顧客の究極の絞り方の模範は手紙であると先週書いた。話は顧客だけにとどまらない。ビジネスとは無関係の、ふだんの自分の話し方が個別的であるか、あるいは一般的であるかとも大いに関わってくる。
ディベートを学んでいた二十代の頃から、ぼくは結構熱心にアリストテレスの『弁論術』を読んでいた。紀元前に書かれたこの書物からは今もなお学べることが多い。確実に言えるのは、この弁論術を「スピーチ」と解釈し、スピーチを一対多のコミュニケーションに仕立ててしまったこと。その結果、わが国の話法が儀礼的に流れてしまう伝統を育んでしまった。
弁論大会ということばから、事前に準備した原稿を丸暗記してスピーチする状況を連想する。さらにひどくなると、質疑も答弁も冒頭の挨拶もすべて原稿の丸々読み上げということになる。すでに作られたものを再生する儀式である。この儀式然とした弁論とアリストテレスの弁論はまったく異なる。アリストテレスが唱えた弁論術は、説得と推論にまつわる言語とレトリックと論理の技術に関するものだ。大半が聞かなくてもいいメッセージでこね回されたスピーチは日本の特産品と考えて間違いない。
スピーチは欧米でよくジョークのネタにされる。一人の弁士が好き勝手に多数に向かって喋るスピーチは不愉快と苦痛の代名詞であり、神経性ストレスの最大要因と思われている。
「今日の第二部の冒頭は長いスピーチになるらしいぜ」
「そりゃいかん、胃薬を飲まないと」
「スピーカーは英語の下手な日本人だ」
「ますますいかん、胃薬を倍の量にしないと」
国際舞台では、「スピーチ×日本人×英語」は最悪の構図になっている。