「口は禍の門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色鮮なし仁」……。
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言在知成
「イメージとことば」に続く話になりそうである。「なりそう」とはひどい無責任ぶりだが、どこに落ち着くのか、予感の域を出ない。書き始めたいま確かなのは、「言在知成」と書いて「げんありちなり」と読ませる四字熟語が起点になったこと。実は、今日初めて公開するのだが、これはぼくが何年か前に造語したもの。だから、正確には四字の「熟語」などではなく、未成熟という意味で「四字若語」と呼ぶのがふさわしい(もし言在知成がすでに存在しているのなら、偶然の一致である)。
ことばがあるから、知識も身につくし世の中の様子もわかる。美術の先生が対象を黙って指差して生徒に絵を描かせるのはむずかしい。先生は「今日は自宅からリンゴを二個持ってきたよ。手前と奥に一個ずつ配置するから描いてみなさい」と指示するだろう。イメージ的作業をイメージ的コマンドで動かすには、とてつもないエネルギーを必要とするのだ。だから、口下手なくせに、頭の中でイメージばかり浮かべようとする習性のある人は、あれこれと迷わずに、とりあえず口に出してしまうのがいい。イメージを浮かべてもことばになってくれる保証はないのだから。
「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」。これは意味明快なメッセージ。では、この意味を絵に描いたり、紙や粘土で造形する自信があるだろうか。アートセンスがないのなら、ジャスチャーでもかまわない。試みた瞬間、途方に暮れるに違いない。けれども、悩むことなどない。ワンクッションを置かずに、さっさと言ってしまえばいい。「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」という想いを伝えたければ、ただそう言えばいいのだ。幸いなるかな、ことばを使える者たちよ。
「深めの大振りなカップにコーヒーを淹れてくれた。一口啜った瞬間、体温が二、三度上がったような気がした」。この文章から画像なり動画なりをある程度イメージできる。人それぞれのイメージだろうが、ことばの表現に呼応するかのようにイメージは浮かぶ。しかし、なかなか逆は容易ではない。よほど意識しないかぎり、一杯のコーヒーは見た目通りの一杯のコーヒーである。眼前のコーヒーカップからことばの数珠つなぎをしていくためには、指示や問いのような刺激が不可欠になる。
以上のような話をすると、言語がイメージよりも優位であると主張しているように勘違いされる。ぼくは体験的に言語とイメージの役割を考察しているのであって、優劣など一度だって論じたことはない。以前は、はっきりとイメージ優位・言語劣位の信奉者だった。若い頃は自分のイメージ力、その解像度の質に相当自信があった。浮かんだイメージをことばに翻訳するくらい簡単だと思っていた。ところが、イメージとことばを工程順に位置づけなどできないことがわかってきた。
コミュニケーション理論の本のどこかには、〈A君のイメージ⇒A君による言語化⇒A君の発話(音声)⇒Bさんの聞き取り⇒Bさんの言語理解⇒Bさんのイメージ再生〉などのプロセスがよく書かかれている。A君が何を話そうかとイメージし、最終的にそのイメージと同じようなものをBさん側で再生できればコミュニケーションが成立、というわけである。理論を手順化すれば確かにそうなのだろうが、会話のやりとりはよどみない流れであるから、複数の静止画に分割しても意味がないのである。
話をコミュニケーションから離れて、上記のA君自身における〈イメージ⇒言語化⇒発話〉という部分だけをクローズアップすると、何かが頭に浮かび、それをことばによって伝えるという順が見えてくる。人はこの順番にものを考え話していると、ぼくはずっと思っていた。しかし、今は違う。そんなに都合よくイメージばかりが浮かんでくれるはずがないのだ。それどころか、言語を能くするからこそイメージがそこに肉付けされるのだと思う。知の形成の仕上げは言語。ゆえに「言在知成」なのである。
対話からのプレゼント
2010年3月22日。神戸で「第1回防災・社会貢献ディベート大会」が開催され、審査委員長として招かれた。大会そのものについてはニュース記事になっているようだ。一夜明けた今日、ディベートについて再考したことをしたためておこうと思う。
考えていることをことばで表現する。思考していることが熟していれば、ことばになりやすい。おそらくその思考はすでに言語と一体化しているのだろう。考えていることとことばとが一つになる実感が起こるとき、ぼくたちはぶれないアイデンティティを自覚することができる。もっとも、めったに体験できることではないが……。
考えていることがうまくことばにならない。それは言語側の問題であるよりも、思考側の問題であることのほうが多い。「口下手」を言い訳すると、「考え下手」を見苦しく露呈してしまうことになりかねない。どんなに高い思考や言語レベルに達しても、考えをうまく表現できない忸怩たる思いはつねにつきまとう。それでもなお、挫けずに言語化の努力を重ねるしかない。ことばにしてこそ考えが明快になるのも事実である。こうして自分の書いている文章、書き終わった文章を再読してはじめて、考えの輪郭が明瞭になるものだ。
一人で考え表現し、その表現を読み返してみて、新たな思考のありように気づく。たとえ一人でも、思考と言語がつながってくるような作用に気づく。ならば、二者が相まみえる対話ならもっと強い作用が働くだろうと察しがつく。そうなのだ、弁証法の起源でもある、古代ギリシアで生まれた対話術〈ディアレクティケー〉には、自分一人の沈思黙考や言語表現で得られる効果以上の期待が込められた。すなわち、曖昧だったことが他者との議論を通じて一段も二段も高い段階で明らかになる止揚効果である。対話によって、自分の思考に気づき、思考のレベルを上げるのである。対話が授けてくれる最上のプレゼントは思考力だ。
「対話」の意義を説くのはやさしい。しかし、現実的には、対話は後味の悪さを残す。聴衆を相手にした修辞的な弁論術では見られない、一問一答という厳しいやりとりが対話の特徴だ。相手の意見に反論し、自論を主張する。主張すれば「なぜ?」と問われるから理由を示さねばならない。必要に応じて、事例や権威も引かねばならない。
教育ディベートには詭弁的要素も含まれるが、当然ながらディアレクティケーのDNAを強く継承している。命題を定めて、相反する両極に立って議論を交わす。人格を傷つけず、また反論にへこたれず、さらにまた遺恨を残さないよう意識することによって、理性的な対話に習熟する絶好の場になってくれる。だが、相当に場数を踏んでも、「激昂しない、クールで理性的な対話術」を身につけるのはむずかしい。
ディベートでは、相反する立場の相手と議論するものの、相手を打ち負かすことによって勝敗が決まるわけではない。マラソンややり投げやサッカーのように数値の多寡を競うのではないのだ。いや、ある基準にのっとって数値化はされるのだが、点数をつけるのは第三者の、聴衆を代表する審査員である。主観を最小限に抑えるために客観的指標を定め、先入観のない白紙状態の維持に努めるものの、主観を完全に消し去ることなど不可能である。
実力や技術だけでディベートの勝敗が決まらないことを心得ておこう。第三者評価型の競技に参加するかぎり、それは必然の理なのだ。ゆえに、審査員のフェアネスと眼力が重要になってくる。そして、審査が終わり判定が下されたら、ディベーターも審査員もその他すべての関係者も素直に結果に従わねばならない。そうでなければ、ディベートなど成り立たない。ディベートには「諦観」が求められる。ぼくがディベートという対話からもらったもう一つのプレゼントは虚心坦懐の精神である。