人称と主語のこと

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。
斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。傍に折鞄おりかばんが置いてある。
酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。

森鴎外の『牛鍋』の一節である。「鍋は」や「葱は」のようなモノの三人称が五か所現れるのに対して、主人公を示す三人称の文章は「箸のすばしこい男は」という一か所のみ。「晴着らしい印半纏を着ている」「酒を飲んでは肉を反す」「肉を反しては酒を飲む」の三か所はその箸のすばしこい男のことだが、歯切れのいい短文家の鴎外はいちいち主語を書かない。日本語では英語のように明確な人称は文法上規定されるものではない。ところが、英語でそれをしてしまうと文法違反になる。

本棚から英語で書かれた本を無作為に一冊引っ張り出して数ページ読んでみたところ、主語のない文章は一文もなかった。明らかに著者が書いているとわかっているのに、“I’ve been……” “I can……” “I suggested……と執拗なまでに”I”が出てくる。今「執拗なまでに」と書いたが、なければ文章が成り立たないから必須なのだ。中学英語を思い出せばいい。英語の五文型はS+VS+V+CS+V+OS+V+O+OS+V+O+Cであり、Sで示される主語は命令文を除いて欠くべからざる文頭決定力を持つ。


かなり腕のいい翻訳者でも、ふつうの日本文に比べると翻訳文での主語の頻度は高くなる。文脈を追えば誰のことか何のことかわかるのに、英文和訳という作業では明快性を重んじる余り主語を丹念に訳してしまう。自然な日本語なら消されるはずの主語が翻訳文で出てくるとくどい印象を受ける。翻訳文ではないが、先日新聞のスポーツ欄にすさまじいほど主語が濫発された記事を見つけた。

日本はサウジアラビア戦から……
日本は前半6分すぎ……
イランは後半12分……
日本は後半37分に浅野を投入。
日本は延長前半6分、
日本はさらに延長後半4分と同5分に……
日本はイランの反撃をしのいで逃げ切った。

悪文である。主語イランはいるが、残りの日本のうち4つは省略できるはずだ。三人称はあるほうがいいと思うけれども、ここまで畳みかける必要はない。もっとひどいのは一人称の安売りである。小学生の作文じゃあるまいし、大人がそのつど「私は」と断って文を綴ることはない。「私は」とくれば、心理描写文の文末は「思う」「考える」「感じる」で結ばれることが多いから単調になってしまう。加えて、厄介なことに日本語では「私」だけが一人称単数ではない。「おれ」や「ぼく」があり、「自分」というのもある。人称というアイデンティティの明示の他に、相手との関係における自己の表現方法までもが関わってくる。

主語としてのI

名翻訳家で知られる別宮貞徳は、「ぼくは先輩と話をするときは『わたし』といい、後輩と話をするときは『おれ』という」という一文を挙げて、これは翻訳不能な日本語であると指摘する(『裏返し文章講座――翻訳から考える日本語の品格』)。英語の一人称単数代名詞は“I”しかない。英語に置き換えて伝えようとすれば、原文を裏切って長々と説明するか、欄外注釈を設けるしかない。もっと言えば、“I”しかないから文法上絶対に消せない機能が付与されるのだろう。五文型もそうだが、ある種数理的なものを英語に垣間見る。これに比べると、日本語の主語は調子を合わせるほどの働きしか持たないように思われる。文法上必須ではないのだから。

空耳とか空目とか……

十日ほど前に『聞き違い』について書いた。言われたことを違った音で拾ってしまうのが聞き違い。明らかに聞く側の罪なら「聞き間違い」だ。しかし、言った側の言い間違いや発音の難の場合もある。その場合は「聞き違い」と言うべきだ。また、発話された音通りに聞いたけれど、意味が違っていたというケースもある。同音異義語が多い日本語では珍しくない。「こんしゅうオープンします」と話し手が言い、聞き手もそう聞いた。てっきり「今週」のことだと思っていたら、後で「今秋」だと判明した。

空耳そらみみ」ということばがある。もともとは「声も音もしないのに聞こえた気がすること」だ。つまり、無言・無音の独りよがりな音声化。これは幻聴に近い。最近では空耳も聞き違いの意味で使われるようになっているらしい。たとえば、「それ、空耳だ」という発言を「ソレソラミミド」とドレミの音階として聞き取ってしまうことをも空耳と呼んだりする。さて、空耳があれば、五感すべてに「空ナントカ」があってもよさそうだが、空鼻、空舌、空皮膚などとは言わない。しかし、あまり口にも耳にもしないが、「空目」という表現はちゃんとある。「見えていないのに見えたような気がすること」である。これは幻視やデジャヴか。

足し算

見えたものを違ったものに見るのは、正確には「見間違い」と言うべきなのだろう。この見間違い、文字を読む時にはよく起こっている。難解な漢字を読めないから当てずっぽうで読むという意味ではなくて、たとえば「縁起」と書いてあるのをてっきり「緑地」だと早とちりしてしまうような場合。上に挙げたのは、順に足していくという、単純な数字の計算なのに、頭の中で勝手な計算をしてしまう人がいる。単純ならではの油断かもしれない。さて、合計するといくらになるか。


連続ドラマ『あさが来た』の主題曲『365日の紙飛行機』。曲名も歌詞もろくに見ずにほぼ毎日観ていた。「♪ 人生は紙飛行機……」というくだりがぼくの耳にはいつも「人生は並木小路」に聞こえていた。

ある日、「なみきこうじ」ではなくて「かみひこうき」だと知った。知ってもなお、ぼくの癖耳は「なみきこうじ」としか認識しない。歌い手の「かみひこうき」の「か」の発音に鼻濁音が入っている。鼻濁音は「ま行」や「な行」の音だ。「か」が鼻濁音の「な」に聞こえてしまったら、「かみ」は「なみ」に聞こえる。ぼくの見解はこうだ――“k”の音はもっと強く発するべきであり、甘えっぽく発音すると訛って鼻濁音化する。ローマ字で書けば、【ka-mi-hi-ko-ki】が【na-mi-ki-ko-ji】に化けているという次第だが、あいにく並木小路がありえない表現ではないから成立してしまった。このことを知人に話した。どうだった? と後日尋ねたら、「もう並木小路としか聞こえません」と言ってくれた。他のみんなの耳にはどう聞こえるのか、興味津々である。

聞き違いはもとより、聞いて分かったつもりになる症候群は外国語を使う時に顕著に現れる。相手の話をよく理解できていない時に分かったかのようにうなずく人がいる。

ずいぶん前の話。連れて行ってもらったカラオケラウンジに、日本に来て間もない中国人女性がいた。たどたどしい日本語でかろうじて応対はできるものの、長い話や複雑な表現にはついて来れない。「はじめまして。○○です。あなたのお名前は?」などと尋ね、飲み物を聞き、乾杯まではルーチンでこなす。ところが、乾杯して23分も経たないのに女性はカラオケの本をぼくに押し付け、「歌、好きですか? 歌ってください」と言う。間が持たないからとは言え、カラオケにはちと早すぎるではないか。大阪弁で「まだええわ」と言って本を返した。するとどうだ、女性はカラオケのページをめくって「まだええわ」とつぶやきながら、その曲を探し始めた。苦笑いしながら「あのう、曲名と違うから」と言えば、今度は「きょくめいとちがうから」と言う曲を探す。「間が持たない時は客に歌わせろ」というのが新人への教えだったらしい。

さて、先の単純足し算。約7割の人が「5000」と即答する。正しくは「4100」である。

聞き違い

「聞き間違い」というのが一般的だが、「聞き違い」ということばもある。『新明解』によれば、【聞き間違い】は「相手の意図と違った聞き取り方をすること」と説明されている。ノーという意味の「結構です」をイエスに解釈するなどが一例。他方、【聞き違い】は「話し手が言ったことを、聞き手が内容をちがえて聞いてしまうこと」とある。一を七と聞いてしまうという例が挙がっている。語釈に素直に従えば、【聞き間違い】には聞き手の思い込みや勝手な解釈が暗示され、【聞き違い】には話し手の発音や話し方も一因になっているニュアンスがありそうだ。

誰かが何かを言い、それを聞き手が意図や発音と異なって聞いてしまう。話し聞くという関係につきまとう意思疎通不全である。「聞き間違い」と決めつけてしまうと、一方的に聞き手の問題になる。コミュニケーションは話し手と聞き手相互の共有化努力であるから、誤解や間違いも両者の責任に帰することが多いはずだ。喧嘩両成敗であってみれば、「聞き違い」と言うのが妥当な気がする。

喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、隣りのテーブルに年の頃アラフォーの女性が座り「伊達巻アートください」と言った。喫茶店で伊達巻アートなる奇怪な品を注文することはない。だから、そうは言っていない。しかし、ぼくの耳にはそう聞こえたし、それ以外のどんなものにも聞こえなかった。注文を取った店主は理解したらしく、聞き返さなかった。しばらくして、注文の品がテーブルに運ばれた。「こちらカフェ・マキアートです」と店主は告げた。「ミルクをたらしたコーヒー」という意味のイタリア語だった。「ダテマキ・アート」ではなかった。ともあれ、カフェという音に対してぼくは寛容を欠いていたようである。けれども、隣席の客にカフェをダテと聞き違いされたのだから発音の問題無きにしもあらずではないか。


以前勤めていたスタッフで奇想天外な聞き間違いをする女性がいた。「田中さんからお電話です」と内線があり、出たら「中田さん」だったことなどは朝飯前。ひどい時になると、「綾小路さんからお電話です」などと告げられ、そんな人知らないなあと思いながら電話に出ると「有田さん」だったことがあった。自分の知っている範囲内で知らないことを分かろうとする人で、知らないことを背伸びして理解しようとはしなかった。耳慣れない音も自分の認識できる音で聞いたのだろう。このレベルになると、わざと聞き間違っているのではないかといぶかってしまう。

聞き違い

話し手の発音に問題もなく、また聞き手もきちんと聞き分けたが、音の問題ではなくダブルミーニングによって起こる聞き違いがある。俗に「ぎなた読み」というのがそれ。「お食事券」を意図した「おしょくじけん」という発音が「汚職事件」と解釈されるケース。「朝が楽しみ」と言ったのに「朝方のシミ」に意味が化ける。ワープロ時代に使っていた機種は、「絞り込んだ」と書くつもりで入力したら「思慕離婚だ」とシャレた誤変換をしてくれた。

先日、関東の知人から聞いた体験談。焼肉の「叙々苑」で食事をした。会計の際に、店員が「領収書はいかがいたしましょう?」と尋ねたが、知人は「なくていいっすよ」と言った。支払いを済ませて店を出ようとしたら、店員が「あのう、領収書ですが……」とまた言うから、「だから、なくていいっすよ」と繰り返した。落ち着かない様子でボールペンを走らせた店員が領収書を差し出した。「なくていいと言っているのに……」とつぶやきながら受け取った領収書には「ラクティス様」と書いてあった。「なくていいっすよ」が「株式会社ラクティス」に変身した瞬間である。まるで作り話のようだが、聞き違いにまつわる話はめったにすべらない。

あいまいさを背負いながら

西田幾太郎は「事実には主語も客語もない」と言った。いま、ぼくの右手にコーヒーカップが置いてあって、指はパソコンのキーボードを叩いている……左手には引用した西田の一行が書いてあるページが開いており、そのページはぼくの愛用のシステム手帳に綴じたもの……と、適当に机回りの事実を描写してみたが、ここに書いたありようで事実は存在していない気がする。少なくとも、ここに書かなかった以外の存在の仕方があってもいい。いや、そもそも事実などは存在せず、ぼくが主客関係を決めて見えるものを勝手に解釈しているだけのことかもしれない。

あいまい語辞典

そう考えた上で疑問が生じる。目の前の状況として見える事実があいまいなのか、それとも、事実には節理があるが解釈する側の認識構造があいまいなのか……。文法に則って主客の関係を描こうとするのは事実の明晰化努力ではないのか。いや、人間以外の存在は何もかもがもともと明瞭であって、認識と言語がそれらをあいまいにしか捉えられないのではないのか。机の端で床に落っこちそうになっている辞典を引き寄せる。某所から譲り受けた百冊ほどの中の一冊、『あいまい語辞典』。こんなことを考えたのはこの辞典がきっかけだった。

「あしらう・あいさつ」という見出しがある。はっきりと意味がわかっているつもりだが、あいまい語なのだそうである。あしらうは本来「取り扱う、応対する、受け答えする」だから、良いも悪いもない。ところが、「プラス面を表面に出しながらハラの底ではマイナスに取り扱っている」と著者の芳賀綏は言う。社交上の儀礼を尊重する日本人は、あしらいを定型化し、それがあいさつになっているという見解である。たしかに、誠意のこもっていないあいさつを交わされることがある。メールや葉書の末尾に必ず「感謝」と書く人がいるが、もはや常套句であってみれば、受け取るこちらも感謝されているという実感に乏しい。


定型化されたあいさつはメッセージ性に乏しく、意味はすでに形骸化している。言い過ぎなら、あいまいと言い換えよう。朝のあいさつは丁寧なご機嫌伺いの「おはようございます」。昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」に限られ、おはようございますに比べると味わいに欠ける。「おはよう」には格上のニュアンスがあって使いづらい時がある。かつてコメディアンのトニー谷は「おこんばんは」とあいさつしたが、単純なギャグではなくて、「こんばんは」では芸風上ぶっきらぼうだったのではないか。

なお、英語では、good morninggood afternoongood eveninggood nightとそれぞれ朝、昼、夕、夜に対応し、いずれにも「良き」という共通の修飾語が付いている。概念レベルも一致している。フランス語も同様で、朝のjourに、夕方のsoireに、夜のnuitのそれぞれに良きという意味のbonが付き、イタリア語もbuongiornobuona serabuona notteとほぼ同じ用法。ぼくの知る欧米語はどれも「良き何々」とあいさつしている。日本語は良き朝ではなく、早い朝と告げる。こんにちはもこんばんはも単に時間帯を示すだけだ。

どの時間帯にどのあいさつをするかに関する厳密な決まりはない。正午になった瞬間、おはようございますをこんにちはに変えるものでもないだろう。意味もあいまいなら使い方もあいまい。あいまいではあるが、あいさつを交わさなければ不自然な場面が出てくるし、将来の関係に陰りがさす場合もある。あいさつを交わすことから逃れるのはむずかしい。あいさつだけに限らない。日常会話に始まり、会議、文学、広告、報道、さらにはアイコンに到るまで、表現はつねにあいまいさを内蔵している。言を尽くしても意味が明快になるわけではない。ことばの量とわかりやすさは比例しない。「すべて物の色、形、また事の心を言い諭すに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり」と本居宣長が説いた通りである。

ふつうに考えれば、ことばや記号に意味を乗せるのはコミュニケーション(意味を分かち合うこと)を目論むからである。どんなメディアでもどんなジャンルでも、メッセージの意味を理解できることがあり、たとえそれが表現者の意図通りではないにしても、わかったつもりにはなれるのは、コミュニケーション機能があるからだ。しかし、あいまいさを乗り越えられる場合とそうでない場合がある。ある特定の人々にはコミュニケーションとなり、その他の人々にはディスコミュニケーション(意味が分かち合えないこと)になる。わかる人にはわかり、わからない人にはわからない。まるで暗号や隠語みたいだ。あいまいだからと言って、明瞭なことば遣いを心掛けることがまずいわけではない。ただ、あいまいさを背負っているという自覚は必要である。

言を慎むな

口は一つ、耳は二つ

昨秋、近所の寺の掲示板に「口は一つ、耳は二つ」という墨字が貼り出された。住職は気に入っているらしく、これが二度目だ。単に顔の物理的特徴を示したわけではない。そんなことは言われなくても、毎日鏡を見て承知している。注釈に「よく語ることよりもよく聞くことが大切」とあったから、顔の説明ではなく訓戒を垂れたのに違いない。

この時代に、喋るよりも聞くほうが重要だと言い切るとは実に思い切りがいい。喋ることを聞くことの下位に置く主張に対して、ぼくは真逆の意見の持ち主なので、無性に戦闘意欲が湧く。同じ類いの「沈黙は金、雄弁は銀」にも「賢者は黙り、愚者は語る」にも異議ありだし、アンチテーゼをぶつけるだけの相応の論拠も持ち合わせている。後者などは老子のことばだが、相手が老子だろうと他の偉人であろうとひるまない。

洋の東西を問わず、「ことばを慎め」の類の格言は枚挙にいとまがない。いくつか取り上げてみよう。

舌は人を破滅させる。(古代エジプト)

舌を滑らせるくらいなら、足を滑らせるほうがましだ。(アラム)

賢人の舌は胸の内に、愚者の心は口先にある。(旧約聖書)

喋ってから口に手を当てても遅い。(フランス)

口は災いの元(口は禍の門)。(中国)

わずか一言でも下手に受け取られると、十年の功績も忘れられてしまう。(モンテーニュ)

鵜呑みにして実践していれば、事を荒立てない、長い物に巻かれるなどの処世術はある程度身につくかもしれない。なお、話すこと、ひいてはことばがよい意味で使われる時はつねに「心のこもった」とか「親切な」という修飾表現が伴う。たとえば、「親切な言葉は、蜂の蜜ふさのようだ。魂に甘く身体のためにもなる」「心のこもった言葉は三冬の間、寒さを感じさせない」「親切な言葉は冷たい水よりも喉の渇きを癒してくれる」という具合だ。


言を慎めというのは処世術である。処世術では危険を冒さない、無難な生き方が奨励される。したがって、人と人が語り合い、意見の違いを乗り越えるようなことを教えない。闘争的コミュニケーションをするなどはもってのほかだ。但し、その代償として言語明瞭性を失うことになる。言語は思考に関わるから、ことばを二の次としていては考えることを放棄することになりかねない。「口は一つ、耳は二つ」と言うなら、頭も一つだ。なるほど、だから考えるよりも聞くのがいいと言うわけか。

勘違いしてはいけない。先に挙げた格言を残した賢人たちは処世術を説いたのであって、コミュニケーションスキルを教えたのではない。仮にコミュニケーションのコツを伝授したのであったなら、聞くことを喋ることの上位に置いたのは知見不足と言わざるをえない。誰かが話すのを前提としなければ聞き上手は生まれない。赤ん坊は聞く行為から言語を高度化していくのだが、それが可能になるのはことばが飛び交う動的場面で育つからだ。そして、聞くだけでなく必然話すようになる。話さねば生きづらいからである。にもかかわらず、大人になって組織に入って世渡り上手を目指すにつれて言葉少なになる。この時代にあっても「口は一つ、耳は二つ」の類の教えが、ぼくの知る多数の組織で今も優勢であるのは嘆かわしい。

同時に、こうした教えと同期していては仕事にならない現実がぼくの周辺ではっきりしてきた。寡黙な人間から創造的なアイデアは生まれなかったし、省エネ話法のコミュニケーションに終始する者は消えていった。聞き上手や無口な者は語るタイミングを見極められない。やがて人間関係上の力学に支配されて意見を述べる機会すら失う。ところで、冒頭の寺だが、翌月には「みんな違っていい」を貼り出した。「みんな違っていい」は十人十色という異質性の訴えではないか。黙って聞いていれば「みんな同じ」に見える。人と違う個性を生かそうとするならば語らねばならない。もっと言えば、みんな違っていいのなら、「よく聞くことよりもよく語ることが大切」を実践してまずいはずもないだろう。

ALLとSOME

一昨日、関東へ赴いた。心の赴くままではなく、半日セミナーで小難しい話をするため。論理とディベートの話だが、論理のほうに軸足を置いた構成にした。この論理というテーマ、二十代に出合った頃は難攻不落だった。三十代になって難しさが小難しさに変わり、薄っすらと明かりが見え始めた。そして、四十代になって輪郭がだいぶはっきりしてきた。『論理的思考』と題して数時間以上話せるようにもなった。

とは言え、この十数年で論理についての考え方は大きく変わった。まず、頭の中の論理的思考など見えるはずがないと懐疑した。便利なことばなので、英語の“logical thinking”ロジカルシンキングも当り前のように使われるようになった。しかし、Aさんの思考自体が論理的であるかどうかは本人にも他の誰にも確かめようがない。Aさんが書いたり語ったりしてはじめて、筋道が通っているかどうかが分かる。論理はことばに宿る……コミュニケーションの論理は思考の論理に先立つ……こんなふうに考えるようになった。論理は他人によく理解してもらうために欠かせない。論理はことばを明快にする上でたいせつであり、その結果として、自分の考えの整理に役立ってくる。

文と文がスムーズにつながっていれば話は明快になる。つながりの役割を果たすのが接続詞だ。論理学では、前の文を前提、次の文を結論などと呼ぶが、その二文を「ゆえに」や「だから」などの順接接続詞で結ぶ。留保したり否定するときは、「しかし」や「だが」などの逆接接続詞を使う。接続詞は二つの文の関係性を明らかにする。さらに、一文だけを見ても、単語と単語の関係や連句・連語という形で論理が機能する。ここに、肯定や否定、選言や連言が加わる。数ある説明のうち、大森荘蔵の『流れとよどみ――哲学断章』の説明が分かりやすい。

「……でない」という否定詞、「……かまたは……」という選言詞、「……でありまた……」という連言詞、「……はみんな」という総括の言葉、それに「何々は……である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書きあげたのが「論理学」なのである。

ALL or SOME

書きたいことは山ほどあるが、話を「……はみんな」という総括に絞る。「みんな(すべて、あらゆる)」と「いくつか(一部、あるもの)」を対比させるほうが話が明快になると思うので、手っ取り早く“ALL”“SOME”で表わしておく。


口癖のように「日本人はみんな」と主張し、「ありとあらゆる要素」と豪語し、「こちらの商品、皆さんお買いになっています」と一般化する。一部の人間の集まりに決まっているのに「みんなの党」が存在したし、「なぜわたしだけ? みんなやってるやんか!?」という大阪ローカルの公共コマーシャルがあった。ALLを含む文や語は威勢がいい割には、実質ALLとはほど遠い。科学の帰納的方法を尽くせばALLに言及できるかもしれない。たとえば万有引力の法則のように。しかし、凡才にはALLは手に負えそうにない。謙虚にSOMEに限定して語っておくのが分相応だと思われる。なお、「ほとんどの場合」というのは、SOMEであってALLではない。念のため。

ALL命題に全幅の信頼を寄せると虚偽の一般化という落とし穴にはまりかねない。「百人中百人すべて」を100/100と表わすとしよう。「全員が男」を証明するなら、帰納的に一人ずつ調べていけばいい。この分母と分子サンプルは少なければ少ないほど検証は簡単だ。中小企業が「当社の社員十人はみんな営業上手である」と、10/10の証明をするのはさほど難しくない。しかし、一億人分の一億人(100,000,000/100,000,000)になると、すべての要素の証明はもはや不可能。数字が大きすぎるとコミカルにさえ見えてくる。したがって、「一億総活躍社会の実現」などは論じたり解いたりできる命題にはなりえず、確証のない幻想的スローガンに過ぎないことに気づく。

評論家の大宅壮一の造語「一億総白痴化」は一時期一世を風靡した。ちなみに「いちおくそうはくちか」をぼくのPCは「一億蒼白地下」と変換した。一億人みんなが白痴になったら地下に眠るご先祖さまは蒼白状態になるだろう。半世紀以上前に生まれたこのことばはテレビ普及が進む世相を批判した。テレビは人から想像力と考える力を奪い、日本人全員をおバカさんにしてしまうという推論。言うまでもなく極論だが、一億総活躍よりも「らしく」見えてしまうのは、ぼくがアマノジャクのせいばかりではなさそうだ。それほど、一億総活躍社会のALLの論理は危うい。叶わぬまでも理念や願いを抱くのはいいことだ。しかし、表現のおもしろさに直感的に飛びついたのだったら、これから先、どうやってコンセプトとコンテンツの辻褄合わせをしていくのか。こじつけっぽくなりそうな予感がする。

一億総活躍社会が今年の新語・流行語大賞の一つに選ばれた。今日のところは選考者を責めないでおく。ともあれ、「一億総○○」は大宅壮一がすでに創案したのであるから、新語とは言えない。だから、流行語として選ばれたことになる。いかにも表現上のファインプレーを狙った感が滲み出ている。そして、流行語であってみれば、一過性の話題特有の短命を予感させる。どう考えても、一億人みんなが活躍できる社会が実現するとは思えない。まだしも、国際競争力を強化したい分野の中小零細企業の人材総活躍を目指すほうが策の立てようもあるのではないか。

ポツンと一言だけ言わない習慣

人前で話をするのが仕事の一つである。だが、いわゆる「古典的な弁論」は苦手だ。ぼくにとって弁論という行為はパフォーマンスにしか見えない。そこに聴衆に聞いてもらう、理解してもらうという意識に動かされた説明は見当たらない。生真面目に言うなら、話し手はパフォーマーであってはいけない、考えを伝えることを最優先しなければならない。

研修や講演の後の交流会や懇親会で話をせよと言われることがある。これも苦手である。さっきまであれほど聴衆に向けて話していたのに、宴席で挨拶をしたり乾杯の音頭を取ったりする段になると気が進まなくなる。ギャラが出ないからではない。結婚式に招かれたら、ギャラがなくても、いや、それどころか、祝儀をはずんで話をしている。来賓としてスピーチをするのは好まないし、適材適所だとも思わないが、やむをえない社交だと割り切って引き受ける。ところが、一仕事の後に、話すという一仕事に付き合ってくれた同じメンバー相手に、仕切り直して挨拶や乾杯のスピーチをすることにまったく気乗りしないのである。

乾杯

ある時、乾杯の音頭役に指名された。さっきまで講演していた講師が、この席でも挨拶して乾杯はないだろうと言い、誰か別の人に頼んでほしいと司会に言った。司会は承知しない。「じゃあ、挨拶抜きなら」と妥協し、司会もうなずいた。全員がグラスを持ち上げたのを見計らって、いきなり「乾杯!」と告げた。司会が慌て、「すみません、何か一言お願いします」と言うから、もう一度言い直した。「一言だけ言います。乾杯!」 笑いが起こり、場は白けずに済んだ。


ポツンと一言しか言わなかったこのケースは例外。儀礼色の強い場面ではことば少なめだが、何が何でもコミュニケーションせねばならない時にはこんな薄情な態度は取らない。コミュニケーションとは「考えや意味の共有」である。わかりやすく言えば、きちんと説明しないと伝わらない行為である。そんな場面でポツンと一言だけ言って幕引きする度胸はぼくにはない。ここで言う度胸とは不親切な厚かましさだ。語る場合のみならず、書く場合もポツンができない。たとえば、誰かの名言を引用する時、その名言のみで分かるはずもないのに、説明を加えずに文中にポツンと置けないのである。

一冊の本の、ある文脈から切り取られたことばは――たとえそれがよく知られた定番の名言であっても――一つの形式命題にすぎない。その名言が心に響くと思うのはすでに知っているからである。文脈無き名言は、意味も脳内を素通りして単なるこけおどしに成り果てている。ポツンと出てきた「我思う、ゆえに我在り」は何を語るか。わからない。ポツンと出した筆者もたぶんよくわかっていない。

根が饒舌にできているせいか、いやお節介な性分のせいか、ぼくは名言や諺の類を引用して孤立状態にできないのである。不親切だと思うからだ。釈迦に説法になってもいいから、意味を明らかにしたいし私見を加えたい。そうしなければ、知の見せびらかしに終わるではないか。このブログで〈名言インスピレーション〉というカテゴリー名のもと文章を書くことがある。おいしい名言だけをどこかから持ってきてポツンと示して「さあ、どうだ!?」などと大見得を切ることができない。知っていればその名言の生まれた背景も説明するし、気づいていることや解釈を過剰なまでに書く。お節介と書いたが、愚直と言うべきかもしれない。

さほど吟味もせずに、誰かの言をあたかも文の装飾品のように扱う文章に出合う。省エネ作文もほどほどにしてもらいたい。名言を引用して知らん顔できるほど偉くもなければ権威もなく、せいぜい「ペンは剣よりも強し」とやせ我慢するのが精一杯の弱者という自覚があれば、言を多く費やすしかない。言い過ぎた冗漫よりも、言い足りない怠慢こそを恥ずべきである。

書いて考える

才能の無さゆえか、ペンを手にせず紙も用意せずに考えることはできない。宙にまなざしを向けて腕組みをして考えようとしたことはあるが、まともに考えたためしがない。書きながら考え、書いたものを読んでもう一度考え、書き終わったものを繰り返し読んで何度も考える。ぼくにあっては書くことは考えることである。すでに考えたことを文章として書いているのではない。書いて考えるという行為は、先人たちの言に裏付けられ、今ではこれこそが本筋であるという確信に変わった。

言語は内なる思考の外的表出などではなく、思考の完遂である。
(メルロ=ポンティ)

「考える」ということばを聞くが、私は何か書いているときのほか考えたことはない。
(モンテーニュ)

拙く書くとは即ち拙く考える事である。(……)書かなければ何も解らぬから書くのである。
(小林秀雄)

正確に言えば、書いていない時――たとえば誰かと話をしている時――でも考えているのかもしれない。けれども、書いている時にもっともよく考えが巡っている実感がある。よく考えているとは、深い掘り下げのみならず、眺望点に立って四囲を見晴らすように広がる状態である。ことばと別のことばが、イメージと別のイメージが繋がっていく感覚が満ちてくる。ぼくの仲間が話していても、よく考えているかどうかわからない。しかし、その人が書いているものを読めば考えの程度はわかる。

okano note original

二十歳前から、何も考えずに雑文を書いてきた。書いた結果、少しは考えた足跡を認めることができた。三十歳前から定番のノートを用意し、主題を意識して書く習慣を続けてきた。その延長線上に本を書く機会に巡り合えたし、大量のオリジナルの研修テキストを著す機会を得た。書くことは考えることである。そして、考えることには苦しみが伴う。だから書けば書くほど苦しくなる。しかし、ずっと続けているうちに、やがて苦しさと楽しさが対立せずに一つの行為の中で矛盾しなくなった。つまり、苦しくかつ楽しくなった。

滑稽かもしれないが、自分のノートをOKANO NOTEオカノノートと呼んで、書くことと考えることに関するアイデンティティの紋章としている。体裁を変えサイズを変えて今に至り、書棚には何十冊も並ぶ。今年に入って、以前愛用していたバイブルサイズのシステム手帳に変え、気分も新たにして日々書き、日々読み返し、日々異種テーマと別々のページを相互参照している。趣味でも仕事でもなく、考える習慣として。


「何について書くか」についてめったに深慮遠謀しない。いろんなことに関心があるから、素材やテーマに困ることはない。在庫は増える一方、書いても書いても捌き切れないのが現実だ。などと偉そうに言うものの、いざ「なぜ書くか」という問いには少し困惑する。だらだらと気まぐれ日記を自分のために書いているのではなく、書いたものをこうして公開しているのであるから、誰かに読まれることがわかっている。書いたものを晒して読まれる状態に仕上げるだけでなく、最初から読んでもらうことを意識して書くこともある。たった一人の仮想読者の場合もあり、仲間や知人の場合もあり、テーマに関心を示してくれそうな人をプロファイリングしている場合もある。

ぼくの手書きノートは思いつきから始まる未熟でレアな文章の束だ。それでも、誰かのために書くという意識を強くして文字を連ねる。哲学者野矢茂樹は言う。

「自分の文章を読む相手をリアルに感じることだ。あなたは自分でよく分かっていることを書く。しかし、読む人はそうではない。(……)自分が分かっていることを、それを分かっていない人の視線で見つめながら、書かねばならない」(『哲学な日々』)。

ここまで言い切れるほどの自信はないが、読み手をある程度想定しなければ、文章が独りよがりになることを心得ている。時々わけのわからない術語を使ったり難文を綴るのは、まだまだぼくがテーマの難度に釣られてしまうからで、文才未だ熟していない証である。

宙ぶらりんな「なぜ書くか」にけりをつけたい。誰かに向けて書くことによって、考えるきっかけを摑めるからである(拙文を読んでもらえればささやかな考えるきっかけを摑んでいただけるからと厚かましく思っている)。書かなければ、自分も他人も見えないからである。書いて、そこからまた考えることが始まる。渡り鳥が飛び続けるように、マグロが休みなく泳ぎ続けるように書ければいい。書かなければ生命が脅かされるような気になればいい。とは言え、誰のことも意識せず、書きもせず、したがって考えもしない時間と行為は一日のかなりの部分を占めている。だから、そういう時間と行為については何も書くことがない。テーマにならないし、書くに値しないからである。

考えたいという一心で書けば書くほど、しかし意に反して、カオスに向かう。脳内が混沌としてますますわからなくなる。それでもなお、もがくようにして性懲りもなく書く。書くことをやめれば、平穏な秩序が戻ってくることを承知している。すっきりとした部屋でくつろぐように知は落ち着くだろう。しかし、これが知の劣化の始まりなのである。

カオスが常態になり習性になってしまった。手書きのノートを推敲して公開しようと思い立ったのが20086月。以来、七年半の歳月を経て、本ブログは今日1,000回という節目を刻んだ。のろまであったか、まずまずのペースであったかはどうでもいい。四百字詰め原稿用紙に換算して約4,500枚。新書サイズに換算すれば15冊に相当する文章の集積である。万感こみ上げるものなどないが、これまで書いてきた文章の巧拙がぼくの思考の巧拙にほかならない、と冷ややかに振り返っている。

わけあり考

ワケアリ

「わけあり」と言うかぎり、わけが分かっているはず。わけが分かっていながら、そのわけの子細を敢えて明かさないのが「わけあり」のようだ。いや、分かっているわけを敢えて説明する「わけあり」もある。すると、わけが分かろうが分かるまいが、明らかにしようが隠蔽しようが、わけがあれば「わけあり」なのか。漢字をまじえて表記すると【訳有り】。訳とは理由や意味のこと。理由や意味があっても内容を示さない場合はふつうによくある。ちなみに、『広辞苑』では「男女間の情事」という語釈も示して「わけありの二人」という例文を載せている。どういうわけなのかは人それぞれの解釈に委ねられる。

念のために『新明解』もひも解いてみたら、「意外だと感じられる物事の背後に何か特別な事情がひそんでいること」とある。何か特別な事情とはいかにもわけありな言い方だ。意外だと感じられるのは、実際は1万円くらいしそうなのに半額の値になっているぞという場合か。ここでの例文は「わけありの品だからこんなに安いのだ」。定義と例文は合っていそうだ。なお、「訳有り」と書くと理が優るような気がする。「ワケあり」と表記すれば胡散臭さを嗅ぎ取ってしまう。

通例としてどんな定義があるのか。楽天市場を覗いてみた。「正規品として販売できなくなった規格外品」とちゃんと規定している。正規品として販売できなくなった理由があり、それが「わけ」であり、そのわけを背負っているものが規格外品、つまり「わけあり商品」ということになる。楽天ではこのわけを次のように説明している。

1.商品の形が不均一や汚れがあるもの
2.パッケージやラベルに問題があるもの
3.製造過程で出る余りや切れ端を集めたもの
4.商品にワレやキズ、破れのあるもの
5.最新の機種から見て旧型になった型番
6.賞味・使用期限が迫っているもの

以上6項目を挙げている。細かくジャンルに分けていることに変に感心してしまった。


わけありの「わけ」をここまで詳らかにしてしまったら、わけありが持つ不透明感ゆえの引き寄せ効果が薄れてしまわないか。「背後に特別な事情」をひそめているものの、そのことを取り立てて問題視せずに不問に付すのがわけありのわけありである所以ではなかったか。わけありの「わけ」が合理的に説明されればされるほど、1から6の規格外品が、実は最初から企図されたものだったのではないかと詮索の一つもしてみたくなる。

もっとも、わけを知りたくなるのは買い手一般の習い性かもしれない。わけあり商品の「わけ」とは予想に反した安値がついていることの理由である。その理由を尋ねるのは、規格外品が正規品と同等であるかどうかを確かめたいからだろう。

「ところで、この商品はなぜわけありなの?」
「そのわけは、言えません」
「わけが分からなければ、値打ちがあるかどうか判断できないじゃないか」
「気になさるほどのわけじゃないんで……」
「そんなこと言われたら、余計気になるよ」
「まいったなあ……。教えますよ、その代わり誰にも言わないでくださいよ。実は、全然売れないというわけなんです」

売れないから安くしているというのも一種のわけありである。楽天市場の1から6のどれにも該当しない正規品であっても、売れないという理由を持つわけあり商品に成り下がることがある。

「わけありシェフのわけありレシピ」などにはどう反応すればいいのだろう。シェフはバツイチ? 調理師免許なし? 何がしかの過ちを犯した? レシピは名店料理のパクリ? 化学調味料だけの味付け? すべて冷凍食材? わけが何であるかを想像していくとわけが分からなくなる。「ぼくわけありシェフなんです」と自白したシェフには、わけを尋ねてはいけない。「へぇ~、そうなのか」とやり過ごすのがマナーである。わけを聞いて欲しそうな顔をしたら、「ところで、わけって何?」と聞けばいい。

「訳」には道理という意味もあるのだが、わけありという場合のわけに胸を張って答えるようなものはない。あれば「特徴」として大々的な売りにしているはずだ。わけありはつねに「言いにくいこと」であり「聞かれたくないこと」でなければならない。わけありの「わけ」を事細かに説明する背景には、わけありブランドを作ろうとする魂胆が見え隠れする。

ぼかし言葉よりも議論の心得

「ぼかし言葉は現代の若者に特徴的ではなく、昔から日本人は婉曲表現をよく使ったものだ」云々。この主張を聞いて、すんでのところで相槌を打つところだった。他人の話は聞き流してはいけない。疲れているときは特に要注意だ。ぼかし言葉と婉曲表現に重なりはある。クッション効果が生まれるという点では近い。しかし、両者の機能は根本が違う。

ぼかしことば

ぼかし言葉は無意味な補助機能にすぎない。「ぼく的にはノーって感じなんだけど、イエスでもいいみたいな……」という言い回しはことばも意味もぼやけている。ノーかイエスか、結局どっちなのかよくわからない。これに対して、遠回しな表現に置き換えるのが婉曲である。相手をおもんぱかって、タブーに触らぬよう、不快にさせぬよう、露骨にならぬよう言い換える。婉曲的に言っても相手に意味が伝わる。「お手洗い」と言えば便所のこと、「逝去」と言えば死んだということだ。ストレートに使うと耳障りかもしれないと案じて、棘のない別の表現で代用する。表現にぼかしは入っていない。

「わたし(ぼく)的には~」「~みたいな」「~という感じ」などが当世のぼかし言葉の代表格と言われる。ものをずばり言わないクッション機能を特徴としている。婉曲話法と違って、「~」に入れるべきことばは通常会話で用いることばと同じ。断定、明言、極論を避ける心理が働いているだけで、言い換えの工夫は凝らされない。ふつうに喋って何の問題もないところなのに、なぜ敢えて意味不明瞭にしてしまうのか。なぜ意思疎通コミュニケーションのほうにではなく、意思不通ディスコミュニケーションのほうに傾くのか。理由はいたって単純だ。波風の立たぬ浅瀬の水遊びのような会話でその場を済まそうとするからである。


とりとめのない会話ならいざ知らず、テーマのある対話では当然議論が生まれる。議論は場の空気を緊張させる。これを嫌がれば、上っ面だけの潤滑油でやりとりを和らげるしかない。こうして、ぼかし言葉が無意識のうちに使われる。会うのが一度きりの相手に対しては強気にホンネを吐くくせに、明日、明後日、その先何度も会う相手とのぎすぎすした関係は避けたい。双方がそう思えば、対話をしても「危険区域」に足を踏み入れない。バーチャルなお友達関係で良しとすれば、批判めいた言は首をすくめたままだ。議論はそんなに関係を危うくするものか。いや、真の信頼関係があれば議論で後味が悪くなるはずがない。

対話の際に意見を述べる。意見とは主張だ。加減したりトーンダウンしたりぼかしたりする主張などというものはない。主張とはある意味で「強弁」なのである。必然、相手の言い分を検証して批判する場面も出てくる。だが、対話は交渉ではない。交渉は合意を目指す。その過程で決裂もありうる。交渉の常として勝ち負けはつきまとう。だから、負ければ口惜しくもなる。翻って、対話は合意を目指すものではない。「意見が一致した」というのは議論の結果にすぎない。では、ぼくたちが対話で重視すべきは何か。双方が持論とする意見を相互に検証することだ。対話とは――そして、それに伴う議論とは――「異種意見間検証」にほかならない。

自論と相容れない意見には問いを立てる。納得できる点と疑問点のどちらも洗い出す。自分の検証フィルターを通り抜けてくる主張ならひとまず受容する。相手も同様のプロセスを踏む。こうして彼我の主張を天秤にかけ、相手が自分よりも先を読み、広く深く考えていると判断すれば素直に認めればいい。お互いがこのことをわきまえるべきである。だから、議論の前提には共通ルールが必要になる。チェスや将棋と同じだ。第三者なる審判がそこにいなくても、議論してみれば勝ち負けは自明になるものだ。負けているくせに相手を認められないのは我見が強いからである。我見は思考強化も人としての成長も阻む。

さて、ぼかし言葉でお茶を濁すような、名ばかりのコミュニケーションで日々を過ごすか、それとも直截的かつ明快な表現で議論できる関係を築くか……前者は無難だが、スリルとサスペンスを求める向きには後者のほうが圧倒的に愉快なはずである。