イタリア紀行21 「エトルリア文明の名残」

オルヴィエートⅡ

エトルリアについてよく知らなかったし、今もさほどわかっていない。『エトルリア文明』というえらく難しい本にざっと目を通したが、受け売りするレベルにも達しない。ローマ時代を読むだけでも精一杯、さらにその前の紀元前の時代にまでは手が回らないのだ。エトルリア時代とのきっかけは2004年。ペルージャ滞在にあたって調べていたら、紀元前4世紀のエトルリア時代に遡る古代都市であることを知った(目の当たりにしたペルージャに残るエトルリア門は「歴史の貫禄」そのものだった)。

オルヴィエートもエトルリア国家の一つで、ペルージャよりさらに23世紀遡ると言われている。エトルリア(Etruria)はエトルリア人(etrusco)たちの居住地で、主として現在のトスカーナ(Toscana)地方を中心とした地域である。“Toscana”はこの“etrusco”に由来するらしい。生兵法は大怪我、いや大恥の基ゆえ、塩野七生の『ローマから日本が見える』に拠って「エトルリア人」を紹介しておく。

エトルリア人の起源については、いまだ謎とされているのだが、早くから鉄器の製造法を知っていて、イタリア半島に彼らが定着したのも、半島中部にある鉱山が目当てであったと考えられている。古代エトルリアには十二の都市国家があったが、突出した力を持つ国家はなかったので、エトルリア全体で協調行動を取ることがなかった。このことが、のちにエトルリアが衰亡する致命傷になったのである。

話をオルヴィエートに戻す。この日、アパートで前夜調理して食べ残したイカのリゾットをカップに入れて持参していた。それとゆで卵でランチを済まそうと思っていたので、レストランに入る予定はなかった。初めて訪問するイタリアの街で地元の料理とワインを賞味しないのはあまり賢明ではない。それは重々承知しているのだが、ローマで予約していたホテルを急遽キャンセルしたため想定外の出費があり、財布の紐を締めにかかった矢先だったのだ。

「ここはエトルリア文明の街だ」と自覚するだけで、視線は古びた煉瓦や街路にも延びてくれる。街の中心であるレップブリカ広場では市が立っていた。名物の白ワインを買わない手はない。二本がセットになったご当地の定番を買う。広場から旧市街あたりへ出て、地図に名前も載っていない小道をぶらぶら辿ってみた。

旧市街やドゥオーモへ引き返す別ルートの道すがらにエトルリア時代の遺産はほとんど残っていないのだろう。おそらく現存する面影は中世の佇まいなのだ。にもかかわらず、エトルリアの名残を時空間的に錯視している。そのように感じざるをえない舞台装置がここには巧妙に仕組まれていた。 《オルヴィエート完》

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レップブリカ広場の市場。店の数は多くないが、結構賑わっていた。
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広場に面して建つサンタンドレア教会と市庁舎。
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心惹かれたレストラン。メニューの値段を見て引き返した。
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サングラスを掛けたイノシシの剥製のディスプレイ。
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土産に買った白ワイン。一本400円。賞味した某氏は超高級ワインだと絶賛。
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ドゥオーモに向かう裏通り。エトルリア料理のトラットリア。
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通りから姿を現すドゥオーモ。繊細で眩しい光を放つゴシック建築の華である。
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「バラ窓」と呼ばれる丸いデザイン。まるでレース模様を編み込んだかのよう。

ネガティブマニュアルを解体せよ

今週の月曜日、昼にうどんを食べに行った。午後1時前、すでに賑わいのピークは過ぎているはずなのに、カウンターは満員。「お一人ですか? そちらのテーブルでお相席願えますか?」 示されたテーブルには女性が一人。そこに進みかけた矢先、別のテーブルが空いたのでそちらに座った。「お相席になるかもしれませんが、よろしいですか?」と念押しされてから、注文を聞かれた。

注文してからおよそ5分、うどん定食がきた。ランチタイムは客が引き潮のように消えていく。店に入ってからわずか10分ほどの間に、カウンター席も6つあるテーブル(各4席)も半数は空き、一つのテーブルに一人か二人が座っている状況になっている。誰が見たって、がらんとしている。

にもかかわらず、入店から食事を終えるまでの20分間、ぼくはホールを仕切るオバチャンの「お相席でお願いします」と「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」という声を少なくとも5回耳にした。ピークを過ぎてもお客さんは一人、二人と来る。そのつど、このオバチャンはそう声をかけるのである。他のテーブルが空いているのに、「こちらのテーブルで相席お願いします」と誘導し、知らん顔されて空いているテーブルに座られると「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」

このオバチャン、もはやうどん屋であることを忘れている。ピーク時の満席をどうやりくりして席を割り振るかに必死だ。これは、店長にきつく叱られたトラウマか。おいしいうどんをゆっくり食べてもらうどころではなく、限られた時間に何人捌くかがオバチャンの仕事になっている。未だ来ていない客との相席を当面の客に乞うのはネガティブ接客である。閑散とした時間帯にまでいちいち「相席」云々はないだろう。正直言って、うどんを食べた気はしなかった。落ち着かないこの店には二度と行かない。


「エスプレッソのほう、こちらの小さなカップでごく少量のコーヒーになりますが、よろしいでしょうか?」 エスプレッソを注文すると、5店舗のうち3店舗でこう確認される。飲んだことのないエスプレッソを注文したのはいいが、出てきた小さなカップを見てイチャモンをつける客が月に一回か二回かあるのだろう。そんな客対策としてマニュアルに「エスプレッソ注文時の確認事項」が追加されたのに違いない。

注文カウンターでアイスだのホットだの、レギュラーだのカフェラテだのと書いてあるメニューを見つめること数分、迷いあぐねて「エスプレッソ」と注文する客には、臨機応変を条件にそのように確認してもいいだろう。エスプレッソを知らない可能性があるからだ。だが、小銭をポケットから取り出しながら、メニューも見ず一秒たりとも逡巡せずに「エスプレッソ!」と威勢よく注文する客に断りはいらない。その対応は、喫茶業としては野暮である。

百円硬貨を二枚カウンターに差し出して、「ごく少量の濃いコーヒーの入った小さなカップのエスプレッソをください」と客のほうが先手で攻めたら、カウンターの向こうのアルバイトの女子、どんな反応を見せるのか。「エスプレッソのほう、ダブルにもできますが……」と対応するようマニュアルには書かれているかもしれない。 


リスクを未然に防ぐことは重要である。しかし、必要以上にクレームの影に怯えることはない。怯えて構える「転ばぬ先の杖」が目立ちすぎて逆効果だ。こうして編集されるマニュアルを「ネガティブマニュアル」とぼくは勝手に名付けている。正社員・パート社員は「後で文句を言われないための単純ハウツー」を徹底的に仕込まれ、まるで機械のようにワンパターンで反応する。こんな書き方をすると、人間に失礼? いやいや、センサーで状況判断できる機械に失礼だ。

思い上がるカスタマーや理不尽クレーマーが激増する昨今、ネガティブマニュアルによる自己防衛に走らざるをえない心情も察する。だが、行き過ぎだ。商売の本来あるべき姿から逸脱している。一握りの消費者への過剰対策が多数の良識ある消費者の気分を損ねることだってある。そのことに気づくべきだ。 

字句や文章に線を引く

昨日、何冊かに一冊は流し読みという読書に回帰しようと誓った。しかし、現実的にはそんな悠長な読み方は少なくとも仕事上は許されず、本にどんどん印を入れたり線を引いたり欄外にメモを書いたりする日々だ。

「線を引く」には二つの機能がある。後日の再読用に目立つようにしておく機能と、意識を高め読み取る気合を入れる機能だ。一つ目の機能は付箋紙でも代用がきくが、二つ目の機能はペンによる線引きでなければならない。印や線は内容の理解を促すような気がする。おそらく錯覚なのだろうが、ぼくの知り合いには一冊の本のうち90%の文章を蛍光マーカーで光らせている人がいる。


『広辞苑』で「下線」の項を引いたら、「アンダーラインに同じ」と書いてあった。ページを繰り直してアンダーラインの項へ。そこには「注意をひくため、または備忘のために、横書きの字句の下に引く線」とある。そりゃそうだ。文字の下に引く線だからアンダーライン。横書きの場合はそう。ところが、横書きの本なんて少数派ではないか。実際、手の届く本箱の一番上――読みかけやこれから読もうとセレクトした本を並べている棚――には80冊の本があり、そのうち横書きの本は『中学理科の教科書』と『ラテン語の世界』の二冊だけである。

わが国では圧倒的に多い縦書きの本。強調線を引くのは文字の右側であるから、アンダーラインとは言わない。ほとんどの国ではアンダーラインでいいだろうが、雑誌や一部の書物を除けば日本の出版物では下線の出番は少ない。再び『広辞苑』をめくった。さっき「下線」を調べたら「アンダーラインに同じ」だった。ならば、「横線」の項には「サイドラインに同じ」と出てくるのだろう、と推理した。

JR東海道線の支線「横須賀線」はあったが、「横線」なんていうことばはない。それで「サイドライン」へ飛んでみた。「テニス、バスケット・ボール、バレー・ボールなどで、コート両翼の区画線」が一つ目の意味で、二つ目に「傍線」とあった。

傍線なら知っている。傍点ということばもある。実を言うと、横線を発想する前に「縦書き文には傍線だろう」と見当をつけていた。しかし、ぼくが知るかぎり、傍線は自分のために引くのではなく読者のために引く線である。引用文などで「傍線筆者」と書くのは、読者のために原文にはない傍線を著者がほどこすことだ。


面倒臭くなってきたが、ここでやめたらそれまでの時間がムダになる。そこで念のために傍線を調べてみた。「強調し、または注意を向けさせるために、文字の横にひく線」とある(傍線部分は岡野――こんなふうに使う)。やっぱりそうだ。他人に向けられた線のことなのだ。しかし、ちょっと待てよ。強調するのは自分のためかもしれない。いや、自分が自分に注意を向けさせることだってありうるぞ。

というわけで、別の辞書『新明解国語辞典』にあたった。「縦書きの文章で、注意すべき字句(文)の右側に引く線」と定義されているではないか。さすが「明解(明快)」だ。これなら、注意すべき字句へ喚起させるのは自分でも他人でもいいことになる。しかも、「縦書き」と「右側」とまで厳密に書いてくれている。

縦書きの文章に引く線の名称は「傍線」ということで、一件落着。であるならば、先程の「強調し、または注意を向けさせるために、文字の横にひく線」の引用にあたっては、「下線部分は岡野」としなければならない。このブログ記事は横書きなので、必然下線と呼ぶべきであった。線はややこしい。縦書き・横書きに関係なく、これからは文章を囲もうと思う。

筆記具構えて本を読む

決心したのに守れなかった。それなくして一日を終わらせることはできないのだろうか。職業病なのか、あるいは習性なのか。久々にフルネームで呼んでやるならば、そいつはパーソナルコンピュータというものである。

血行があまりよくない。過度のPC使用が原因だと勝手に決めている。差し迫った仕事がない今日、在宅読書をすることに決めた。自宅なら軽装でデスクに向かえるし、いつでも身体をほぐす体操もできるし、刺激臭の強い湿布を貼っていても気にならない。何よりも、職場にいなければPCを使わずにすむだろうと目論んだ。

本は何冊も拾い読みした。しかし、途中で「はてな癖」が出てきた。読んでいる本のテーマとは無関係のその「はてな」が気になり、PCを取り出してそのことを書こうと思い立った。こうして「今日はPCを使うまい」という決心は数分前に崩れた。

(こんな経緯を前置きにしたために、休ませる予定だった指も手首も余計に使った。いきなり本題に入って、さっさと電源オフしたらいいのに……。おっと、この注釈すら余計。)


やわらかな木洩れ日が射す広い庭に面したテラスでティーカップ片手に読書。映画かドラマで実際に見たか、見たような気がするデジャヴ体験か、こんなシーンがよく浮かぶ。優雅な読書習慣は教養の高さを漂わせる。こんな場面でマヌケ顔の主人公は想像しにくい。記憶に残るそのシーンにズームインしても、筆記具はどこにも見当たらない。その読者はゆったりとページを繰るのみである。

そんな光景がチラチラして、読書に専念できなくなったのだ。その主人公に比べて、タイ製の中性ゲルインク「印のつけられるボールペン」という名称のペンを右手に読書をしているぼくが何だか守銭奴のように思えてきた。そんなに卑下することはない、獲物を追うハンターのごとく一字一句一行たりとも見逃さぬ知的情報行動ではないか!? と叱咤激励してもなんだかむなしい。

なぜ文章に線を引いたり用語を囲んだりするのか。欄外にメモを書き込むのか。好奇心とは一線を画す野心の成せる業か。習慣や仕事柄などいろんな理由があって「読書にペン」という取り合わせになっているに違いない。しかし、いつかどこかで使ってやろうという下心を認めざるをえない。ぼくのペンは一色なので三色ボールペンより下心の度合いはましだろうが、筆記具は読書の一つの特徴である「読み流し」の楽しみを奪っている。

本から何かを学ぶことと本そのものを読み流すことはまったく違う。忘れまいとして読むか楽しもうとして読むかという違いでもある。昨今、前者の読み方ばかりしている。読書や書物を題材にする著者もみんな筆記具片手に読んでいるんだろう。小説を読む時までペンを取り出すようになると、もはや仕事になっている。

調査や資料探しと次元を異にする読書をどこかに置き忘れてきたようだ。せめて数冊に一冊くらい、筆記具の代わりにコーヒーカップを片手に読書をしてみたいものである。  

なかなか整合しない、主題と方法

社会的意義のきわめて小さいニュースをお伝えする。昨日(12日)ぼくが代表を務めるプロコンセプト研究所が創業21周年を迎えた。一日遅れで取り上げることによりタイムリー価値も低減した。だからこそ、「済んだ話」として照れずに書ける。いや、記念日についてあれこれ書いてもしかたがないか。

過去21年間「理念は何ですか?」とよく聞かれた。聞かれるたび「ありません」と答える。まっとうな企業人や経営者が聞いたら呆れ果てるに違いない。おおっぴらに理念を掲げて公言することを躊躇するぼくだが、企業理念らしきものがないわけではない。世間で言う理念に相当するのは「コンセプトとコミュニケーション」なのだが、理念とは呼ばない。それを目的や目標や夢とも呼ばない。「コンセプトとコミュニケーション」は「コンセプトとコミュニケーション」であって、わざわざ理念という冠をつけることはない。

創業以来、ぼくはコンセプトとコミュニケーションを仕事にしてきたし、顧客のコンセプトづくりとコミュニケーション活動のお手伝いをしてきた。だから、理念ではなく、問い(主題)であり現実的な答え(方法)なのである。


先週も少し書いた「問いと答え」。この二つを対比するからこそ答えの有効性を評価できる。「無理なくダイエットして痩せたいですか?」――ある広告の問い(主題)である。しかし、無戦略的に太ってしまった意志薄弱な顧客を前提にしているのだから、「毎日10分のダンスエクササイズ」という答え(方法)は有効ではない。試練を乗り越えねばならないのは、テレビの向こうの杉本彩ではなく、デブっとしたテレビの前の消費者のほうなのだ。

新聞でも紹介されていたので知る人も多いだろう。緑茶とコーヒーが癌のリスクを減らすという話。日頃そこそこ飲んでいるのに、抗癌作用にすぐれていると聞いて回数を増やした人がいる。緑茶とコーヒー合わせて一日十数杯飲み続けた。ちょっと動くたびに腹がチャポンチャポンと音を立て、食事も受けつけないほど胃が満タン状態。主題に対する方法の有効性はいつ証明されるのであろうか?

おなじみのテレビショッピング。マッサージチェアの通販である。これだけ多機能、しかも、お値段はたったの(?)89千円! と例の調子でやっている。「疲れをとりたい、癒されたい」という主題に対して「お手頃価格のマッサージチェア」という方法の提案だ。触手が動きかける消費者の踏ん切りどころは「大きさ」である。そのことを承知している広告は、「半畳サイズに収まるのでかさばらない」かつ「お部屋の雰囲気を壊さない」と映像でアピールする。しかと映像を見るかぎり、確実にかさばっているし、和室もリビングルームも完璧に雰囲気が壊れてしまっている。主題を説くまではいいのだが、方法が弱い、答えが甘い!

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美しい理念を掲げながらも、現実には理念通りに行動できない企業。看板に偽りありだ。見事なテーマで企画提案書が練られていても、そこに一発解答の提案はない。広告の甘いうたい文句に誘惑されて手に入れた商品は何も解決してくれない。問題提起は威勢がいいが、いざ答えの段になると消費者の着払いというケースがおびただしい。「口先ばっかり」と言われぬように、自分への警鐘としておく。

組み合わせと配置の妙

G・ミケシュが著した『没落のすすめ』に、「虚栄心、好奇心、サディズム、冷静さ――これらを組み合わせれば、立派な外科医が出来上がる」という記述がある。医者に関して下手にコメントすると総理大臣すら批判を浴びるご時世だ。30年前に書かれた英国人の本でなかったら、「サディズム」はちょっとまずいかもしれない。

ところが、話はここで終わらない。著者はこう続ける――「と同時に、同じ組み合わせが性犯罪者をも作り上げる」。著者でないぼくだが、引用するだけでもドキドキしてしまう。外科医と性犯罪者を対比して類似性もしくは共通点を論うのは度胸を要する。しかし、これしきのことで目くじらを立てていてはいけない。例には事欠かないのだ。「無学歴、貧乏、病弱、苦労、一途」が稀に立派な人物の養分になる一方、これまた稀にテロリストをたくましく育て上げてしまうこともある。

驚くに値しない、当たり前のことなのだ。確率論からすれば、この国にあなたと同じ誕生月日の人間は35万人ほどいる。その中には医者も犯罪者も善人も悪人も必ずいる。血液型O型、四緑木星、みずがめ座というぼくと同じ組み合わせにも多種多様な人間が存在しているに違いない。「えっ、こいつと同じ!?」と、不幸な偶然にショックを隠せないかもしれぬ。もちろん、お互いさまだが……。


身長と体重がまったく同じでも、人間にも「鋳型」というものがあるから、見た目のスタイルはまったく違って見える。同じ顔のパーツを使うのだが、出来上がりの配置のおかしさに笑い転げるのが福笑い。部品の良し悪しが重要なのは十分承知しているが、実のところは組み合わせや配置の妙のほうが決定的なのである。綺麗な瞳、筋の通った鼻、魅力的な唇、すっきりした小顔に恵まれてもレイアウトがまずいと台無しだ。

「人が事実を用いて科学をつくるのは、石を用いて家をつくるようなものである。事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である」(ポアンカレ)

多くを示唆する名言である。情報の集積は知恵ではない、読書の集積は創造ではない、計画の集積は行動ではない……。学問の集積は必ずしも偉人をつくらなかったし、生真面目の集積も成功と程遠い結果をもたらすことが多かった。組み合わせと配置の妙――これこそがバランスなのだろう。

今年わが国が輩出したノーベル賞受賞者。お茶目な人あり、ワイン好きあり、シャイな人あり、テレビゲームに興じる人あり、風呂好きあり、とてつもないことを考える人あり……。自己評価すると、ぼくはほとんどこれらすべてに該当する。おそらくバランスが悪いに違いない。

なお、この組み合わせと配置にさまざまな問題の原因を求めていくと、けっこうすっきりすることが多い。たとえば、企画がなかなか通らないのは、内容の問題ではない。企画書のパーツはいいのだが、目次の構成と章立ての比重が悪いだけなのだ、など。但し、「個々の才能やスキルには問題がないのだが、組み合わせと配置がまずい」――これは言い訳にはならない。なぜなら、そのことを別名「バカ」と呼ぶからだ。 

イタリア紀行20 「ゴシック建築と白ワイン 」

オルヴィエートⅠ

20083月のとある日、ローマのヴァチカン近くのアパートを午前8時に出発。地下鉄レパント駅まで10分ほど歩き、ローマの終着駅テルミニへ。鉄道に乗り換えて普通列車で1時間20分のオルヴィエート (Orvieto)を目指した。

オルヴィエート。ワイン好きなら知っているか聞いたことがあるに違いない。ローマから近いにもかかわらず、たとえば『地球の歩き方 ローマ版』にこの街の情報はない。掲載されているのは『フィレンツェとトスカーナ版』のほうだ(フィレンツェからオルヴィエートは倍以上時間がかかる)。ローマ版ではティヴォリやヴィテルボ、フラスカーティは紹介されているいる。オルヴィエートをわざわざフィレンツェ版のほうに編集した理由がわからない。

イタリアを代表するゴシック建築のドゥオーモと安価で上質の白ワイン。オルヴィエートが自慢できる目ぼしいものはこの二つだけ。しかし、この二つ以外に何も望まなくてもいい。下手に何でもかんでも揃っていたり中途半端な特徴を備えているよりは、「これしかない」と言い切れるほうが「地ブランド」に秀でることができる。欧米人観光客は美しいファサードのドゥオーモ前広場にたむろしワインショップを訪れる。やはりその二つがお目当てなのだ。

当初からローマ滞在中にオルヴィエートに出掛けるつもりではあった。しかし、ぼくの動機は大それたものではなく、白ワインの里を見てみようという程度だった。オルヴィエートの駅からケーブルカーを乗り継いで到着したのはカーエン広場。先を急ぐならバスか徒歩でドゥオーモへ行く。しかし、広場の少し先の展望スポットに寄って眼下に広がる景色を楽しんだ。崖っぷち状の丘陵地の街なので眺望がとてもいい。

ドゥオーモに着いた。キリスト教にも教会の建築様式にも知識や教養を持ち合わせていないが、あちこちの街で見てきたデザインとの違いは一目でわかる。金色とピンク色を織り束ねたような模様と繊細かつおごそかなファサードのデザインに目を奪われる。座り込んでうっとりと眺めている人たちもいる。ぼくもしばし足をとどめた。ゆっくり歩きながらメインのカヴール通りに入り市庁舎のあるレプッブリカ広場へ。道すがら、あるわあるわ、名産の白ワインを所狭しと展示しているエノテカ (enoteca)。イタリア語でワインショップやワイン庫を意味する。ワインが23本単位で箱にセットされているのも珍しいが、もっと驚いたのは値札の数字であった。

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ケーブルカーのターミナル駅。
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はるか遠方まで見渡せるパノラマの図。
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着工1290年。300年以上の歳月を経て完成したドゥオーモ。
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ディテールを見事に描き出す浮き彫り。
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定番ワインは1300~500円。驚嘆に値する価格で、うまさも申し分なし。
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              落ち着きのあるドゥオーモ広場ではしばし佇んでみたくなる。

答えは問いよりも具体的であるべし

本ブログの名称である「オカノノート」は、ぼく自身が日々メモしているアイデア帳をそう呼んだことに由来している。たいした勉強家でも読書家でもないが、メモをつける習慣だけは断続的に30年ほど続けてきた。異種情報をごった煮状態で記しているので体系的な情報源にはなりえない。しかし、自分自身の発想・観察メモであることに値打ちがあるし、触媒や起爆剤として重宝している。

アイデアノートでも発想ノートでも、自分の名前を冠した「〇〇ノート」でもいいから始めてみたらどうか――知的生産に関してまったくノウハウもなく戸惑っている後輩や私塾の塾生にノートをつけるよう勧める。数年前からずっとそう言い続けてきて、本人もうなずき大いに共感してノートも購入していた。にもかかわらず、未だに着手していない一人の男性がいる。

彼はバカではない。だが、記憶力があまりよくない。記憶力が悪いのは、だいたいにおいて物事の観察や考察が粗っぽくて雑だからである。相当行き詰まっているようなので、「以前から言っているけど、ノートをつけなさいよ。その意義も理解し、効果もあると納得しているんでしょ?」と先日切り出した。「はい。わかっています。やってみたいと思っています。」「それならやればいい。そう思っているのに、なぜできないの?」

この問いに「単なるずぼらです」と彼は返した。こけそうになった。回りに角張った什器がなかったらたぶんこけていた。よくぞぬけぬけと言ったものだ。やろうと思ってやらない約束破りに仕事の手抜き……しまりなく無為徒食で過ごす日々……おまけに「ずぼら」の前に「単なる」をつけた。「単なるずぼら」につける薬はない!


「答えは問いよりも具体的であるべし」。これは「ことばの概念レベル」にかかわる重要なポイントだ。国語でも論理学でも、わが国では十分に取り上げられないのが残念である。

「なぜできないの?」は原因または理由を尋ねている。問うほうは「単なるずぼら」よりも具体的な答えを期待しているのだ。BecauseWhyより大きな概念だったら、原因や理由は永久に特定できなくなる。「総理はどのようにお考えですか?」に対して「前向きに取り組みたい」と体をかわしているかぎり、解決の答え、すなわち「解答」にはなっていない。

そもそも解答はある種の「ソリューション」でなければならない。たとえば「アメリカ大陸を発見したのは誰?」という問いに、「ヨーロッパの歴史上の人物」と答えても「イタリアはジェノバ出身のコロンブス」と答えても、いずれも正解である。だが、前者は上位の答えであり具体的な解答を棚上げしている。後者は「誰?」という問いに対してもっとも具体的なソリューションで答えている。

「ランチは何がいいですか?」とご馳走する側が尋ねた。「お任せします」は作法上礼儀正しいかもしれないが、尋ねたほうにとってはまったく答えになっていない。希望を聞いたのであるから、具体的な希望を言えばいいのである。ランチの希望を聞かれて「麦」というのも違和感があるだろう。いや、これはギャグになってしまう。「ランチ」という問いに「麦」が合っていない。せめて「うどん」か「パスタ」か「サンドイッチ」と答えねばならない。

ちょっと硬派な意見になったが、食事の話や普段の生活ではこんなに緻密である必要はない。しかし、問いに対して答えが大きくなってしまうと、仕事の打ち合わせ・商談・会議などで輪郭不明瞭な時間が過ぎていくのだ。正直言って、ぼんやりした受け答えを許容していると風土そのものがアホになってくる。

「売上不足をどう補完する? 対策は?」とサーブを打ってはみたが、「頑張ります」とリターンされたらバタンとこけるしかない。少なくともぼくはこんな精神論的ソリューションをまったく信じない。

「頑張ります」と答えたそいつに、「オーケー。でも、どのように頑張るのか?」とさらにたたみかけてみよう。そいつはきっとこう答える――「とにかく、がむしゃらに頑張ります」。ほら、抽象概念の階段は天へと伸びる。さっきはこっちがこけたが、今度はそいつにそのまま天高く消えていってもらおう。   

閑古鳥がおびただしい

「閑古鳥」とはカッコウのことらしいが、言い得て妙である。さびれている様子がにじみ出ている。貧乏神と同じく閑古鳥は招かれざる客なので、そこかしこで毎日毎日啼かれては困る。ところが、この閑古鳥、最近目立って繁殖しているようなのだ。ぼくの住むマンション近くにはどこからか追いやられてきたムクドリが群れているが、オフィス街に棲息しはじめた閑古鳥の数はムクドリの比ではない。

週末に大阪の目ぼしい繁華街を散策し、デパートや専門店にも立ち寄って人出や賑わいをチェックする。不景気や金融不安などどこ吹く風、どんどん皆さん買っているし飲食している。心斎橋の有名ブランド店の一つなど、百均ショップではないかと見間違うくらい混んでいた。ニーズ(必要性)を満たすために消費しているとはとても思えない。緊急性などまったくないウォンツ(願望)がコンスピキュアス・コンサンプション(見せびらかし・目立ちたがりの消費)へと加速している。

このように景気をまったく気にせずにせっせと消費できる人々がいつの時代にもいる。どのくらいの人口比なのかは知るすべもないが、ぼくの周辺では五人に一人というところか。この20%の人たちは必ずしもセレブばかりではない。収入の多少や肩書きの上下や消費額の大小とは無関係に存在する。誰一人として景気と無縁に暮らせる者などいないはずなのだが、不思議なことに、この連中は景気に鈍感であり続けることができる。五人のうち景気に敏感な残りの四人はどうしているのだろう。迫り来る不況の影に怯えながら財布を握りしめタンスの引き出しを押さえているのだろうか。


一昨日の夜8時頃、自宅へ帰る途中にオフィス街の飲食店を外から覗き見して歩いた。想像以上に閑古鳥の占拠地帯が広がっていた。しゃぶしゃぶの店、中華料理店、イタリアン、フレンチ、寿司割烹など軒並みチェックしたが、惨憺たる状況だった。オフィス近辺で午後8時前後に客がいないようならその日はほぼアウトだ。飲食業ではないものの、「明日はわが身か……」と現実を直視する。

夏以降、続々と店が閉店に追い込まれて、わずか一ヵ月ほどすると別のオーナーがそっくり新装してオープンする。最初の数ヵ月は新しさ・珍しさゆえ、口コミで人が人を呼んでくれる。だが、昔に比べて選択肢が圧倒的に多い現在、その店でなければならない理由などそう多くはない。週一回や月二回と足を運ぶには他店と一線を画する決定的な差異が必要だ。そんな特徴的な店にはめったに出くわさない。

夜、どこかで飲食する。どなたにも行きつけの店があるだろう。しかし、そこが満員であれば別の店でも代用がきく場合が多いのだ。ぼくなど常連になるのを好まないし、常連ゆえに求められる立ち居振る舞いが面倒なので、行きつけの店でもせいぜい年に6回まで。二、三ヵ月空くことになるから、次回行くときには新参者。ゆえにめったなことでは顔なじみにまでは至らない。


他方、閑古鳥とは無縁の一握りのエリート店がある。「行列の並ぶ店」とか「なかなか予約の取れない店」と聞いて、さあどうする? ここが食にまつわる消費行動の岐路である。

「一度でいいから、何時間並んでも行って見たいし半年先でも予約しておきたい」と思う。実はこんな人たちは少数派なのだが、マスコミがこぞって取り上げるために、「世の中、そんな連中が多いんだなあ」と思い込まされるのである。どんなにうまい焼鳥屋であっても、2時間も3時間も待つことなんかない。近場を探せば、遜色なくてリーズナブルな店が必ずあるものだ。どんなに有名でミシュランガイドで取り上げられていようとも、予約してから半年間も待ち続けることなどない。

ぼくの店選びはとても簡単である。いい店なら客を待たせてはいけない。これが顧客満足というものだろう。「行列ができる」というのは世間の評価であって、ぼく自身にとってはまったくありがたくない現象である。さっきまで並んでいた客が入店する時、後ろに列をつくっている客たちに投げかける、あの「勝ち誇ったような一瞥」の嫌らしさはどうだ。「予約のむずかしい店」など論外である。そんな店はぼくの中では存在しない。その店をなかったことにしておいて何一つ困ることなどない。

弱者発想のぼくとしては、人気店の動向にはあまり関心がない。それよりも、オフィス街でランチを提供してくれている、無名だが一工夫があってリーズナブルなお店を潰しては気の毒だと思う。だから、グルメガイドに頼って遠方まで出掛けず、近くの店を食べ歩きしてみる。気に入った店にはちょくちょく通ってあげる。こうして一羽でも閑古鳥を減らしてあげたい。

とか何とかキレイごとを言いながら、ぼく自身、最近めっきり外食機会が減った。年齢のせいだけではないだろう。わざわざそこに行かねばならないという情熱も薄らぎ、魅了してやまない特徴的な店も少なくなった。何よりも、忍び寄る不機嫌な時代の空気に知らず知らずのうちに備えているのかもしれない。   

省略を避ける無難な習慣

昨日の話の続きである。省略という行為を「奇妙な習慣」と言ってはみたが、よくよく考えると、省略しない、すなわち敢えて面倒な形式的手順を踏むことも奇妙な習慣に思えてくる。正確に言えば、無難な習慣ということになるだろうか。

フォーマルな手紙のあいさつ表現に「拝啓-敬具」というセットがある。「こんにちは」と言うほど親しくもなく、かといって共通の話題もない。そんなとき、さしさわりなく始めさりげなく終えるのにもってこいの常套手段である。手紙の文章が「拝啓」で始まる――それは、次に続く「貴下益々ご清祥……」や「師走の候……」にはほとんど意味がないことを書くほうも読むほうも了解済み、ということだ。したがって、拝啓の次はしばらく飛ばして「さて」まで行けばいいことになっている。

ぼくもやむなく「拝啓」で始めなければならない手紙をしたためることがある。しかし、拝啓で始めたにもかかわらず、その後に書くべき定型文のどれもが相手にふさわしくなくて困り果てる。そんなとき、「拝啓」の後に何となく「前略」と書きたくなるのだが、この衝動は例外か。


心にもないことを書き、それを相手が読みもしないのだから、「前略」一つですべてをまかなえばどうだろう。前略とは手紙文の文章の前の部分を省略することである。それは、冒頭の時候のあいさつも省いてしまってもよいという約束の上に成り立っている便利な記号だ。つまり、「儀礼的な挨拶はしません」とか「用件のみ」とか「すぐに本題に入ります」とか「冗談抜きで」という合図であり予告である。

ところが、前略に続いて「大変ご無沙汰しておりますが、日を追って寒さが厳しくなる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか」という変則をよく見かける。これは、「拝啓 貴下益々ご清祥」ほどフォーマルではないにせよ、「カジュアル・ヌーヴォー」と呼ぶべき新ジャンルだ。この形式においても、「さて」が来るのは数行先である。前略だけではない。だいたい「略儀ながら」と書かれてある手紙で形式的な手続きが略されているものにはめったにお目にかからない。そして、このような奇妙な習慣は電子メールにも継承されている。

いっそのこと「前略-草々」というセットもやめてしまってはどうだろうか。前略なのに往生際が悪く、何一つ略していないではないか。ぼくの場合、メールであいさつが面倒なとき「用件のみ」と書くことがある。反省すれば、あれだって一種の言い訳だ。唐突感を避けて本題を少しでも先送りしようとする魂胆がある。同様に、前略も言い訳に等しい。そんな言い訳を一言もしたためず、いきなり用件からズバッと入る。一切の飾りや虚礼がないからぶっきらぼうである。まるでウォームアップなしにいきなり水に飛び込むようなもので、危険なことこのうえない。書き手には尋常でない勇気がいる。と同時に、そんな手紙やメールを受け取る読み手の器量と度量も試される。

昨日地名の話から始めた「省略」の主題が、変な方向に脱線してしまったかのようだ。中途半端でオチもない。ゆえに「後略」とする。