本年度の私塾《岡野塾》の全日程が終了した。6月から11月まで毎月『知のメンテナンス』をねらいとして講座を実施した。そして一昨日特別開催〈第1回プレゼンテーション・コンテスト〉を開催して締めくくった。発表のテーマは「人に学び、人を語る」。座右の銘ほどの位置づけではないが、ずっと以前から「人は人からもっとも多くを学ぶ」ということを繰り返し強調してきた。どんなに高度な情報化社会になっても、ぼくたちは機器やソフトウェアから学んでいるのではない。学習源はまた書物でも談論でもない。ほとんどの知識の源流は人に遡る。
自然現象は人を介さないでやって来る。自宅やオフィスにいて地震に襲われるのは、自然が発した直接の情報を感知したということだ。天変地異は脳や身体で感知する。暑い寒いもそうだろう。だが、これらは聴覚・視覚・味覚・嗅覚・触覚の五感を通じてぼくたちが取り込む情報のほんの一部にすぎない。その他の圧倒的な量の情報はどこかで誰かが発信したものだ。そして、情報を受信しているのも、他ならぬ人からなのである。情報を知と言い換えるならば、知の主たる源泉は他者にある。人は相互刺激によって知を交わす。
ありていに言えば、知のベースに学問があり読書があり仕事があり趣味がある。これらすべての行動において、そこにはつねに人がいる。人が申し訳なさそうに脇役として介在しているというよりも、人が主たる原点にある。ぼくたちは話を聞くと言い、本を読むと言う。情報を取り込むとも言うし、街を眺めたり現場を見学するとも言う。しかし、よくよく考えてみれば、話も本も情報も、街も現場もすべてがメディアなのではないか。これらの媒体の向こうにぼくたちは人を見て人から学んでいる。
話を聞くと言うが、ほんとうは人を聞いているのだ。「おれの話を聞け!」というのは「おれを聞け!」であり、英語なら“Listen to me!”になる。本を読むのも、ほんとうは人を読むのである。戯曲の題名が『ハムレット』であろうと『ヴェニスの商人』であろうと、ぼくたちはシェークスピアを読んでいる。これも、英語では“I read Shakespeare.”と言う。ちなみに“read”には「研究する」や「専門にしている」という重要な意味もある。
『ソクラテスの弁明』を読むとき、ぼくたちは著者プラトンを読んでいる。もちろんソクラテスにも学んでいるが、ソクラテスを語るプラトンにより多くを学んでいる。『本居宣長』を通じて小林秀雄を読み、小林秀雄に学んでいる。Pが人物Sを語るとき、ぼくたちはSのことばかりを躍起になって学ぼうとするが、語り手であるPによりぶれない軸を移しておくべきだろう。さもなければ、P以外のQやRという語り手でも誰でもいいということになってしまう。PかQかRかによってSという人物は大いに違って見える。別人ではないかと思えることさえある。語り手あるいは書き手Pゆえの人物Sなのである。
坂本竜馬について誰が語り誰が書いたのかが重要なのである。竜馬と会ったこともないぼくたちが知りうることは、語り手と書き手の文言を除いて他にないのだ。本年の私塾で、ぼくはプラトンやレオナルド・ダ・ヴィンチや老子やマキアヴェッリを語った。実は、塾生たちはテキストを書き講話したぼくを学んでくれたのである。このことがいかに希少な僥倖であるか、そして、それを肝に銘じるからこそ、ぼく自身も神妙に人物から学ばねばならず、片時も手を抜くわけにはいかないと強く自覚できるのである。語り書くという行為が安直であってはいけない。そこにおける責任は重い。