いつもルネサンス

軽薄は論外だが、ざっくばらんな会話を慎まねばならない雰囲気がそこかしこにある。めったに神妙にならない彼や彼女にとってはいい機会になっている。つねにふざけるのもつねに生真面目であるのも窮屈だ。ぼくたちは笑ったり泣いたりし、はしゃいだりがっかりする。喜怒哀楽とはとてもよくできた熟語である。

悩める「彼」に今朝一番にメールを送った。「自然に突き放され見捨てられ、呆然とするしかない災害の地。復興不可能と思われるこの状況から、人々は自浄し始め、やがて自立する。過去の歴史で、それができなかった時代は一度もない。人間は立ち上がれるようになっている」という書き出し。このあと数十行書いて送信をクリックした。「どんな状況にあっても人はまだまだ救われている」というぼくの信念を届けた。

ふと古代遺跡ポンペイを思い出す。都市構造、政治形態、生活様式などどれを取っても、近代の街とほとんど変わらぬ先進都市だったイタリア南部のポンペイ。紀元6225日、激しい地震が襲った。一般にはこの地震と同時にポンペイが埋もれたと思われているが、そうではない。ポンペイは大打撃を受けたが、着実に再生・復興に尽力していた。ポンペイが消失するのはこの17年後、紀元79824日である。ヴェスヴィオ火山が火柱を吹き上げ、火砕流がまたたく間に街ごと舐め尽くした。千数百年間、ポンペイは後世に知られざる存在となった。9年前のちょうど今頃、ぼくはポンペイの遺跡に佇んでデジャヴのように郷愁を覚えた。


千数百年も経ってしまえば、もはや再建に未練などない。あの遺跡はタイムカプセルから取り出された二千年前の街の姿そのものである。文明の度合いはさておき、人々の文化的生活は古今東西ほとんど変わっていない。いや、むしろ自然との調和的暮らしぶりということになれば、現代人は古代人に大いに学ぶべきだろう。巨大都市を構築するのが文明的進化である。環境にとって人類にとって、その収支決算をしてみるべきではないか。

とても幼稚で単純だが、文明と文化にはぼくなりに意味区分をつけている。前者は公的で土建的、自然利用である。人類と自然の闘いでもある。後者は私的で土壌的で自然共生的である。文明的であるとは超大なまでに発展的に生きることであり、文化的であるとはゆっくりと持続可能的に生きることである。繁栄の上に胡座をかくと人は文明的に生きようとする。時々文化的生活を思い出すのがいい。車に乗らずに歩く――ただこれだけでいい。

〈ルネサンス〉とは過去の単純な再現ではない。物的な意味合いよりも精神性・文化性が強いこのことばは、すぐれたものの進化的な刷新をも意味している。古代ギリシア・ローマの芸術と文芸の精神を引き継ぎながら、その単純再現だけにとどまらず、創生へと向かったのが本家ルネサンスだった。今日は昨日の、そして過去のルネサンスの日である。明日は今日までのルネサンス。日々ルネサンス。こう思うだけで毎日ワクワクする。こんな調子だから、青二才と揶揄されるのも納得がいく。

喜怒哀楽の大安売り

「この頃、自分でも驚くほど涙腺が甘くなって……」というため息混じりのつぶやき。「親の死に目に立ち会えなかった時も涙しなかったのに、後になって思えばあんなくだらん映画についもらい泣きをしてしまった」。こう言う中年男が、「あの映画で泣いたことを思い出すたびに、泣きたくなるくらい悔しい」とほとんど涙ぐんでいる。「男は少々のことでは泣くな!」と幼少期から躾けられたらしいが、理性に感情をコントロールする力があるかどうかは疑わしい。ラ・ロシュフコーは『箴言集』の中で「知は情にいつもしてやられる」と言っている。

誰だって哀愁漂う旋律に胸がジーンとすることがあるだろう。少々メランコリーな気分の時に切ないメロディーが重なれば、涙腺の奥が湿りもするだろう。音楽だけではない。淡々とした文章がふと人をしんみりさせたりもする。「棟方はゴッホになれなかった。しかし、世界のムナカタになった」という一文に何とも言えぬ感動を覚えたことがある。必ずしも悲しいからではなく、何かの拍子に感極まり目頭を熱くしてしまう。ツボにはまって笑いが止まらないように、涙のツボもありそうだ。

ぼくはクールな人間だとよく指摘される。ろくにぼくのことを知らないくせに失敬な! と思ったりするが、冷静かつ客観的に自分を眺めてみれば、たしかに人前で悲しみに打ちひしがれたり感涙にむせんだりすることはほとんどない。ぼくよりも一回り若い塾生の男性などは、ある一件で昔ひどい仕打ちを受けた年配の男を恨み続けていたが、ある講演会でその男の苦労話を聞いて涙が止まらなかったと言う。ぼくには考えられない出来事である。どんな事情があろうとも、その男の話を聞いてみようと心境が変化することはありえないだろう。


強がって人前で涙しないのではない。安っぽく感極まるのが性に合わないのである。ぼくだって――可愛くはないだろうが――一人でいる時に胸をキュンとさせていることもあるのだ。たとえば、詩集『海潮音』に収められている「わかれ」という一篇を口ずさむとき。

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。

経験と二重写しになるわけでもないのに、青春時代からこの詩をはじめとする諸々の詩篇に何度も喉元が詰まるような思いをしてきた。詩人ヘリベルタ・フォン・ポシンゲルがぼくを動かすのではない。英独仏伊の言語に長けた訳者上田敏の、原詩そのものが精緻にして細微な日本語で紡ぎだされたかのように思わせる語感の天才ぶりに、過敏な感応を禁じえなくなるのである。

話を急転直下で現実に戻すと、昨今とみに喜怒哀楽のバーゲン現象が目につく。安直なコントや漫才に満点を与えるほど大笑いする同業芸人ども。有名女優の離婚騒動に「腰が抜けるほど驚いた」という、某テレビ司会者の情けなさ(そもそも芸能人の結婚には離婚が内蔵されているのではなかったか)。ぼくの周囲でもいい大人が、実態を的確にとらえることができず、また、その実態に見合った適正感度で表現できずに、ギャルのように「ウッソー」「スゴーイ」「サッスガー」を連発している。そんなに安売りをしていると、ここぞという時の悲喜こもごもや感動をどのように表わせばいいのか。情報化社会のデジタルリズムに流されぬよう、ふだんからしっかりと感情センサーの手入れをしておかなければならない。