お手本の御手並

研修のレジュメを書く。基本的には象徴的なエピソードを踏まえたり引用したりして自論を展開するようにしている。他にも踏み込んで事例を紹介する場合もある。学び手にとってそこに「サプライズ」があるかどうかが、ぼくの事例を選ぶ基準になっている。

来週の私塾のテーマは『ブランド』。小さな会社にとっては、羨ましくもなかなか手にすることができない「品質と信用の記号」である。商品やサービスは大きく分けて「機能的価値」と「記号的価値」から成り立つ。たとえば、喉を潤すだけなら水は機能的価値を有していればいい。無性に渇いているならペットボトルの天然水であるか水道水であるかは問題にはならない。このとき、天然水と水道水の間には飲料水としての機能的価値に大差はない。

ところが、健康や安全や生活スタイル、あるいはボトルのデザイン要素やネーミングやメーカー名などの記号的要素が加味されると、そこに大差が出てくる。ペットボトルに入った天然水なら150円になるが、水道水にそんな値段はつかない。機能的価値に加えて記号的価値が大きくなればなるほど「ブランド力がある」ということになる。

このブランドの話をわかりやすい事例で紹介したい。小さな会社に属する塾生が多いので、小さな会社のブランド事例が身近で参考になる。しかし、そこに意表をつかれる発見や驚きがなければ、ぼくは取り上げない。手を伸ばせば届く範囲のお手本や同規模・同業種の先行事例を学べば確かに「よくわかる」だろうが、学習効果には見るべきものがないのだ。とても参考になりそうもない一流ブランドの事例であっても、そこに想定外の題材があるならば、ぼくは積極的に取り上げるようにしている。


ウィリアム・A・オールコットは『知的人生案内』の中で次のように言っている。

「自分の行動の基準を高すぎるところに置くのは危険だという考え方がある。子供には完璧な手本を習わせるよりも、やや下手な手本を与える方が、ずっと速く字を覚えるという教師もいる。完璧な手本を与えられると生徒はやる気をなくしがちだが、生徒よりちょっとうまいという程度の手本なら、自分もすぐにこのくらい書けるようになると思って、やる気を出すというのである。しかし、その考え方は絶対まちがっている。手書きのものなら、子供にはできるだけ上手な手本を与えた方がよい。子供は必ずそのお手本をまねるはずである。どんな子供でも、少しでもやれる可能性のあることなら、自分でやってみようという向上心をもつはずである。」 

ぼくの意見とはだいぶニュアンスは違うが、できるだけよい手本を目標にすべきという主張には賛同する。ぼくの考えはもっと過激だ。選択肢が二つあるとき、まねできる可能性がまったくなかろうが、手本と自分の実力の差に愕然としてショックを受けようとも、レベルの高いほうを手本にすべきである。自分に少し毛の生えた程度の手本に満足してはならない。なお、二つの手本が同じレベルなら、ぼくは愉快なほうを選ぶ。

初心者だから先輩の素人が描いた絵をお手本にするのがいいのか、初心者といえども古今東西の一流の作品を見せるべきか……。「わかりやすくマネしやすい」をお手本選びの判断基準にしてはいけない。構図であれ色調であれタッチであれ、ある種「太刀打ちできない印象」を与えるものをお手本にするべきだろう。二流を参考にして上達しても一流にはなれない。結果的に一流になれずとも、目指すべきは一流でなければならない。そうでなければ二流にもなれない。

手本に学ぶ。手本通りにいかないし、手本のレベルにも到達できないことが多いだろう。それでもなお、手本を一流のものにしておけば「御手並拝見力」はつく。絵は上手に描けなくとも一流の鑑賞眼を身につけることができる。