T 「ツイッターは、まだ? 岡野さん、時代に取り残されますよ。」
F 「あ、そう。それなら、ぜひ時代に取り残されたいもんだよ。」
T 「怠け者が『来週中に』と言えば、月曜日であることはまずなく、たいてい金曜日の夜中を意味している。」
F 「そいつは未熟な怠け者だな。ベテランの怠け者は約束もしないし守りもしない。さらに怠惰道を極めた師になると、もはやぼくらと同じ浮世にはいない。」
T 「淡々と語り振る舞えば、お前は醒め過ぎだと評される。」
F 「ならばとばかりに、熱弁を振るい活気に溢れた動きを見せれば、テンションだけ高くて空回りとの謗りを受ける。」
T 「あなたの悪口を言っている人がいますよ。」
F 「ありがたいことです。存在意義がなければ誰も悪口すら言ってくれなくなりますからね。」
わざわざツイート&フォローしなくても、上記のようにぼくたちは独白の中で知らず知らずのうちに一人二役でツイッターをしているものだ。自分がつぶやき、もう一人の自分がつぶやく。主客相対するダイアローグである必要はない。所詮つぶやきだから、そこに主観と客観の対比がなくてもいいだろう。
元来相手を特定せずに、ぽつんと独り言をこぼすのがつぶやきだ。このつぶやきに不特定多数という誰かを想定するのがツイッターである。純粋な独り言なら発信したり公開したりするに及ばないから、どう考えても特定せぬ相手を考えているのはたしかだろう。すると、これはどうやら演劇の舞台のモノローグと似てはいないか。役者が一人で語る台詞は一種のつぶやきで、その心中の思いをことばにした語りは居合わせる観客に向けられている。要するに、聞かれたい知られたいつぶやきなのである。
聞かれたい知られたいと思い、さらにフォローをしてほしいと願い、その結果、何らかのやりとりが成立すれば、それはまさしく初歩的なダイアローグの様相を呈する。モノローグという形式の中でおこなわれるダイアローグ。自分一人でこなすダイアローグは文字も音声もともなわず、思考する内言語として現れる。自分の日常茶飯事のツイートをフォローできていないし、目の前の対話相手のツイートの面倒を見るのに精一杯のぼくだ、大海原のようなツイッターの世界に飛び込むのは容易でない。
こんなことをつぶやいたら、「そんな理屈っぽい世界ではなくて、もっと軽やかですって!」と諭された。「軽やかで理屈っぽくないから、相性が合わないのだよ」と返事しておいた。