手の役割があるように見えても、問いや相槌も含めてよく交叉する。複雑にり組み、よく接合し、話に凹凸感が漲る。言をよく尽くすので、交わされる情報量も圧倒的にモノローグ派よりも多い。


ダイアローグ派は「この間、あの店へ行ったら、多忙にかこつけてサービスがおろそかになっていた。お勘定する時に詫びもしなかった。しばらくあの店に行くのはごめんだね」というふうに話す。これがモノローグ派になると、下線部を独白――内へ向かっての無言のつぶやき――で済まし、結論部分の「しばらくあの店に行くのはごめんだね」だけを発話する。唐突もはなはだしいが、本人は下線部も発話したつもりになっているのである。ダイアローグ派は棘のある言を発し、時には毒舌で相手を傷つけ、モノローグ派は独りよがりな話法に終始し、ことば足らずで誤解を招く。

いずれもパーフェクトではない。しかし、手を抜いたように見られるモノローグ派よりも手を抜かないダイアローグ派をぼくは優位に見立てたい。

そもそも、一般常識から考えても当たり前の意見である。事はことばの発しようだけに止まらない。手を抜いていいことなどめったにないのである。あることを貫徹するには、必要欠くべからざる最少工程をこなす。一工程を飛ばしてしまうと完結しないし、仮に手順前後してもよい場合でも、いずれ手を抜いた工程をどこかで穴埋めしなければならない。手を抜いたツケを仕事も人も見逃してくれはしないのだ。

まずまず気に入っている居酒屋がオフィス近くにある。ここ二ヵ月ほどの間に、昼も夜もそれぞれ三、四回利用している。ある日、ランチに行って、日替わり弁当を注文した。酢豚に魚フライ、野菜と味噌汁、それにご飯である。不満なく食べ終わった。夕方に来客があるので、席を予約して店を出た。(……)夕刻。予約の時間に店に行き、焼酎の水割りを頼む。最初に出てきた付き出しは、なんとお昼に食べたのと同じ魚フライだった。ランチの残り物か、同じものを付き出し用に今しがた用意したのか。明らかに前者であった。

その店に二度と行かないぞなどと頑固を決めこんではいない。なにしろオーナーとも親しくなったし、とてもいい人なのだ。料理にも趣向を凝らしているから一応の評価を下している。しかし、一品料理同様に一工夫すべきだろう。いや、ランチのおかずを夜の宴席の付き出しに回すような、拙い手抜きをしてはいけない。しばらく間を空けてから行き、誠実にぼくの意見を述べようと思う。ぼくの誠実とは、はっきりと非を指摘することにほかならない。  

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「ゆめゆめ手を抜くことなかれ」への2件のフィードバック

  1. この「はっきりと非を指摘する」ことがなかなかできないんですよね。
    特に近しい人になるとできない。
    人間関係が壊れた時のことを恐れてしまいます。
    他人より友人。
    友人より社員。
    社員より家族。
    特に、両親、嫁、などなど。
    真の人間関係を築こうとするなら、言わねばならないときはある。
    分かってはいるんですが、難しいですね…。

  2.  イエスとノーを使い分けることができなくて、本心でもない「どちらでもいい」をつぶやく。是は是、非は非として議論したり助言できない―こんな人間どうしの間に真の仲良し関係が築けるのでしょうか。差し障りのないことしか語り合わない関係は、たぶん差し障りのない程度の関係なのですね。ぼくくらいの齢になると、人の為を思って嫌なことをさんざん言ってきたわけです。そのせいで嫌われることもあった。それでも、嫌われることなんて、言うべきことを言わない情けなさに比べれば、大したことではありません。
     ある人がネクタイをしていて、それがスーツに合っていない。その同じ姿で公式の会合に出掛ける可能性があるとします。このとき、誠実とは「そのネクタイ、似合っていないよ」と言ってあげることであり、不誠実とは「よくお似合いですよ」と言うことです。前者が嫌がられ、後者は喜ばれるかもしれない。喜ばれようとして非を是に変えないといけないのなら、そんな人間関係はやめればいいとぼくは過激に考えます(どうでもいい人間に嫌味を言ったり毒を吐いたりする気にはなれませんからね)。但し、ぼくは「親しき仲にも礼儀あり」を尊重しています。そして、礼儀、批判、助言、思いやり、叱責の根底にある精神は、ぼくの場合、そんなに変わらないのです。

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