軽薄は論外だが、ざっくばらんな会話を慎まねばならない雰囲気がそこかしこにある。めったに神妙にならない彼や彼女にとってはいい機会になっている。つねにふざけるのもつねに生真面目であるのも窮屈だ。ぼくたちは笑ったり泣いたりし、はしゃいだりがっかりする。喜怒哀楽とはとてもよくできた熟語である。
悩める「彼」に今朝一番にメールを送った。「自然に突き放され見捨てられ、呆然とするしかない災害の地。復興不可能と思われるこの状況から、人々は自浄し始め、やがて自立する。過去の歴史で、それができなかった時代は一度もない。人間は立ち上がれるようになっている」という書き出し。このあと数十行書いて送信をクリックした。「どんな状況にあっても人はまだまだ救われている」というぼくの信念を届けた。
ふと古代遺跡ポンペイを思い出す。都市構造、政治形態、生活様式などどれを取っても、近代の街とほとんど変わらぬ先進都市だったイタリア南部のポンペイ。紀元62年2月5日、激しい地震が襲った。一般にはこの地震と同時にポンペイが埋もれたと思われているが、そうではない。ポンペイは大打撃を受けたが、着実に再生・復興に尽力していた。ポンペイが消失するのはこの17年後、紀元79年8月24日である。ヴェスヴィオ火山が火柱を吹き上げ、火砕流がまたたく間に街ごと舐め尽くした。千数百年間、ポンペイは後世に知られざる存在となった。9年前のちょうど今頃、ぼくはポンペイの遺跡に佇んでデジャヴのように郷愁を覚えた。
千数百年も経ってしまえば、もはや再建に未練などない。あの遺跡はタイムカプセルから取り出された二千年前の街の姿そのものである。文明の度合いはさておき、人々の文化的生活は古今東西ほとんど変わっていない。いや、むしろ自然との調和的暮らしぶりということになれば、現代人は古代人に大いに学ぶべきだろう。巨大都市を構築するのが文明的進化である。環境にとって人類にとって、その収支決算をしてみるべきではないか。
とても幼稚で単純だが、文明と文化にはぼくなりに意味区分をつけている。前者は公的で土建的、自然利用である。人類と自然の闘いでもある。後者は私的で土壌的で自然共生的である。文明的であるとは超大なまでに発展的に生きることであり、文化的であるとはゆっくりと持続可能的に生きることである。繁栄の上に胡座をかくと人は文明的に生きようとする。時々文化的生活を思い出すのがいい。車に乗らずに歩く――ただこれだけでいい。
〈ルネサンス〉とは過去の単純な再現ではない。物的な意味合いよりも精神性・文化性が強いこのことばは、すぐれたものの進化的な刷新をも意味している。古代ギリシア・ローマの芸術と文芸の精神を引き継ぎながら、その単純再現だけにとどまらず、創生へと向かったのが本家ルネサンスだった。今日は昨日の、そして過去のルネサンスの日である。明日は今日までのルネサンス。日々ルネサンス。こう思うだけで毎日ワクワクする。こんな調子だから、青二才と揶揄されるのも納得がいく。